お手洗いという場所は、ひとをリラックスさせる効果でもある場所なのだろうか。誰かがどこかで聞き耳を立てているなんてまるで気にもとめていないいっそ清々しいほどの口ぶりで悪口が次から次へと飛び出していく。本人がすぐ後ろの個室にいるなんて思いもしないのだろう。いや、わかっててやっているのだろうか。声の主たちは姿を見なくてもわかる。さっき笑顔で「おはよう」とあいさつを交わしたばかりの同級生だ。
「いやぁ、ほんといい子ちゃんだよね。普通断るでしょ」
「てゆーか、無理。わたしなら受けらんない。どっから来るのあの自信」
「学校受けっていうか教員受け良さそうだもんね。いるよね、そういうタイプ。わたし、きらーい」
「しかも別に大してすごいわけでもなくない? 前期の課題見た? ちやほやするほどのもんじゃなかったよ」
「それはそう」
軽やかな笑い声とともに足音が遠ざかっていくのを聞き届けてから、個室から出た。黙って手を洗い、持っていたハンカチで手をふく。
ポケットにいれていたスマホが震えた。取り出して確認すると「千歳千里」の文字。すぐにアプリを起動させ、メッセージを確認する。薄茶色の猫が大きな手に撫でられている写真が貼り付けられていた。
〈食堂の前におった〉
〈むぞらしか〉
ふふふっと自分の口元から自然と笑みが溢れた。
むぞらしかとは熊本弁でかわいいという意味である。彼とこうして連絡を取るようになって知った知識の一つだ。
スマホをしまって、「よし」と気合いを入れ直し、授業へ向かう。
わたしは逃げない。なにを言われても、気にしなければそれはなかったことと同じだ。
自分に才能がないことなんて、自分が一番よく知っている。どんなに努力しても埋まらない絶対的な差を認められないほどもうわたしは子供じゃない。上手いとか、上手くないとかでないのだ。次元が違う。これに尽きる。才能を持つ者と持たざる者。残酷なほどその差は明らかだ。何度も何度もこの差に打ちのめされてはいるが、わたしはまだこの場から逃げ出したりはしていない。そういう次元の違うひとがいたとして、それはわたしがわたしの道を諦める理由にはならなかったからだ。結局はわたしはわたしのできることをやるしかない。それだけ。羨むくらいならまだしも、妬んだところで、自分の現状はなにも変わらない。
授業を受けたあと、一足先に刷り上がったパンフレットを受け取った。画面越しに見ていたデザインが紙に刷られ、質量を持ってこの手の中にある。重さより重い思いが充実感となって胸に広がった。全然まだまだダメだと思う。もっとこうすればよかった、ああすればよかったなんていくらでも思いつくけど、ちゃんと期日通りこのパンフレットがここに存在していることをわたしだけは褒めてあげようと思った。
一部持ち帰って、外の広場に座りながらパラパラめくる。暑いくらいの日差しが色の濃い影を落とした。ふと、見上げると千歳くんがわたしを太陽から覆い隠すように立っていた。
「それこんあいだん? もうできたとね」
「うん。千歳くんのせいてゆーか、千歳くんのおかげで無事刷り上がりました」
わたしの軽口をさらに軽快な笑いで吹き飛ばす。
となりに腰を下ろした千歳の服や髪にまた草がついていたのでとってあげた。まるで毛繕いだ。
「あー! 千歳がいるー!」
集団から離れてひとりこちらに走ってくるのは、この学校では珍しい派手目なギャル。
その子は抱き付かんばかりの勢いで千歳くんの元へやってきた。
「学校来てんなら教室来なよ! てか、これから空いてる? 今日呑もってみんなで話してたとこなんだよ!」
「おー久しぶりによかね」
一緒にどうね? って訊かれて、「いやいや」と断った。さすがにまったく知らないコミュニティーに突然飛び込む勇気はない。
「来てもいいよ! 千歳の友だち?」
明るくて気立ての良さそうなその子からも誘われたが、もちろん辞退した。
同じ科のひとたちと合流する千歳くんを見送り、再び静かな一人の時間が訪れる。
五月を過ぎた学校は友人が予言した通りぐっと人が減る。席取りに苦労した食堂やカフェテリアさえガラガラだ。いったいみんなどこに消えたの? と純粋に疑問である。
千歳くんもきっとそんな神隠しに合うタイプだろうと思っていた。なのに意外とそんなことはなく、最近は学校で偶然会うことも多い。
眼が合うと人好きのする笑顔であいさつしてくれる。わたしもがんばってなんでもない風を装ってあいさつを返す。
千歳の友だち? そう訊かれて正直答えに詰まった。最近出会ったばかりのわたしたちは友だちと呼べる間柄なのだろうか。一緒にごはんも食べたし、同じ本を読んで語り合った。なんなら、同じ部屋で眠って、今はなんてことないメッセージを気まぐれに送り合う仲である。でも、だから友だちかといえば違う気がした。それにそもそも彼と友だちになりたいのか、と自分の心を問い詰めれば違う答えに行き着くような気がする。はぁ、と短いため息がもれた。パンフレットを閉じてバッグにしまう。
