ぼそぼそと聞き取りにくい説明の声をさえぎって教室の引き戸が豪快な音を立て開き、それまで滞っていた室内の空気が一気に吹き抜けた。その場にいた者の注意がそろってそちらに誘われる。
背が驚くほど高い男子生徒が視線が自分に集まることなど気にせず、ましてや遅刻を特別悪びれる風でもなく、ひょいっとかがむようにして入口をくぐりながら教室に入ってきた。服装はどこか異国の民族を思わせるラフな感じで、彼がまとうゆるい空気を助長していた。
典型的な自由人。まさにそんな感じだ。
もし、自分がこんな状況なら、たじろいて教室には入ってこられなかったかもしれないと思う。というか、自分だったら間違いなく極力音を立てないように、後ろのドアから忍者のように潜り込んでいたに違いない。いや、そもそもこんな盛大な遅刻なんてしないけど。
適当に入口付近の席に座ればいいのに、彼はある意味律義に後ろ方までやってきた。
浅黒い肌にエキゾチックな顔立ち。特に大きな眼が印象的で──ふとその大きな眼がわたしを見つめ返したような気がして、慌てて下を向いた。他人をじろじろみるなんて失礼だったと我にかえり、心の中で「すみません」と謝りながら、だってこんな注目を浴びるような登場をしたんだからしかたないでしょ、と文句も浮かぶ。
わたしが座る席の一つ後ろの列にその男子生徒はドカッと腰を下ろした。図体が大きい分、所作もうるさい。しかもまだ寒さの残る春先になぜか素足に下駄。……得体が知れなくて正直関わりたくないタイプである。こわいな。自分とは何もかも違いすぎて理解できない。
自分の後ろに誰かがいる微かな嫌悪感に目をつぶり、わたしはなんでもないそぶりであらためて前に集中しなおした。
またぼそぼそと話す聞き取りづらい説明が再開する。
「えー……先ほども説明した通り、みなさんには科の代表として、この企画展を進めていただきたく思います」
小高い丘の上にある私立の美術大学に入学して早三年。わたしはいつのまにか科の代表になっていたらしい。
年度が変わってすぐ、レポートを提出するために寄った事務室で助手のひとりに声をかけられた。
今度のオープンキャンパスで来場者向けに特別展を開催するにあたり、出展してくれる生徒を募集しているとのこと。「出てくれないかな?」とまるで友人のように気軽に頼まれる。この助手は昨年は本科の四年生でつまり先輩だ。学校側というより生徒側の人間であることを自分でも自覚しているのだろう。
「いいですけど……」
そこまで深く考えず了承した。
それがいけなかった。
「受験生ターゲットに客寄せパンダ?」
「……言い方」
「でもさ、実際これしたところで単位になるわけでもないしさぁ。受験生増えたところでうちら学生になんもいいことなくない? あ、バス増やしてくれるかな?」
同じ科の友人が「四月はバス混むからほんっと嫌い。でも五月になるとおもしろいほど人減るよね。神隠し?」と笑った。
今回の展示は、さまざまな科から一人ないし数人の有志が集い、来季の受験を予定している高校生や校外の人間をターゲットにこの学校の活動や特色をわかりやすく示すという学校提案のもっともらしい企画展だった。
専門性の高い学校なゆえ倍率はいまだ高い。しかし、昨今の少子化の煽りは当然受けていて、油断ならないといった経営状況も裏にあるのだろう。
この企画展を運営するにあたって作品を出展する以外にも生徒主体で進めてほしいというのが運営というか学校からの要望だった。各々が得意な技術をもちより一つのものを作り上げる。まさに美大らしい。と、いったところだろうか。
展示品を乗せる台を作る係、会場の案内を作る係、企画展を紹介するためのウェブサイトを作る係などなどにわかれ当日まで進んでいく。当然、自分の科から出される課題もこなしたうえで、これが上乗せされるわけだ。企画展はオープンキャンパス前。ということは前期の評価前なので、正直かなりキツい。いや他の科のことはあまり知らないが、わたしはキツい。
デザイン科かつパソコン作業も多い科に所属しているわたしは図録担当になった。簡単に言えば、当日来場者に配るパンフレット作成だ。予算はきっちり確保されているので、ページ数は多め。今回展示予定の作品の紹介に加え、その作者の簡単なプロフィールやら過去作品を載せることになった。構成が出来次第、原稿や素材集めに奔走する。ほぼ全員違う科の人間それぞれに決められた字数の原稿や作品写真を提出させるだけでも骨が折れた。最初はメールに添付で送ってくれれば、なんて気軽に考えていたのだが、中には画像を添付する方法がわからない、はてはパソコンがそもそも使えないなんてひともいてカルチャーショックを受ける。同じ学校といえど、自分と同じく普段からパソコンを当たり前のように使う人間は意外と少数派だということがはじめてわかった。それでもなんとか集まった。約一人分を除いては。
工芸科三年、千歳千里。
あのときの大男。
ほらね、やっぱり。
一定数いるのだ、こういうタイプ。やる気がないなら有志の企画展なんて参加しなければいいのに。
多くの生徒がすでに帰り、パソコンルームにはもうわたししか残っていない。時刻は午後八時四十六分。学校から最寄り駅までの最終バスが今しがた出たところだろう。重いため息が肺の底から溢れでた。
だめもとでリダイアルをかける。本日この番号に連絡を入れるのは五度目だ。長い呼び出し音のあと、やはり繋がることはなく勝手に通信は切れる。「学校にはいますか?」と送ったメッセージにはいまだ既読すらついていない。
