ワンルーム六畳半みたいな畳部屋にスペースをつくってもらった。デスク、というか机、いやこたつみたいなもっさりしたデザインの机を出してもらい、そこにパソコンを置く。でも、そのままでは電源ケーブルがわずかに差し込み口に届かず、かといって延長ケーブルのような気の利いたものもなく、しかたなく机ごと壁際に寄るはめに。触るとざらざらしそうな内壁に向かいながら、とにかく必死に作業を続けた。テレビもラジオも付ける習慣がないらしい彼の部屋は思いの外静かで、わたしのキーボードを打つ音だけがBGMになる。

 作っておいたテンプレートに彼の情報を流し込む作業からはじめる。彼のプロフィール写真は白黒だった。彫りの深い顔立ちが絵になるから憎らしい。

 過去に彼が作ったという作品の写真も並べていった。じっくり見ている暇はない。色を調整して、サイズも調整。あとはテキストを流し込んで、一応本人に確認をしてもらってから、印刷用データに変更していく。

「もうすぐ終わると?」

 なにやら台所でガチャガチャやっている彼の声に生返事をする。あともう少し。これを圧縮ファイルにまとめ、印刷所にデータ送信すれば……と、ここで嫌な予感がして一瞬で寒くなった。

「……ねぇ、ここってWi-Fi飛んでる?」
「あー……なかね。必要と?」

 終わった。もう完全に終わった。だってあともう五分しかない。せっかくここまでできたのに!

 台所からのしのし歩いてきた彼が、部屋の奥にある窓をガラリと開ける。そして、「こっち来なっせ」とわたしを招き寄せた。

「え、なに?」
「よかけん、来なっせ」

 パソコンを指さされ、パソコンを抱えて彼のそばに寄る。ぐいっとパソコンごと腕を引っ張られ外に突き出されて、なにをするのかと抗議しようとするまえに、さっきまでグレーダウンしていたWi-Fiのアイコンに色がついたことに気がついた。

「どげんね、これならいけんね?」

 うん、と返事して伸ばした腕を支えてもらいながら、送信ボタンを押す。よく知りもしないフリー(かどうかもあやしい)Wi-Fiを使ってデータを送信することに抵抗感があったが目をつぶることにした。だってしょうがない。

 画面に『送信完了。データを受け付けました』の文字を見て、やっとはじめて肩の力が抜けた。と、その拍子にパソコンを落としそうになる。わたしが「あっ」と叫ぶのと同時に彼が大きな手が伸びてきて、すんでのところでパソコンを受け止めてくれた。セーフッ。お互いの口から安堵のため息が洩れ、同じタイミングで顔を上げたもんだから視線が重なった。

 さっきからずっとそこにいたはずなのに、今まさに彼がとなりに瞬間移動で現れたような錯覚に陥る。

 だいぶ疲れているらしい。感情と表情が一致しない。わたしが笑い出すと、彼もつられたのか笑い出す。そうやって笑っているうちに本当におかしくなってきた。深夜のテンションおそるべしだ。

 さっきまでパソコンが置かれていた場所に微かに湯気が登る器がどんっ、と置かれた。中身は具なしのインスタントラーメン。彼は台所でこれを作っていたらしい。

「……ごめんね、ラーメン伸びちゃった」
「よかよか。味はだいたい同じやけん」

 わたしの分は大きな丼皿に盛られていたが、彼の分は小鍋に入ったままだった。おそらく食器が一人分しかなかったのだろう。あまりしゃべらずもぐもぐと咀嚼した。ものすごくお腹がすいていたことを今更思い出したのだ。だってもう日を跨いでいる。最後に食べたものは、夕方に食べた菓子パン一つなので、あたりまえのことだった。彼の食生活がどういったものか知らないが、彼だって本当はもっと早く夕食をとりたかったんじゃなかろうか。わたしの作業を終えるのを待ってくれていたのは気まぐれというより優しさなんだろうな、とぼんやり考えた。

