丸井に「東京へ一緒に帰ることはできません」と伝えた日の夜。
は自宅へ入るやいなや強い違和感を感じた。
一人暮らしのワンルーム。そこで自分以外の気配を感じたのだ。
気配というと確かではない。残り香とも言うべきか。
心霊の類かともよぎったが、あいにくにはそういうものを感知できる特殊な能力を持ち合わせている自覚はなかった。
気のせいだ、と自分に言い聞かせつつ、玄関で恐る恐る靴を脱ぐ。
気のせいだ、気のせいだ、と念じながら足が一歩進むごとに鼓動が早くなった。
部屋の電気をつけて、誰もいないことを確認して、一息つこうとしたその瞬間、は短い悲鳴をあげた。
はなにも考えられぬまま、とにかく部屋を飛び出した。
の住んでいるマンションは大通りから一本入った路地に建っているし時間も時間なのでアパートの前に人通りはない。
足が勝手に人がいそうな方、いそうな方へと向かった。
なんとか無事に駅前につき、はとりあえず目に止まった二十四時間営業のファミレスに入る。
店内を見渡すと二十三時をまわっているこの時間でさえ、四割近くの席が埋まっていた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
店員に話しかけられてもはすぐに応えられなかった。
店員が訝しそうに自分の手を見ているのに気づいて、はじめて自分の手が震えていることに気づく。
その震えを片手で押さえて「コーヒーを」となんとか応えた。
「ドリンクバーでよろしいでしょうか?」
がうなづいたのを確認すると店員はドリンクバーの場所を説明して奥へ戻っていった。
にはコーヒーを取りに行くより先にしなくてはならないことがある。
それはわかるのだが、頭が正常に働かない。恐怖がの脳を萎縮させていた。
怖い。怖い、怖い、怖い。助けて。助けて、誰か。
は携帯を握りしめながら、その“誰か”を強く思い浮かべた。
震える指で通話ボタンを押そうとしたそのときに、ふと視線を感じて顔を上げるとそこには——
「財前くん!」
人前であることも関わらず大声で名前を呼ばれた財前は思いっきり顔をしかめたが、すぐにの様子がおかしいことに気づいたようで、立っていた出入口付近からのそばまで来てくれた。
「どうかしたんスか?」
財前の顔を見た途端、全身の力が抜け思わず安堵の涙が溢れそうになったのをはやっとのことで我慢する。
あわてて誤魔化すように「財前くんこそ今帰り? こんなに遅くまで会社にいるの珍しいね」なんて無理をして笑顔をつくったが、財前はそれを無下にする。鋭い視線は早く本題に入れと語っていた。
「……家にね、誰か入ったみたいで」
「ハ?」
「あ、いや、私もよくわかんないんだけど……、よくわかんないんだけど、まったく身に覚えのないくまのぬいぐるみがキッチンカウンターに置かれてて……」
はその光景を思い出しでゾッとした。
なぜかくまは全身しとしと濡れていて、滴る水がキッチンカウターの下に小さな池をつくっていた。
首は半分ちぎれて綿がはみだし、取れかかった虚ろな目がの姿を鈍く写す。
悪意を感じるには十分なほどの演出だった。
「警察には?」と訊かれて、は首を横に振った。
「とりあえずここ出ましょか」と言われては財前に従った。
「駅前にビジホあるんで、そこでええっスよね」
本来なら受付を終了している時間帯だが、オフシーズンということもあり空室が多いせいか、フロントは嫌な顔ひとつせず対応してくれた。
「二名様でしょうか?」と尋ねられ、は「あ、いえ、私一人です」と答えながらチェックインの書類に必要事項を書き込む。
何も言わなくても財前は部屋の前まで送ってくれた。
「ごめんね、なんか。今日はありがとう」
やっと少しほっとしたところで、財前とはあの駅での突然のキス以来気まずい状態のままだったことをは今更思い出す。
急にバツが悪くなり「今度なんか奢るね。そうだ、今受け持ってる案件に和菓子屋さんがあって、そこのお菓子美味しかったから今度差し入れするよ。じゃあ」と部屋のドアをすかさず閉めようとすると、財前がそれを制した。
驚いて見上げると、財前としっかり目が合ってしまい心臓が痛む。
「このドア閉めたら泣くんスか」
が「泣かないよ」と笑って受け流そうとすれば、「独りで泣いて寂しないんですか」と返ってくる。
「……傷抉るのやめてよ」
なけなしの強がりを暴こうとする財前をは涙目で力なく睨んだ。
どういう意図があって今こんなことをに問うのか。意地悪にもほどがある。これが今までの仕返しのつもりなんだとしたら大成功だ。
そんな考えが一瞬過ったが、本心では違うことをすでにはわかっていた。
いつもの財前だったらこんな面倒ごと積極的に関わったりしないし、ましてや自分から深入りなんてしたりしない。
あのときのキスだって、いやその前から。
一緒にいる時間も多くて、好きな音楽や食べ物も似ていて、そばにいて安心できる数少ない相手——財前も自分のことをそんな風に思ってくれているんじゃないか。
手を伸ばせば届くところにいる関係。
壊したくなかった。失いたくなかった。
欲をかかずこのままこの関係を“恋”や“愛”にシフトさせなければ、得られなくても失わない。
はずっと甘えていたのだ。そんな狡い自分を許してくれる財前に。
ドアノブを固く握りしめていたの手に財前の手がそっと触れた。
「俺が、そばにおりましょか」
「どうしたの? 今日はやたら優しいね。あ、さてはさらにたかる気でしょ。抜け目ないなぁ」とおどけて、この期に及んで必死に財前の気持ちに気づかないフリをしようとしたがそんなのはどだい無理な話だった。
「こんなときくらい誰かに頼ったってええんちゃいます」と重ねられた手を、はすでに握り返してしまっていた。
「財前くん、手冷たいね」
「さんはあったかいっスね」
繋がれた手はそのままに、はベッドに横になり、財前はそのとなりの椅子に置いて腰をかけていた。
淡いルームランプだけが灯った部屋は優しい影を落としていて眠りを誘う。
「昔さ、『手が冷たいひとは心があったかくて、手があったかいひとは心が冷たいひと』っとか言わなかった? あれ、当たってるのかもね」
「ほんならアンタは冷たないとおかしいやろ」
眠るまでそばにいて、というのわがままはすんなり快諾された。
いつもと変わりないたわいのない会話。たぶん、財前はをこれ以上不安にさせないように意図的にそうしてくれているのだろう。
ベッドに入ってこないのもそういう気遣いなのだろう。財前はただただの心に寄り添ってくれた。
自分なんかよりよっぽど大人の精神を持ち合わせているのかもしれないとは思う。
「あ、さっきフロントに『一人です』って言っちゃった」
起き上がろうとしたを財前が「そんなんあとでどうとでもなるやろ」とやんわりと止めた。
「それより他にしてほしいことありませんか?」と尋ねられはほとんど反射的に「だいじょうぶ」と応えながら、また横になった。
まぶたが重い。なんだかとても眠かった。
「それアンタの口癖っスね」
呆れてはいるがそんなところも愛おしいのだと言いたげな財前の眼差しは優しい。
は心の底から安心して眠りにつくことができた。