イライラで叫び出したい気持ちをなんとか抑え、今できることに集中しようとするが、おなかが空いて力がでない。惨めな気持ちになり泣きたくなった。
ブーッ、ブーッ、とデスクの上でスマホが震えた。画面にはまさにそのひと、〈千歳千里〉の文字。バイブレーションが止まらない。メッセージではなく電話だった。急に電話がかかってくるとは思っていなかったので焦って指が滑りスマホが地面に落ちた。慌てて拾い上げ、なんとか通話ボタンを押す。もしもし、と声を絞り出すと、「まだ学校おると?」と間延びした声が聞こえて、自分のこめかみに青筋が立ったのがわかった。
「……千歳くんはいるの?」
「おると。今そっち向かっとるばい。あー、おった、おった」
耳元でする声よりクリアに後ろから同じ声が聞こえて振り返った。
彼はわたしを見つけて嬉しそうにヒラヒラ〜っと手を振っている。今日も手ぶらだし、素足に下駄だ。
「デザイン棟はきれーで広かね」
物珍しそうにパソコンルームできょろきょろする彼がハイ、とポケットから何か取り出した。銀色の小さなスティック。それがいわゆるUSBメモリーであることに気づくまでしばし時間がかかった。だって──
「いまどきUSB!」
そんなもの使っているひと見たことない。いや見たことないはうそ。だけど、ほとんどいないし、それに……
「え、お願いしてた画像、まさかそれに入ってる感じ?」
「友だちに入れてもらったばい」
手渡されたそれを確認する。うん、まごうことなきUSB。わたしのMacBook airにそれが刺さる口はない。万事休す。
図録の印刷入稿締め切りは本日の零時零零分。あと三時間を切ってしまっている。画像があったって厳しいのに、それを取り出すところから手こずったらもう無理だ。
どうしよう、もう間に合わない。いますぐ正直に話して、謝るのが一番傷が浅い。ごめんなさい、できませんでしたって。でも、それは本当にわたしの責任なんだろうか。わたしはちゃんと無理のないスケジュールを組み、協力を仰いだ。自分の課題かたわら、必死にがんばってページを埋めた。間に合わなかったのは他でもない、この男が提出期限を守らなかったからだ。
バチバチッと大きな音を立ててそこら中の電気が一斉に消えた。まずいと思い、一番近くのデスクの下に屈んで隠れる。事態を把握できず横に突っ立ったままの大男のズボンの裾を掴み無理やりしゃがませた。
デザイン棟の使用は午後九時まで。今見つかったら追い出されてしまう。
「どぎゃんしたと?」
「しっ!」
必死に服のそでを引き、こちらに寄るように促す。でも、彼のデカい図体がデスクなんかに収まりきるはずもなく、半分以上が丸見えだ。
思いがけず近づいたせいで彼の香りが鼻先をかすめた。別に異臭ではない。どちらかといえば日向ぼっこしたあとの子供の匂いに似ていた。無造作に広がった髪には乾いた草がついている。……こいつ、さっきまでマジで日向ぼっこしてのんきに寝ていたな? と、呆れた。
「誰もいないかー? いないよなー」
ルーティーンで適当に見回るだけの助手が下を確認しないことを祈る。その祈りがあまりに必死で神様に届いたのか、うまくいきそうなその瞬間。ぐぅっとわたしの腹の虫が鳴いた。それに堪えきれないといった様子でとなりの男が吹き出してしまい、頭をゴンっとデスクの裏に派手にぶつけた。
「何やってんの! 帰れ帰れ! 逢い引き禁止!」
「逢い引きじゃありません! ねぇ、お願いします! あともう少し作業させて!」
「ダメダメ。九時になったら全部鍵しめます」
「わたしいたまま閉めていいから!」
「いいわけないでしょ。はい、出た出た」
背中を押され、二人そろってポイッと外に追い出された。うなだれるほかない。
となりで「あ」と声がして、力無いままそちらを仰いだ。今度はなんだ。もうどうだっていいけど。
「これも一緒に渡せっていわれとったばい」
ポケットから小さくて短いケーブルが出てきた。
「変換口!!」
思わずその手ごと握り、叫んだ。それがあればUSBメモリーをパソコンに繋げられる。明るい未来が見えたとたん、非情にも今度はパソコンのバッテリーが底尽きたことを告げる警告が画面に現れる。うそでしょ! 運が悪いにもほどがある。いや、違う。これはわたしが悪い。
「今すぐどこか電源を確保できる場所……」
ダイイングメッセージのようなわたしのうめきを拾った彼が「うち来んね」とにっこりと笑った。ハ? うち? 家ってこと??
「……家、どこなんですか?」
「すぐそこったい。歩いて……五分くらい」
「近っ!」
背に腹は代えられない。
この状況の責任は彼にもあるのだから、これは一方的な迷惑でもないだろう。いや、だとしても……。
迷っている暇はなかった。とにかく自分に割り振られた責務はまっとうしたい。
作業を終えたらすぐ帰ると約束をして彼の家に向かうことになった。途中コンビニなども寄らず家まで急ぐ。一分一秒も今は惜しい。
彼の家はよくある昔ながらのアパートだった。洗濯機が外にある。彼が軽そうな薄い扉を開けてくれ、わたしを中に通してくれた。この扉なら女のわたしでも渾身の力を振り絞れば蹴破れそうだ、と考えながらふと違和感。
「え、今、鍵開けた?」
「かけとらん」
「え! 鍵かけてないの?」
「ばってんここに盗まれるもんなんかなかとよ」
いや、確かに一人暮らしの学生の部屋に金目のものなんかあるわけないが、不用心すぎやしないか?
「すぐなくすけん鍵はかけん方が安心ばい」
彼のなにを知っているわけではないのに、彼らしいと妙に納得してしまった。