「くうちゃんあの人と付きおうとるやろ」
カフェを出て、たちと別れるなり妹の友香里が白石にそう言った。
友香里は白石の返事もろくに待たず、「ハイ」と自分の手荷物の新しく買った洋服やらバッグやらが入った紙袋を白石にひょいっと寄越して、自分はさっさと車を停めてある駐車場に向かって歩き出す。
そのあとを追いながら、もともと隠すつもりのなかった白石は素直に関係を認め、「なんでわかったん?」と純粋に疑問で返した。
「あの人、私がくうちゃんの妹やってわかったらめっちゃほっとした顔しとったやん」
「どういうことや?」
「え、ほんまにわからへんの?」
白石が「わからへん」と言うと、友香里に「それでよう女の子と付き合えるな」と呆れられた。
「私とくうちゃんが付き合うてるように見えたんちゃう?」
「ええっ! なんでやねん! 俺と付き合うてるん自分やって本人が一番わかっとるやろ」
「浮気と思ったんちゃう。いや、あれはちゃうか。自分の方が浮気相手だったのかもしれへんってショック受けたパターンかもな。まぁ、そのタイミングでは、ただ単にくうちゃんのこと好きでデート現場目撃して撃沈っていう可能性も捨てられへんかったけど、そのあとコーヒー注文したとき、あの人くうちゃんになにも訊かんとお砂糖もミルクも返しとったやろ? それってよっぽど他人に気い使われへん人間か、相手がお砂糖とミルクも使わへんって
妹の目敏さに白石は苦笑いした。
それにしても、と思う。
白石はに妹がいることを今日はじめて知った。しかも同じ大阪に住んでいるなんて。
そもそも、の口から家族の話が出たことはこれまでほとんどなかったことに今更気づく。
独立してしばらく経つし、遠くに離れている分親交が薄いだけかもしれないが、不自然といえば不自然だった。
逆に白石は今でも実家との付き合いが続いていた。
白石は大学は東京だったが、就職して一年も経たぬうちにまた大阪へ戻ってきた。
一人暮らしにもすっかり慣れた頃だったので、白石は実家には戻らなかったが、大して離れた距離に住んでるわけでもないので、親戚からやれりんごが届いただとかカニが届いただとかで母からは世話を焼かれ、姉や妹からは今日のように便利な荷物持ちとして重宝されていた。
白石家の権力は母にあり、姉にあり、ときには妹にあった。
物静かな父はそんな女たちに寄り添うのがうまく、幼い頃から白石はそんな父を見て育った。
白石は自然と女のわがままに耐久性がつき、それは思いかけず家族以外の女と付き合う場面でも非常に役立つスキルとなっていた。
はそんな白石家の女たちと比べると一見とても謙虚に見えた。
白石が「歯ブラシとか着替えとか置いてってもええんやで」と言っても、は「ありがとうございます」と答えるだけで、それらのものをまた来たときと同じく自分の鞄にテキパキとしまい込む。
付き合っていても、は決して白石に寄りかかろうとしてこなかった。
それを強さというと語弊が生じるかもしれない。見方によっては他人に頼れない弱さでもあり、ある意味それがのわがままな一面でもあるように感じられた。
好きにすればいい。白石はそう思っていた。
もちろん突き放しているわけではない。本気で自分の好きにすればいいと思っているのだ。
無理をしないことが一番だが、その無理をしないように強いるのは違う気がする。
どんなも受け止めてやればいい。
白石にとって愛するということはそういうことだった。
◇◆◇
とは言っても、との交際は当面順調だった。
忙しさが重なりしばらくふたりっきりの時間は取れていなかったがそれだってしかたのないことだ。
その日はちょうど外で打ち合わせが続いた日だった。
夕方過ぎにやっと会社へ戻れ、これからまた明日のプレゼン資料をまとめなければないというところだった。
あともう少しで半期の決算だ。壁にかかったホワイトボードには個々の契約件数がわかるようにそれぞれの名前の下に丸い磁石が張り付いている。
白石と今現在トップの丸井との差は三つ。追い上げられない数字ではなかった。
白石はここ数年二番手に甘んじているが、それをよしと思ったことなど一度もない。
よっしゃ、やったるでぇ! と腕まくりをする勢いで気合を入れ、マウスを操作しようとしたところで、出鼻を挫くように背後から声をかけられた。
「ちょっとええっスか」
「お、なんや財前」
「さっきサンの妹がここ来てなんやよう知らへんけど急に暴れ出したんでとりあえず空いとるミーティングルームにサンと一緒にぶちこみであるんであとはよろしくお願いしますって小春サンが言うとりました」
ん? ん? なんやて? と白石が聞き返すと財前は「せやから」と面倒くさそうにまったく同じ説明を早口で繰り返した。
「誉ちゃんが来てるん?」
「いや名前なんか知らんスわ。とにかくそういうことなんで」
「いやいやいや、そういうことなんでって全然状況がわからへんのやけど。暴れたってどないしたん?」
「そんなんもっと知りませんって。……まぁ、『お姉ちゃんばっかり幸せになるなんて絶対に許さない』って叫んどるんは聞きましたけど」
白石は眉間に皺を寄せた。
の妹が白石を突然訪ねてきたときのことが蘇る。
確かカフェで偶然会ってから数日後、今から二、三週間前のことだった。
その日の仕事を終えた白石が一人で会社から出て来たところに「こんばんは」との妹がぴょっこり顔を出した。
「おお、びっくりした。こんばんは。どないしたん? 待ってるん?」
