さん」

 どさくさに紛れて初めて名前を呼んぶと、甘く濡れた声で「光くん」と返ってくる。光くん、すき、と。
音の震えが鼓膜に伝わり熱を持ったまま身体を下る。
 背中を這う桜貝のような爪も、甘えるように寄せらられた普段は前髪で隠れたおでこも、すべてが愛おしい。
ずっと触れたかったその肌は財前のためだけに淡く色づいていた。
今ならどんな些細なことだって見逃さない気がした。
がなにを求め、なにを望んでいるのか。
五感のすべてでそれを感じ取り、叶えてやることができるのは自分だけだとすら思えた。
くぐもった吐息の合間に溢れる小さな悲鳴が財前を酔わせる。
 全部終わったあともふたりはぴったりとくっついて眠った。
朝がきても覚めない夢を一緒に見る。そう思えばもうなにも怖いものはない。
はずだったのに——

「光くん、起きた?」

 まだ覚醒しきっていない頭に健全で爽やかな声が届く。
カーテンの引かれていない部屋はやはり眩しい。財前は目を細めて声がした方を視線で探る。
「おはよう」と微笑むはすでに着替えも済ませテキパキとした動きでキッチンに立っていた。

「朝ごはん用意しようと思うんだけど、光くんも食べられる?」

 声をかけられても寝起きの頭ではすぐに処理できない。
 昨日腕の中に確かにあった温もりはすっかり冷めていた。
エプロンをつけて甲斐甲斐しく朝食の用意をしているはオフィスで真面目に仕事をこなすのそのものだ。
誰にでも見せる装いきの姿。やっと縮まった距離が一夜にしてまた遠のいた気がする。
 なにも答えない財前に向かって「えっと、食パンと、紅茶と、あとえっと目玉焼きかスクランブルエッグとかも……あ、昨日のサラダも少し残ってるよ」とからは提案が続いた。
それでも答えが返ってこないと「それとももう少し寝る?」とさらに選択肢の幅を広げた。彼女の後ろでチンッとなにかの電子音が鳴る。
 財前はしょうがなく「……起きます。朝飯は……適当でええっスわ」と答えながら昨夜脱いで放ったままだった自分のティシャツに首を通した。
日曜日に朝食をとるなんて久しぶりだ。

「今日も部屋見に行きます?」
「う〜ん……そうだねぇ……」
「どないな部屋がええとかないんスか? 駅近がええとか、南向きがええとか、バストイレ別がええとか、条件なんぼでもあるやろ」

 これまた「う〜ん……」と唸りはじめたが「広さ、くらいかなぁ」と呟いた。

「なんていうか物がたくさんある空間は苦手なんだよね。だからまぁ、床面積はあるにこしたことはないんだけどね。でも、そうなると高くなるんだよなぁ〜」

「どうしようかな」と言いながら昨夜の残りのサラダにフォークを刺すを視線の端にとらえつつ、財前はなんてことないように「ほな、一緒に住みます? 二人で家賃出した方が広い部屋に住めるやろ」といつもの抑揚のない口調で言ってみた。
本当は一緒に部屋を探そうと誘ったときから財前の頭にあったことだ。
 沈黙が続くあいだ財前は構わず食パンを齧った。焼かれただけのパンは味も素っ気もない。

「……いいの?」

 財前は浮ついた気持ちを微塵も感じさせず「ええんちゃいます」とすげなく答えた。


◇◆◇


 あまりの騒がしさに財前は眉をひそめた。
だがしかしそんなことお構い無しにとなりの切原は「あ、俺ビールおかわり!」と店員を大声で呼ぶ。
普段なら適当な理由をつけて回避する会社の飲み会も気心の知れた同期会であれば話は別、というわけでもなく研修後まっすぐ家に帰ろうとした財前を切原が無理矢理引き止めただけことだ。
 運ばれてきたビールをグビグビと飲み干した切原は思い出したように「あ! そういえば、お前さんと同棲してるってマジ?」と尋ねてきた。デリカシーという文字は切原の辞書にはないらしい。
案の定、同じテーブルを囲む同期の奴らが餌に食いつく池の鯉のようにその話題に食いついてきた。

「財前、お前彼女できたん!? 誰や誰やどこの女や」
「ほら、さんってデザイン部のひと」

 切原が「このひと、このひと」とスマートフォンの画面を指差す。会社の飲み会で撮ったのらしき写真をピンチアウトして拡大すると控えめに笑うの姿があった。
財前は切原からスマートフォンを借りて、なに食わぬ顔でその写真を消去したが、そこそこ酔っている切原は話に夢中で気づいていないようだ。

「このひと、去年にウチに中途で入ってきたひとやろ」

 切原が「そうそう」と自分のことのように答える。

「確か財前より年上ちゃうかったっけ?」

「そう……だっけ?」と切原が財前の方を見る。仕方なく財前は「まぁ」とだけ答えた。

「歳なんぼ?」
「なんでやねん」
「いや、実は俺も彼女歳上やねん。上って言うても一つしか違わへんから二十六なんやけど、最近地味に結婚へのプレッシャーすごくてな」

「付き合ってどんくらい?」と切原が訊くと「ん、二年ちょい」と返ってくる。

「普通にケッコンすればよくね?」

 と言う切原に対して「そやねんけどなぁ……」とその同期は言葉を濁す。

「好きだから付き合ってんだろ?」
「いや、まだ遊びたいっちゅうか年貢の納めどきにはまだ早いっちゅうか……しかもめっちゃ嫉妬とか束縛も激しくてこれが一生続くかと思うと……」
「それはお前が浮気するからだろ?」
「してへんて! ちょーおっと飯行ったり、遊んだりするくらいやで」
「それ浮気だろ?」