「本、たくさん読むんだね」

 あまり失礼にならない程度に部屋を見渡す。狭いながらも思ったより片付いていた。なんて失礼なことを思い浮かべながら、壁際に積まれた本の山を見る。背表紙に日本語は少ない。おそらく英語でもない言葉もあった。「見ると?」とその中から一冊差し出されて受け取る。

 パラパラとページをめくると異国の寺院を撮影した写真集だった。寺院といっても日本のものとは印象がだいぶ違う。醒めるような鮮やかなブルータイルが前面を覆うそれは日本のものとはまたちがった静けさを讃えていた。美しい。実物はもっと美しいのだろう。そんなわたしの心の声を聞き取ったかのように「本物はもっときれかばい」と彼が笑った。

「え、見たことあるの?」
「ある」
「すごいね」
「ここにある本はほとんどほんに見たもんばっかたい」
「うそ。すごいっ! 海外旅行好きなの?」
「好き、とは違うかもしれんね。そやね……気付いたら行っとったって感じに近か」

 それから彼はゆったりとした口調でいままで見てきた旅の風景をいくつか語ってくれた。彼の眼を通して映った景色が、彼の言葉で語られていく。砂漠の乾いた風に煽られて歯が砂を噛む感触。緩く湿った風が運ぶハーブと魚の生臭さ。海を撫でた風の冷たさと厳しさ。それをおおらかに受け止める飾り気のない素直な気持ちそのものが伝わってきて、わたしはその風景を見てもいないのにありありと想像することができた。

「それで二年も休学?」

 彼のプロフィールの欄に書いてあったことを確かめる。

 彼の入学年度はわたしのものより二年も早く、そして年齢も同じく二つ上だった。でも、今は同級生。

 鍋が空になると、彼は酒瓶を取り出して、自分のコップに注いだ。呑むか? と眼で訊かれ、うん、とわたしは首を縦に振ってそれに応えた。少し甘くて米の味が濃い美味しい酒だった。もう自分の家に帰る気はほとんど残っていなかった。

「自分では写真撮らないの?」
「撮らんよ。もったいなか」

 もったいない? と一瞬理解が遅れたが、彼が語りたいことがすぐになんとなく察せられた。自分の眼で見る以上のものはない、ということだろう。

「いいな。わたし、千歳くんの眼になりたい」

 その特別な眼で広い世界を見てみたい。

 酔ってよくわからないことを言い出すわたしを彼は穏やかな眼差しで眺めている。

 世界中のいろんなものを見てきた彼のその瞳の真ん中に今わたしがはっきりと映っていると思うとかなりいい気分だった。

 ほんとにだいぶ酔ってきた。

「布団、使ってよかよ」

 と一組しか敷かれていない敷布団を勧められた。

 自分は毛布にくるまって壁際で眠るつもりのようだ。

 部屋の窓はおろか扉にも鍵はかかっていない。もしかすると、これもわたしに対する配慮なのかもしれないと今更ながら彼の思いやりに気づく。

 となりで一緒に寝よう、と誘おうか迷ったが、そのまま口をつぐんで目を閉じた。明け方まで軽く眠って、焼かれていない食パンだけの朝ごはんもどきを一緒にとって部屋を出た。

「もしかして、スマホとか全然見ない?」
「昨日三日ぶりに見つけて、そんで慌てて自分に連絡したとよ。ほなこつすまんかったばい」

 昨日まであんなに彼に腹を立てていたはずなのに、今はもう彼を責める気持ちはなくなっていた。仕方ないなぁとほろりと苦笑いで許してしまうこの気持ちはいったいどこから湧いてきたのだろうか。自分でもわからないが、彼と短いながらも時間をともにして、そのおおらかさが移ったのなら悪くない。

「展示当日はちゃんと会場に来てね」

 心許ない約束を交わして分かれた。

 たとえ展示当日彼が来ても来なくても、わたしの心はもう彼の匂いを覚えてしまっているから、これからふとしたときにも校舎で彼の姿を探してしまう予感がした。

 季節は春から夏へと移り変わろうとしている。丘の上の八重桜は風で散り、枝にはもうすっかり新緑が顔を出す頃である。