は白石と付き合っていることを未だ会社では隠していた。
あくまでもこれまで通りを装い、たとえ金曜の夜であっても会社の駐車場から直接白石の車に乗り込むなどといったあからさまな行為は避けていた。
いちいち職場の女子たちに値踏みされるような視線で舐め回されたり、憶測であることないこと噂されるくらいなら、多少不便でも仕方がないと思っていた。
の性格上、“彼女”という立場をひけらかして白石に群がる周りの他の女を一掃するなどといった攻撃的な思考には至らなかった。
 しかし、理由もあやふやなまま金色たちの誘いを毎回断るのは難しかった。
結局は白石とのことを金色たちだけには話すことにする。
「実は……」とことのあらましをいつもの居酒屋『ぎん』で語る。すると、金色は「まぁ♡」と喜び、一氏は「ケッ、結局は顔か!」と罵った。

「全然幸せそうに見えませんけど、とりあえずおめでとうございます」

 店を出て金色たちと分かれたあと、財前がぼそっと口を開いた。
視線は手元で光るスマートフォン。電車の発車時刻を調べているらしい。

「その意地悪な前置きいる? どうせ私は根暗ですよーっだ」

 財前に向かってわざとらしく舌を出してみたが、財前はそれを肩越しに一瞥しただけでさっさと先に駅に向かって歩きだしてしまった。財前とはアレ、、以来結局気まずいままだ。
は財前を追いかけるようなかたちで小走りなった。横に並ぶのは気が引けて、数歩後ろで速度を落とす。

「よかったスね。仕事も出来て、顔も良くて、Mr.パーフェクトでしたっけ? 自慢のカレシやないっスか」
「ほんとだね」
「他人事みたいに言うんスね」
「だってある意味他人事だもん。Mr.パーフェクトなのは白石さんであって私じゃないじゃない。付き合ってたってそこはイコールにならないでしょ?」
「ほんまはプレッシャーなんちゃいます?」
「なにが?」
「白石さんみたいなんがカレシで」
「そんなことないよ」
「周りに隠してるんがええ証拠やん」

 ぶっきらぼうだったり生意気だったりとでわかりにくいが財前は財前なりに心配してくれているのだと気づいたは「心配してくれてありがとね」と年上の女性らしく微笑んだ。

「……ほんまにアンタお人好しっスね」
「そう思ってくれる財前くんはいい子だね」

「財前くんも幸せになってね」と財前が傷つきそうな言葉をはあえて選んだ。
白石とのことがなければもしかしてあったかもしれない財前との未来を一瞬思い浮かべて、はその考えを誰にも悟られぬうちにそっと打ち消した。


◇◆◇


  妹からの誘いはの思惑通りなくなった。
ときおり連絡はくるが、この前のようにどこかに誘われることはもうない。
もしかしたら、あのとき白石の妹と連絡先を交換し合っていたから、矛先が変わったのかもしれない。
気が合う者同士好きに仲良くすればいいと思う反面、そうなれば自分と白石の関係が妹に知られるのは時間の問題かもしれないと思った。
そうなればきっと実家の母にも伝わるだろう。そこまで想像したところで、はため息を吐いていた。

 その週の金曜日、白石に急な仕事が入ったため、は珍しく白石の家に泊まらずにまっすぐ自分の家に帰宅した。
土曜日にも休日出勤を余儀なくされた白石だったが、午前中には片付くということだったので、予定はそのまま土曜日の午後に移行することにして、は久しぶりにだらしなく休日の午前を自分の部屋で過ごしていた。
さぁ、そろそろ支度でもしようと思ったところで携帯が鳴ったので白石かと思えば、またも登録のない番号だった。
「もしもし……」とが慎重に電話に応じると、「もしもし、突然すみません。誉の夫の光政です」と返ってきてので、は妹のとき以上に驚いて一瞬言葉を失った。


「すみません、急にお呼びたてして」

 がカフェに着くと、先に来ていた妹の旦那は立ち上がりに軽く頭を下げた。
彼と会うのはまだ二度目だ。そのうちの一回は結婚式のことなので実質面と向かって会話をしたのはこれがはじめてになる。

「いえ、えっと、それで大事な話って……?」

 どうしても今すぐ直接会って話がしたいという受話器越しの申し出をは「今日は予定があって」と一度は断ったのだが、相手がそれでは引き下がらなかった。
ほんの少しの時間だけでいい、場所もそちらが指定した場所までかまわない、相手の強い意思に根負けしたは結局「じゃあ……」となる。
妹がいないところで妹の夫とふたりっきりで会うのは気が引けた。
だからはゆったりと広めで席と席に十分な広さがあり、人通りの多い通りに面したカフェを待ち合わせに指定した。
下手に人目を憚って、そういう関係、、、、、、に間違われたくなかったからだ。

「単刀直入にお伺いしますね。お姉さん、現在この方とお付き合いされていますよね?」

 そう言いながらスッと一枚の写真を見せられた。
一見して隠し撮りであることがわかるその写真にはスーツ姿の白石の横顔が写っていた。
はぎょっとして妹の旦那の顔を見る。しかし、相手はの反応など見えていないかのように話を先に進めた。

「これが先々週の水曜日で、これが今週の火曜日と木曜日です。妻が、……誉が、彼と会っていることはご存知でしたか?」

 今度はA4の封筒から束になった写真が出てきた。
封筒のクレジットには興信所と書いてある。
 は恐る恐るそれを手にとり、一枚一枚確かめた。大方目を通してから、写真の束を裏返しにテーブルの上に戻した。
 先のものと同じくそれらもすべて盗撮だろう。
どの写真もほとんど横顔か後ろ姿だったが、二人であることは確かだった。