「エッチはしてへんからセーフ」という解に「俺、お前とは絶対付き合いたくねぇ!」と切原が叫んだ。

「つーか、そういう浮気ってどうやってバレんの?」
「せやから浮気とちゃうって。……まぁ、あれやな。大抵はスマホ」
「え、勝手に見られんの? 通知? ロックは?」
「勝手っちゅーか……『見せろ』言われて『ハイ』みたいな……」

「お前がっつり尻に敷かれんじゃん」と爆笑するのを切原は無視され、「財前はそういうんないん?」と財前の方に話が戻る。
 もし自分が浮気をしたとして、は嫉妬に狂ったりするのだろうかと財前は想像してみたが、あいかわらず“物分かりのいい年上の彼女”を演じ続けている姿の方が断然しっくりくるから忌々しい。
寛容といえば聞こえはいいが、それは暗に愛情が薄いだけではないか。
「財前くん」が「光くん」に変わったくらいでは満たされなるはずがない。
もっと甘えてほしい、頼ってほしい。信頼は愛情だ。
このままその他大勢と同じような扱いを受けるなら、恋人である自分の存在意義があまりにもなさすぎる。
 財前がと一緒に暮らしはじめて早一ヶ月。
もう何度も抱いているのに、初めて抱いたあの夜以降財前が安堵感に包まれて眠りにつくことはなかった。
寝ても覚めてもぬるま湯のような現実が続いているだけである。

「まぁ、さん一回失敗してるみたいししばらくはそういうのはないんじゃね?」

 切原がなんてことないようにつまみの唐揚げを口いっぱいに頬張りながら言った。
すかさず同期が「なんやねん、それ」と律儀にツッコむ。
切原はまだ口をもぐもぐさせながら、「なんか前の彼氏に結婚式直前に逃げられたんだって」と言いビールで唐揚げを流し込んだ。
なんで俺も知らんようなことをお前が知っとんねん、というツッコミを素直に口できる財前であればとの関係もまた少し形が違っていたかもしれない。


◇◆◇


 財前が目を覚ます頃にはこのあいだIKEAで買ったテーブルに朝食が並んでいる。
夕食は帰宅時間がバラバラなので各自で済ませるということにしていたはずだが、が先にの日は〈夜ご飯作ります。残しておくから、よかったら食べてね〉と財前に連絡が入る。
忙しくて一緒に食べられないときもあるが、もちろん文句を言われたことは一度もない。
料理も掃除も洗濯も、財前がやろうと思うとすでにがすでに済ませていることが多く、財前が先回りして「それ俺がやるんで」と宣言しても「ついでだからやっちゃった」となって結局なにもさせてもらえない。
世の男はこの状況を羨むのだろうか。帰り道すがらそんなことをぼんやり考えているとスーパーから出てくるの背中を見つけた。

「あ、光くん! おかえり!」
「……これから飯作るんスか」
「うん、そのつもり。メールしようと思ってたんだけど遅くなってごめんね。もう食べちゃった?」

 財前が首を振ると「よかった」とは笑った。
 家に着くなりは手洗いをすませてテキパキと料理の支度を一人ではじめた。
「さっと作っちゃうからちょっと待っててね」と声をかけられ、なにを言っても無駄たとわかっている財前は大人しくリビングのソファーに腰を下ろし意味もなく自分のスマートフォンをいじった。
ふと、目の前のローテーブルにのスマートフォンが無造作に置かれているのが目に入る。
それでつい先日の切原たちとの会話が蘇ってしまった。
現代においてスマートフォンは個人情報の庫で、本人の許可なく触れるなんて恋人同士であっても言語道断だ。
それを理解しているから「どうかした?」と急に後ろから声をかけられて伸ばしかけていた手がビクリと止まった。
だが、「もしかして鳴ってた?」と問うは微塵も財前を疑っている様子はない。

「……見られて困るもんとかないんスか」

「スマホに? ないよそんなの」と可笑しそうに笑うに財前は無性に腹が立った。

「ほな、白石サンとはどうなっとるんですか」

 答えられないに「丸井サンとは? 仁王サンとは? あとついでに謙也サンともなんや連絡とっとりましたよね?」と追い打ちをかける。
最初は「なに言ってるの?」と笑って取り繕うとしただったが、財前の鋭い眼差しを受けすぐに誤魔化しきれないと悟ったらしく、「私が好きなのは光くんだよ」と真面目に答えた。財前の目をしっかりと見てまるで小さい子供に諭すような態度。
しかし、答える前に小さくため息を吐いたのを財前は見逃していなかった。

「模範解答っスね」

「おもんな」と吐き捨てた財前は「俺もう寝るんで飯いりません」との顔も見ずに一人先に寝室へと入った。
借家の薄い扉一枚越しに微かな生活音が聞こえる。しばらくするとそれも止み、そうっとがダブルベットに入ってくる気配がした。
このベッドも先日IKEAで買ったものだ。
結局家具はほとんど財前が一人暮らしで使っていたものをそのまま使っていたが、テーブルとベッドだけは新しいものに買い替えていた。
ダブルとセミダブルどちらにするか迷って、ダブルがいいんじゃないかと言ったのはだ。
こういう日が来ることを見越しての選択だったのだろうかと勘ぐってしまう。
ダブルベッドの端と端。こんなにこのベッドが広く感じたのははじめてだ。