〈呑みすぎないように! 明日朝十時には設営だよ!〉
とメッセージを彼に送ってから帰宅するためにバス停へ向かった。
手渡したパンフレットが目の前でぐしゃっと無造作に折られる様はわりと精神的にキツい。しかし、いちいちそんなことで傷つくのも馬鹿げている。そもそも無料で配っている物だ。貰う相手だって懇切丁寧に扱ったりするはずがないのも当然だと自分に言い聞かせる。
入口で芳名帳を書いてもらい、笑顔で「どうぞ」と来場者にパンフレットを渡す係は出展者が交代であたる。それ以外の時間も極力会場に在廊して、さりげなく作品の紹介をしてほしいとのことだった。
約一時間の受付係を終え、展示室をぶらぶらしながら、せっかくならと自分も展示作品をゆっくり見て周る。
出展者は皆現在三年生だが、出展作品はほとんど二年生のときの過去作だ。パンフレットを作っていたおかげで、どの作品もなんとなく予備知識があった。だから、突然の謎のオブジェが飾られていても他の来場者より戸惑いは少ない。
千歳くんはやっぱり遅刻した。予定より二時間遅れで展示台に置かれた彼の作品は、パンフレットに載せた作品ではなかった。
昨日完成したばかりだというその作品はこの会場でひときわ異彩を放っていた。
誰もが彼の作品の前で足を止めている。
強力な磁場でも発生しているかのように意識が吸い寄せられて、しばらくそこから動けない。
陶や金属、ガラス、さまざまな素材で形どられた彼の作品は、とにかく大きくてダイナミックだが、細部は繊細でこれが人の手を通して作られたものだと信じがたい気迫が宿っていた。
葉脈を移しとったかのような繊細な模様は、まるで神が作った細工だ。
触れたら壊れてしまいそう。彼にもそういう部分があるのだろうか、と思案しそうになり慌ててやめた。
必要以上に作者と作品を結びつけるのはよろしくない。
「おつかれさま」
集中しているところに突然声をかけられ驚いて手にしていたパンフレットを落としてしまった。
先に屈んで拾ってくれたのは声をかけてきた相手で、その子は同じ科の子だった。一度も専攻のクラスは一緒になったことはないが、一学年六十人程度しかいないような科なので、存在はもちろん知っていた。
「ごめんね、ほんとに」
え、なにが? 本当になにも心当たりがないからわけがわからない。
「わたしが断ったからさんに今回の話がいっちゃったんだよね。前期の締め切りとモロ被りだったから、大変だったでしょう」
と彼女は本当に申し訳ないような様子で謝った。そうか、そうだったんだ。自分が優秀だから選ばれたわけではないとはわかっていたが、改めて他人から言葉にされると惨めだ。
彼女は「がんばってね」とわたしを労ってから、作品も見ずに会場を後にした。せっかくだったら、見ていけばいいのに。わたしなんかの作品はどうだっていいけど、せめて千歳くんのは絶対見るべきなのに。届かない心の声を彼女の背中にぶつけることしかできなかった。
「Is this your work?」
ボケッとしていると今度は耳慣れないイントネーションで話しかけられた。そうか。わたしはまだスタッフパスを首から下げていて、案内を求められているのか。そこまでは理解できたのだが、実際の言葉が口から出てこない。「あ」、とか「う」、とか意味のない音を口にしながら戸惑っているうちに、スッと大きな影がわたしを庇うように現れた。
「Can I help you?」
千歳くんの発音は滑らかだった。変に気取ったところもなくて使い慣れた感じ。
普段はゆるゆるの熊本弁だからギャップがすごい。
「Who is the author of this work?」
「it's mine.」
「Oh! this is so great! The material of this work is……」
声をかけてきた異国の来場者は千歳くんの解説に満足したのか、最後は千歳くんに握手を求め、笑顔でその場を去っていった。
「すごいね、英語。こんなにしゃべれるんだ……」
「文法は無茶苦茶なとこもあるばってん、ああいうんは気持ちが伝わればよか」
なんてことないと笑う千歳くん。ほんとになんてことないのだろう。そんななんてことないことすら満足にできない自分が彼にはどう映っただろうか。いや、そんなこと気にもしないか。気にもならないような端の存在か。
ダメだ。嫌な感情が止まらない。
千歳くんが眩しすぎるのがいけないのだ。そばにいたらたちまち焼け焦げてしまう。そういう光を放つタイプの人間はこわい。
「どぎゃんしたと?」
「……ごめん、わたしこれからパンフレットの補充分取りに行かなきゃだから」
わたしは逃げた。その場から。そして、彼から。
打ち上げは、大学生らしく駅前の居酒屋だ。結構な大所帯だったので、広めの座敷があてがわれていた。
千歳くんの周りには自然と人がよく集まる。大きな笑い声の絶えないそこから対角線上、一番遠い席にわたしは座っていた。
