事件はが思っていた以上にあっさりと解決した。
は財前に言われて事件が起きた翌日仕事を休んだ。
その間にどうやら財前と金色が動いてくれたようだ。
がその次の日に出社すると、となりの塚本のデスクが綺麗さっぱり片付いていた。
始業してまもなく、は法務部に呼ばれた。
ブラインドがすべて降ろされた一番小さなミーティングルームは薄暗い。
の向かいに座った塚本は絶対にの方を見なかった。
本来なら社員同士の個人的なトラブルに会社は関与しないが、手助けできる部分はするつもりである、ということを同席している弁護士が説明する。
被害届を出すつもりはあるか、と訊けれて、は「いいえ」と返事をした。
今後同じようなことは一切しないとする旨の念書に塚本がサインをして解散となった。
塚本は別の部署に移されるらしい。
塚本からの謝罪は最後までなかったが、それでいいとは思っている。
塚本の行動は予想範疇を超えていたが、その理由はの想像の範疇内だった。
表向きは業務中でのコミュニケーションのすれ違いで塚本がを恨んでいた、ということになっているが本当のところは違うだろう。
そういえば、以前財前がを家まで送ったあと、自宅の鍵を会社で返してもらったことがあった。
もしかしたら、それを見られて誤解されたのかもしれない。
だとしても、それを誤解だと主張する気はにはもうなかった。
その日、仕事が終わると財前からメッセージが届いた。
〈今週末空けといたんで〉〈不動産屋行きましょ〉と立て続けに二件。
は〈財前くん、引っ越すの?〉と的外れな返事をして財前を呆れさせた。
〈阿呆か。引っ越すんはそっちやろ〉
〈? 更新までまだあと一年以上あるよ?〉
〈あんなことあったら引っ越したくなるんが普通ちゃいます?〉
〈ん〜……引っ越した方がいいかな?〉
〈俺やったら絶対引っ越す〉
としては鍵はすでに代えたのでそれで済まそうとしていたのだが、財前の〈今週末空けといたんで〉〈不動産屋行きましょ〉の二件のメッセージをさかのぼって読みなおして考えを変えた。
〈財前くんも一緒に部屋探すの手伝ってくれる?〉
が何秒かためらって送ったメッセージの返事はすぐに返ってきた。
〈はじめからそう言うてるやろ〉
つくづく自分は現金だなとは思った。
◇◆◇
入った不動産屋で「お二人で住まわれるんですか?」と訊かれて、は「あ、いえ、私一人です」と答え、軽いデジャビュを覚える。
その日のうちに三件内覧したが、結局はピンとこず契約するまでには至らなかった。
「今日はありがとう」
駅の改札前。はここから北口へ。財前は南口へ。
今立っているほとんど同じ場所では財前にキスをされた。それが随分昔のことのように感じられる。
あのときとは逆に、今度はが財前を引き止めた。それは思った以上にとても勇気のいることだった。
財前も、あのとき同じ気持ちだったんだろうか。
は「これからなんか予定ある?」と財前の目を見ずに一息で尋ねた。
「いや、もしよかったら夕食うちで食べないかなって」
「お礼やったらさっきカフェでしてもろたんでええっスわ」
財前の予想外の答えにはショックを受けた。「……そっか」とつぶやくのがやっとだ。
受け入れてくれていると勝手に勘違いしていたことが恥ずかしい。
馬鹿みたい、とは自分で自分を罵った。そして、そんな馬鹿みたいな自分をこれ以上財前に見せたくなくて「じゃあね」と慌てて立ち去ろうとする。
「“お礼”ちゃうんやったら行ってもええっスよ」
背中越しにかけられたその言葉がどういう意味なのかわからないふりはもうしない。
は振り返って「お礼じゃない。私が財前ともっと一緒にいたいだけ」と正直に伝えた。
は料理を盛り付けているあいだもキッチンカウンターからことあるごとに財前の様子をそわそわと窺っていた。
かすかに腰を浮かせた財前を目ざとく見つけたは「ん? なに、どうしたの?」とすかさず反応する。
「水。貰えます」
「あ、うん。えっと、一応お酒もあるけど……」
財前は意外にも「水で」と答えた。
パックから出して盛り付けた惣菜をキッチンカウンターに並べるついでに水道水を注いだグラスも出す。
「……つか、“夕食うちで食べへんか”って女子が誘うんやったらそこは普通手作りなんちゃいますの?」
「ごめん。でも、ほら、失敗して変なの食べさせるより、よっぽどいいかなって!」
「しかもなんで立食スタイルやねん。パーティーか」
「それもごめんって! いろんなことで頭いっぱいでウチにイスがないこと忘れてたの」
財前は心底呆れながらフォークで適当に惣菜をつついた。
用意を終えたもそんな財前のとなりに並んで食べはじめる。確かに財前の言う通りおかしな状況だった。
「なんでこの家こんな家具ないんスか」
それは至極真っ当な疑問だろうとは思う。
「大した理由じゃないんだよ? 引っ越す前の家具はほとんど処分しちゃっててね、だからこっちに引っ越してからいろいろ買えばいっか〜って思ってたんだけど、仕事始まったらバタバタしちゃって、なんとか洗濯機だけは買ったんだけど、大きな買い物するのってそれだけで労力とか精神力結構使うじゃない? それで、なんか“ま、いっか”が続いて今に至るというか……」
がごにょごにょと言い訳するとなりで、財前ははぁとこれみよがしにため息をついた。
早くも自分のダメなところばかりがどんどん明るみになるのでは勝手にひとり落ち込む。
夕食を終えて、間を持たせるためには映画をつけた。
この部屋で唯一くつろげる場所であるマットレスをソファ代わりにして、本を積み上げて高さを調節したMacBookで『アメリ』を観る。
セレクトは財前だ。以外性にが驚くと「このヒロインちょっとアンタに似てるんスわ。空回りばっかで」と憎まれ口を叩かれる。
物語の途中で財前が立ち上がったので、それまで映画に集中していたも密かに身を強張らせた。
「トイレ、どこっスか」
「え、っと、トイレは玄関の前の左側」
「シャワーはその奥?」
「うん、そう」と答えてからはハッとして財前の顔を見た。
「なんやねん。そのつもりで俺のこと部屋に誘ったんやろ。映画終わったら借りますね」としれっと言う財前はいつもに増してクールだ。
映画が終わり、それぞれシャワーを浴びて、わかっていたのに身体を優しく押し倒されれば、の緊張は最高潮に達した。
はじめて身体を許したときでさえ、こんなには緊張していなかったように思う。
年下の財前に対して、はどこかでまだ負い目や引け目を感じていた。
自分より四つも年下である財前に自分がどう映っているのか。はそれを考えると不安で不安でどうしようもなくなる。
はたまらず「あ、あのね、」と待ったをかけた。財前はこの期に及んで、と言いたげに眉間にシワを寄せていた。
「私、別にテクニックとかないよ? いや、四年分の経験値を期待されても応えてあげられないから、あらかじ——っんん!」
突然無理矢理キスされて言葉が途中で途切れてしまう。
「さっきからゴチャゴチャうっさいスわ。女はただ男の下で喘いどいたらええねん」
強引なキスとは裏腹に財前の指先が優しくの頬に触れる。
「なんも心配せんと俺に抱かれてください」
が小さくうなづくと、すべてを奪われるような情熱的なキスが再開した。