「あ、いえ。実は白石さんのこと待ってたんです」
にこにこと微笑んだままそう言われて、白石はの妹を改めてちゃんと見た。
清楚で可憐な雰囲気は姉と似ているが、妹の方が屈託がない。自分が可愛いということに微塵も気後れしていない天真爛漫さがあった。
「実は折り入って白石さんにご相談したいことがあって」
「ん? なんや?」
「なんでもしよっかたら、これからどこかお店に行ってそこでゆっくりお話しできませんか?」
「ええで。ほな、に電話するか。たぶんまだ会社におったと思うで」
「あ、いえ、姉には内緒にしてほしいんです」
「なんでや?」
「実は姉の誕生日のプレゼントをなにするか迷っていて……。その相談を白石さんにしたかったんですけど……」
「白石さんって姉と付き合ってるんですよね?」と訊かれ、嘘を吐く理由もないので、白石は「せやな」と肯定した。
「だったら、きっと私より今の姉に詳しいのは白石さんだと思います。実は私最近こっちへ引っ越してきたんですけど、それまで姉とあんまり交流なくて。同じ大阪に住んでるんだし、これを機会に仲良くなりたいなって、誕生日がそのいいきっかになればなって、思ってるんです」
「それやったら尚更俺に聞くより自分で姉ちゃんに聞いた方がええんとちゃう? 会話すれば自然と仲ようなれるかもしれへんで」
「でも、しばらく会ってなかったせいか、姉との共通の話題が少なくって。最近の姉のことだったら白石さんが一番よくわかってるんじゃないかと思って相談したんですけど……」
「もしかしてご迷惑でしたか?」と潤んだ瞳で下から覗き込まれる。
何故一瞬でもに似てるなんて思ったんだろう。
白石は自分のスーツの裾をゆるく握ぎっている手をそっと剥がした。
「堪忍な。また今度、友香里と四人で飯でも食おな」
そのあとも何度か同じ手法で待ち伏せをされたが、白石は態度を変えたりはしなかった。
の妹は白石自身にではなく、姉の恋人としての白石に興味を示しているようだった。
誰かのものを欲しがる人間は一定数いる。
白石はの苦労を垣間見たと思った。
「まぁとりあえず、あとは頼んます」と財前に託され、白石はミーティングルームの前まで行ってみたが、中で特別暴れているなどの様子は外からは感じられなかったので、白石は自分のデスクに引き返した。
揉めている原因がわからない以上下手に介入するべきではないとし、仕事の続きをしながら二人が出てくるのを待つことにする。
それからたっぷり六時間が過ぎ、二十三時を過ぎた頃にようやくたちがミーティングルームから出て来た。
ひとが帰った部署から明かりが消されるので廊下はすでに薄暗い。
は迎えにきたらしい男にエレベーターホールで妹を引き渡し、二人をそのままエレベーターに乗せた。
後ろに立っていた白石には今はじめて気づいたようだった。
「お疲れさん」
「待っててくれたんですね。ごめんなさい」
「俺もちょうど今日までに終わらせなきゃあかん仕事あってん」
「小春ちゃんに聞いたんですか?」
白石が財前の名前を出すと、は「そうですか」と少しだけ表情をくつろがせた。
白石が「帰ろか」と声をかけようとするまえに、が「うちの妹とあのカフェで会ったあとに会ったりしましたか?」と白石に尋ねた。
嘘や誤魔化しは一切受け付けないという顔つきだったので、白石は正直にありのままを答えた。
「会うたで。誕生日プレゼントなににするか迷ってるってには内緒で相談に乗ってほしい言われたけど断った」
「それだけですか?」
「それだけや。何度か会社帰りに尋ねてこられて、あ、一回靴が壊れて動けへん言われてデパートに付き合うたことはあるけど、誓ってそんときもそれだけや」
白石はまっすぐを見つめ返した。
の瞳は葛藤に揺れていて、「もう絶対になにがなんでも妹には会わないでくださいって言ったらそうしてくれますか?」と絞り出しされた声ははっきりと震えていた。
こんなを白石ははじめて見た。
「ええで」
「……理由も聞かずに?」
「訊いても俺の答えは変わらへんから訊かへんよ」
「……なんでですか?」
いつの間に俯いてしまっていたの頬に手を当てて、視線を再び通わせた。
ふと、今ならあの夜ベッドでがなにを求めていたのか不思議とわかるような気がした。
「俺が一番大事にしなあかんのはやろ?」
の目からは真珠のような涙の粒がポロポロと溢れ落ちる。
咄嗟に白石はを抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。あの夜、を追いかけた夜から白石の心はなにも変わっていないのだと証明するように身体が勝手に動いた。
「ごめんな、不安にさせて。俺が好きなんはだけやで」
自分を繋ぎとめる確かなもの、それをは欲していたのかもしれない。
私を離さないで。私を見つめていて。私だけを——……
それは愛してほしいというあやふやな思いよりもずっと強烈でとても切実な願いに思えた。
「最近ずっと避けててごめんなさい」
「えっ、俺避けられてたん?」
が「白石さんって……やっぱり白石さんですね」とまだ涙の残る顔で破顔した。
「なんやねんそれ」と返しながら白石もつられて笑う。
ありのままを受け入れて欲しがっていたのはではなく自分の方だったかもしないことに白石は気がついた。
「好き」という言葉を糸にして互いの小指に結び合うように囁き合った。
もう決して孤独に彷徨わなくてすむように。永遠に続く約束にしようと思う。