目の前でデザイン論を語る違う科の男子の話を頷きながら聞いているフリをする。わたしからは特に話したいこともないので、こうやって聞き役に徹するくらいしかできることがない。
「えっと、キミ何科だっけ?」
「デザイン科です」
「そうだそうだ! だからパンフレット係だったんだ」
さも名推理とばかりに言われても苦笑いしか出てこない。今話しかけてきたこの人はたしかプロダクト科のひとだ。原稿の提出が千歳くんの次に遅かったひとである。
「ねえ、突然だけど彼氏いる?」
だいぶ酔っているみたいだ。多少不躾な質問だが、目くじらを立てるほどでもない。このひとはさっきからいろんな席を渡り歩いているので、たぶんこうやって女子みんなに尋ね歩いているのだろう。はぐらかすのも馬鹿馬鹿しいので「いませんよ」と含みなくサラッと答えた。
「えーもったいない。俺とかどう? 結構優良物件よ」
「こいつん家、地方の豪商」
「言い方が野蛮だな。まぁそうだけど」
笑い声がどっとあがる。
わたしはそっと彼の作品を思い出していた。キャプションには長々とまわりくどいコンセプトがもっともらしく載っていたが、実際の作品はそのコンセプトに完全に負けていた。頭で考えるタイプなのだろう。アウトプットの技術はまだまだ、といった感じだった。……なんて偉そうなことを思う。だってここで有良物件なんて言われたら、実家の太さなんかより作品のクオリティを思い浮かべてしまうのも無理はない。
そのあとも「俺どう?」というアピールネタを引きずってくるので正直鬱陶しかった。
わたしが絡まれている間も千歳くんはずっとあいかわらず男女問わずひとに囲まれていた。才能のある人間は魅力的だからひとを惹きつける。
今千歳くんのとなりにいる子は油絵科の子で、在学中にどこかの大きな賞を取ったんだっけ。いいな。羨ましい。いいな、ずるい。そんな気持ちがとめどなく溢れてきた。他人を羨やんだり、ましてや僻むなんて恥ずべきことだとわかっているのに感情が止まらない。
才能のある人間は自分とは別世界の人間で、わたしはそれをちゃんと理解して決して恨めしい気持ちなんて抱かぬことこそ、自分にできる唯一の矜持の保ち方だと思っていたのに。わたし、どうしちゃったんだろう。最近おかしい。
そろそろ会がお開きになりそうな時間だったので、お手洗いにたった。立ったときふらつき、となりの男子に笑われる。
そこまで呑んだつもりはなかったのだが、連日の忙しさで体調が万全じゃなかったのかもしれない。用を済ませて、お手洗いを出ると、「俺どう?」男と鉢合わせた。よく見ればここの手洗いは男女共用だった。
「あ、ごめんね。どうぞ」
「いやさ、そうじゃなくて」
「え?」
「ね、一緒に抜けない?」
「……なんで?」
え、「俺どう?」は本気だったということか? いや、本気というか少なくともその場限りのギャグではなかったということか。
わたしが戸惑っているうちに彼の腕が伸びてきて、わたしの腰を無遠慮に引き寄せた。あまりにも強引で背筋に悪寒が走る。瞬時に「やめて」と払いのけようとしたが、そのまえにひゅんっと風の音がして、体が突然自由になった。足元にはその男が鼻血を流して転がっている。
「えっ、千歳くん?! ちょっ、なにやって……」
腕を掴まれ、そのまま走る勢いで店を出た。駅前の通りにはまだひと気もあり、ときどきぶつかりそうになりながらも前を行く千歳は止まらない。「待って! 待ってってば!」というわたしの叫び声が聞き届けられたのは、もうずいぶん進んだ先で、まわりにはほとんどひとが歩いていない住宅地まで来てしまっていた。
「戻ろう?」
「……なしてね。あん男とおる方がよかと?」
「違うよ。でも、あんな風に出ていったら、千歳くんが悪者扱いされちゃうかもしれないじゃん。ちゃんと説明しなきゃ」
「そんなんどうでもよか」
よくない! と叫びかけたところで、千歳くんのスマホが鳴った。短い通話の相手はさっきの居酒屋にいた誰かのようだ。
「自分の荷物ば預かっとるって」
そう言われてはじめて自分が手ぶらなことに気づいた。財布もスマホも持ち物も全部さっきの店に置いてきてしまっていた。
「取りに戻ると?」
「……預かってくれてる子はなんて?」
「取りぎゃ来たっちゃよかし、明日学校に持っていくんでもよかって」
「あの人は……?」
「……のびとるばってん、息はしとるばい」
体の力が抜けた。はぁ、と重い息を吐く。アルコール臭が微かに鼻をかすめた。
「……荷物は明日でいいや、もう今日は疲れた」
本音をこぼして、天を仰いだ。星がまばらに光る夜空に月はない。どこかで蝉が鳴いている声がした。すっかり夏だ。
「うち来んね」
うん、と小さく頷いて、一緒に歩き出した。千歳くんの大きな手が荷物もなにも持たず手ぶらで自由なわたしの手を握る。
カランコロンと千歳の下駄の音を聞きながら、なだらかな坂をゆっくり登った。
部屋に着いたら、「鍵、閉めてもいいよ」と彼に伝えてしまいそうだった。