「なにが仰りたいんでしょうか?」

 は慎重に探るように尋ねた。
 おそらく、この男は自分の妻である妹より先に妻の姉であるにこのことを話していた。
なんと卑怯で卑屈な男だろうか。なにより先にそのことがに嫌悪感を抱かせた。

「誉はあなたの交際相手とふたりっきりで頻繁に会っています。それもあなたにも僕にも内緒で。これが一体なにを示すか——わかりますよね?」

 相手も冷静さを装っているが、先程からこめかみが神経質そうに痙攣してる。
そのことがかえってを落ち着かせた。

「どの写真も二人のあいだには距離がありますし、場所も大通りやデパートに見えます。光政さんが心配しているようなことではないんじゃないですか?」

 腕時計を見るとここへ来て十五分が経過していた。もう充分だろう。
馬鹿馬鹿しい話はさっさと切り上げようとが「それじゃあ」と立ち上がると、「待ってください」と不気味なほど低い声がを引き止めた。
ゾッとするような目で下から見上げれて、は思わず息を呑む。

「これが初めてじゃないんですよ、お姉さん。あなた、一年前に婚約破棄されてますよね? 理由は相手に他の好きな人ができたから。その相手が誰だかご存知ないんですね」

 男の目にはが怯えていると映ったのかもしれない。相手より優位に立てたのが嬉しかったのか男はを見てにやりと下品に笑った。

「知りませんし、知る必要性もありません」
「誉はまた同じことをしていますよ」

 はなんとか最後まで隙を見せないように心がけた。
「夫婦のことは夫婦で解決してください」と言い残し、すべての責任はにでもあると言いたげな彼を残しては先に店を出た。



 は日が傾きかけた頃に白石のマンションを訪れた。
「今日はほんまごめんな」とすでに部屋着のグレーのスウェットに着替えた白石がを部屋に迎え入れてくれる。
玄関でさっそく抱きしめられそうな気配がして、さりげなくは持っていた手土産を渡すことでそれをかわした。

「気い使わんでええ言うたやろ」
「私が食べたかったから買ってきたんです。いい香りですよ。メロン嫌いですか?」
「嫌いちゃうで。ほな、飯食ったら食おか」

 キッチンへ向かう白石の後ろ姿に一声かけてからは洗面所へと逃げた。
 鏡で自分を見ては自分が思いの外動揺していることに今更気がついた。
 の網膜にはさっき見せられた写真の画がはっきりと残っていた。
「どの写真も二人のあいだには距離がありますし、場所も大通りやデパートに見えます。光政さんが心配しているようなことではないんじゃないですか?」
そう思ったのは確かだったが、同時にそれはが自分のために考えた精一杯の辻褄合わせでもあった。
 幼い頃から見ないふりをし続けていた妹に対する劣等感が溢れ出す。
宝はずっと妹が羨ましかった。皆に、とりわけ母に、無条件に愛される妹が羨ましくてしかたがなかった。
妹が愛されれば愛されるほど、真面目でいい子を装って愛される準備を必死にしてそれでも愛されなかった自分が惨めに思えてくる。
そんな呪縛から逃れたくて外に愛を求めてみたが、やはりそれも上手くはいかなかった。
それこそ学生時代のは自分ができることならなんでもした。他人が嫌がることも、自分がやってその場が丸く収まるなら、と引き受けることも多かった。
だから、教師や友人からは高く評価された。
“便利”だと。
 努力をすれば報われる。そうどこかで信じていた自分を嘲笑うような結果ばかりだった。
 愛されたという実感がないまま成長してしまった宝は恋人ができても愛される自分というのがまるで想像できなかった。
たとえ今愛されていたとしてもいつ嫌われるかわからない。嫌われたくないと強く思えば思うほど、その思いに雁字搦めになり身動きが取れなくなる。
相手ものよそよそしい態度に次第に心が冷めいくというのがお決まりのパターンだ。
元婚約者の「他に好きなひとができたんだ」という発言もタイミング的に驚きはしたが、よくよく考えてみればこのパターンにずばり当てはまっていた。
 本当に元婚約者の“好きなひと”が妹だったのか。
 きっとそれも興信所を使って調べさせたのだろう。そういった類のものにどれほど信憑性があるのかにはわからないが、妹の夫はすっかり妻の不貞を確信しているようだったし、写真の他になにか関係を決定づける証拠でもあるのかもしれない。
そんなことを洗面所でぐるぐると考えていると白石が声をかけにやってきた。
「どないしたん?」と言われて反射的には「大丈夫です」と笑みをつくって答える。
本当は全然大丈夫なんかじゃなかった。
いつもは待ち望んでる白石の唇や指や舌が別の女の、しかも自分の妹の肌の上を這ったかと思うと虫唾が走る。

「ごめんなさい。あの、大丈夫って言ったんですけど、今日はやっぱり帰ります」
「ん? どないしたん?」
「あの……えっと、生理きちゃって……」

 この場を誤魔化すためだけの咄嗟の嘘は案外平気でつけた。
「無理して帰らんでゆっくりしてってええで?」、「必要なもん買ってきたろうか?」、「せめて車で送るで?」という白石の優しい申し出もすべて断り、は玄関で脱いだばかりの靴をまた履いた。

「本当にごめんなさい」

 はそう言って頭を下げて白石の部屋を一人で出た。
 ドアが閉まる音が終わりを象徴するようにの鼓膜に響く。
 が白石を信じきれないのは、これまでの自分のつまらない経験のせいで、白石はなにも悪くなかった。
 冷静になろう。冷静になれるまで、なにもしちゃいけない。とにかく落ち着こう。と、混乱しながらは自分に必死にそう言い聞かせて、白石のマンションから逃げるように帰った。