早く会社に着いたところで給料以上の労働をする気もないので財前は人もまばらなオフィスで適度にダラダラと過ごしていた。エンジニアは夜型が多い。
財前は元よりもっと稼ぎたいとか出世がしたいとかいう類の欲は大して持ち合わせていなかった。
がそういう男を望むなら多少考えを変えないこともないが、が財前にそういうことは求めている様子はない。
ダラダラと続く日常をダラダラと続ける。毎日カレンダーの終わった日にバツ印をつけていくような几帳面な生き方は性に合わない。
そもそも財前は物理的に存在するカレンダーをここ数年買った記憶がなかった。
は確か革製のカバーの小さな手帳を持っていた気がする。
技術開発部とデザイン部は廊下を挟んで向かいにある。まさに目と鼻の先だ。だが、意外と一日顔を合わせないまま終わる日も多い。
だから今日もわざとではなかった。わざとではなかったが、一日顔を合わせず終わった。もしかしたら、の方が避けていたのかもしれないと思い当たり、そう考えると自分のことは棚に上げて腹が立った。
だったら今日はもう家に帰るのはやめようか、と財前の中に投げやりな気持ちが湧いてくる。
数日くらいどこか外で過ごしたっていい。いくら適当にこなしていたとはいえ一日中働いたあと空気の重いあの部屋に帰るのは確かに気詰まりだ。
問題が起きたとき、財前はそれを自ら積極的に解決していこうとするタイプではない。
どちらかといえばことなかれ主義で無駄なエネルギーは極力使いたくない省エネ派。
大概のことは時間が解決してくれるし、もしくは誰かのためになにかのために積極的になれる自分以外の誰かが頼みもしないのに勝手に解決してくれると思っている節があった。
ほっておけばいいものを、目の前で困っているひとがいれば助けずにいられないのか自ら面倒ごとを背負い込むような偽善者を財前はどこか冷ややかな目で見てすらいた。
だからのことだって最初はどちらかといえばそういう理由から嫌厭していたはずだった。
自分とは真逆の存在。
今思うとだからこそ惹かれたのかもしれない。
財前は結局家に帰ることにした。
大げさでもなんでもなく、今日帰らなければとの関係に決定的なヒビが入るのがわかっていたからだ。
間取り的に外から部屋を見上げても部屋に明かりがついているかはわかりにくい。
財前はマンションの下について、ふとの方が帰ってこない、という場合もありうることに気がついてしまった。
ドアを開けるとしんっと静まった真っ暗な部屋。おかえり、と出迎えてくれる声はない。
一歩一歩部屋に近くごとにそんな光景が脳裏に浮かぶ。
それを断ち切るように、財前は鍵を差し込んで一呼吸の間もあけることなくドアを開けた。
開けた瞬間、予想に反して甘く懐かしい香りに包まれる。
「おかえり」
いつも通りの声がキッチンから聞こえてきて、財前は思っていた以上にほっとした。
「連絡するの忘れちゃってごめんね。今ちょうど出来上がるところだから一緒に食べれる?」
ことさら朗らかな笑顔を向けられると目をそらしたくなり、財前は「手洗ってきます」と理由をつけて洗面所に踵を返した。
泣きたくなるような優しい香りの正体はデミグラスソースの香りだった。
とろりと煮込まれた濃厚なソースの中にはキノコや野菜の他にハンバーグが入っていた。これはわざわざ焼いてから煮たのだろうか。
があまり料理が得意ではないことを財前ははじめから知っていた。それでも日々一生懸命それをこなしていることこそなりの愛情表現なのかもしれない。
そう思えばもまた不器用な人間だ。
今夜、はなにを想ってこの料理を作ったのだろうか。ひとりキッチンに立つ寂しそうな背中が浮かぶ。
食事を終えて早々に皿を洗い出すのとなりに並び、財前は「昨日はすいませんでした」とやっと謝った。面と向かって言えないのが人付き合いの苦手な財前らしい。
も財前の顔を見ずに手元に視線を落としたまま小さくを首を横に振った。
「わかってるの。なんでも全部やるのって押し付けがましいっていうか息つまるよね。ちょうどいいっていうのが昔から苦手で……ってこれいいわけか。これからはちゃんともっと頑張るから」
そこで不自然にの言葉が途切れた。タイミング悪く湯沸かし器が鳴る。
「あ、そうそう今日金曜日だから久しぶりにお湯張ったんだ。先入る?」と訊かれ、「いや」と財前が答えると、「じゃあぱぱっと入ってきちゃうね」とが体よくこの場から逃れようとしたので、財前はの腕を掴んで捕まえた。
「せっかく入れたんやったらゆっくり入ってきたらええんちゃいます」
「でも、ほら、ウチ追い炊きないから二人とも入るなら先のひとはささっと入らなきゃお湯冷めちゃうし」
「そんなお湯足せばええだけの話やろ」
「もったいないよ」
「たまになんやしそんくらいええんちゃいます」
「でも」とまだうるさいを抱き寄せて、財前は「これからはちゃんともっと頑張るから、なんスか?」と尋ねて黙らせた。
もしかしたらこれまでもそうやって本当に言いたかったことは飲み込んできたのかもしれない。
知らず知らずのうちに見逃してしまっていた“助けて”のサイン。今日は見逃さない。
ぎゅうっとの身体を強く抱きしめていると、最初は遠慮がちに財前の背中にまわされていただけだったの手が次第に意思をもって強張っていくのがわかった。
「もっとちゃんとする。光くんが嫌な思いしないようにもっとちゃんと頑張る。だから……」
ポタン、と足元のフローリングに雫が落ちた。
——嫌いにならないで
心のどこかでこうやって自分の胸で泣く姿を望んでいたはずなのに、いざそうなってみると自分が泣くより辛くて、そんなことを望んでいた自分がどれだけ幼稚だったかを思い知らされる。
救ってやりたい、守ってやりたい、なんて痴がましい。でも、それを承知のうえでやっぱりそうしてやりたいと思う。
結局冷めてしまった湯船には湯を足した。風呂上がりは仲直りの口実に財前が買ってきたそれぞれ違う味のアイスをふたりで分け合いながら食べた。
「なんかついいろいろしゃべっちゃうんだよね、切原くん相手だと」というには念の為釘を刺しておいた。
◇◆◇
「光く〜〜〜ん」
遅く帰ってきたが先にソファで寛いでいた財前にいきなり抱きついた。
いつもなら靴を揃えて、手を洗い、荷物をしまってからリビングへ来るのに今日は違う。どうやら相当まいっているらしい。
よしよし、と財前がの頭を撫でてやるとぐりぐりと額を擦りよせてくる。
「なんかあったんスか」と問えば、「うんうん。なんでもない」と平気で嘘が返ってきたから相変わらずだ。人間そうそう変われやしないということだろうか。
はそのままの体勢でしばらく動かなくなったかと思えば、「充電完了っ!」と突然起き上がり、「よし! ごはん作ります!」とキッチンへ向かおうとするので、財前は素早く後ろから抱きしめて自分の腕の中に閉じ込めた。
「なに勝手に一人で満足して終わらそうとしとんねん」
甘えたいときは甘える。お互いに。
自分が率先して甘えることでが罪悪感なく甘えられるようになるんだったら安いもんだ、と財前は思う。
年下だとか年上だとか、男だとか女だとか、そんなものは対等である恋人同士なら関係ない。
「どうかした?」
「どうもせんのに甘えたらあかんのスか」
「……アカンくないよ」
「好きやで」
「嬉しいけど照れる」
「可愛いっスね」
「……最近光くんリップサービスすごいね」
「アンタが照れてるの見るのおもろくて好きなんスわ」
「ひどい」と言っては口を尖らせ可愛い顔でスネるので頬にキスをしてご機嫌取り。
すぐに「もう」と絆されてくれるのも織り込み済みである。
この家は少しでも心安らげる場所になっただろうか。
それを訊くのは野暮かもしれない。今のの表情を見れば十分すぎるほど答えが出ているのだから。