蚊が腕にとまってバチンッと叩いたら、そのひょうしに繋いでいた手を離してしまった。
そこから繋ぎ直す勇気もなく、かれこれ歩き続けて十分弱。冷静になるには充分な時間だった。
でもまず言い訳をさせてほしい。あわやのピンチに颯爽と現れてあんな風に助けられたら、誰だってこのシチュエーションに酔ってしまうと思うのだ。しかもちょうどメンタルがやや弱ってるときに。ただ、そもそもその弱ったメンタルの要因の一つが、この男なのも忘れてはいけない。いや、彼が悪いわけではないけど。わたしが勝手に嫉妬してやっかんだだけだけど。そのきらめく才能が眩しい。となりにいると自分の不甲斐なさが必要以上に浮き彫りになる。
結局なにも言い出せず、扉の鍵も前回同様開けっぱなしだ。
彼は部屋に着くとすぐに部屋の奥まで行き、窓も開けた。立て付けが悪くガタガタと木枠を鳴らしながら開けた窓の網戸には所々穴が開いていて用をなしていない。カーテンレールに吊るしてあった金属製の風鈴が湿った風に撫でられて澄んだ音を奏でた。虫除けに焚いてくれたお香は旅先のインドで現地の人にもらったらしい。日本の線香に甘さを足したような燻んだ香りで、あまり効き目は期待できないらしいが、不思議と落ち着く香りだった。
この部屋は、あいかわらず彼らしいもので溢れていた。
ただ、このまえ来たときから気になっていたことなのだが、彼の作品らしきものがいっさい見当たらないのが不思議だった。わたしみたいなデータ系の作品ならいざしらず、彼のような大物を作るひとはどこか別に貸し倉庫でも借りているのだろうか。疑問をそのまま口にすると「だいたい捨てとるばい」と返ってきて驚きのあまり大きめの「え!?」が口から飛び出た。
「欲しかて言われたもんなそんままあぐることもあるったいね」
「え、あげちゃうの? でも、ほら、なんか賞とか受賞してるようなやつは?」
「あぁ、あれもあぐたやつたい。あぐった後に勝手に賞に応募ばされたと」
え? そんな某アイドル事務所の履歴書みたいなことある?
いや、それよりそんなものまで他人に簡単にあげてしまえることが驚きだった。時間や体力、ひとによって精神を削って作ったであろう作品をそんなに簡単に手放せるものなのか。わたしは試作品や模型の数々に埋もれ暮らす美大生の部屋を知っていたから、みんなそんな感じなんだとばっかり思いこんでいた。まぁ、たしかに彼の作品はとっておくには大きすぎるのでどこかで限界がくるのは当たり前だが、それでもショックなことには変わりない。わたしは、自分が作ったパンフレットをブックスタンドに立てて自室に飾ってることを思い出して急に居心地が悪くなった。それを誤魔化したくて、「何してるの?」とキッチンでごそごそと何かしている彼の元へ様子をうかがいにいく。コンロに置かれた鍋にはお湯がたっぷりと沸いていた。
「ラーメン好きだね」
「は好かん?」
は、と突然名前を呼ばれたことにドキドキしつつも、何食わぬ顔を作って「ふつうかな」と答えた。
流れで御相伴に預かることになり、何か手伝うことはあるかと聞けば、シンクの下から丼皿を出してほしいと頼まれる。
この前と同じ丼皿だろう。分厚めの焼き物で、一度割れてしまったのか金継ぎで直した跡があったそれをわたしはよく覚えていた。
屈んでシンク下の戸棚を覗くと、何種類かの皿が適当に積まれていて、その丼皿は一番上に重ねてあった。よく使うのだろう。ふと、そのわきに並んで置いてあるものに目が奪われた。
「なした?」
なんでもない、となんとか答えながら見上げた彼の背景に冷蔵庫。さっきいた場所からは死角になっていた側面に引っ掛けられている布に注意がいく。
見てはいけない物を見た気がする。気づかなければよかった。
ねぇ、これってやっぱり──
「絶対他に女いるよね?」
と今日までの出来事を友人たちにかいつまんで打ち明けた。こんな難問とてもじゃないがわたし一人じゃ抱えきれない。イン、デザイン棟。同じ科の友人たちは親身になってわたしの話を聞いてくれた。というか半分は面白がってるな。でもいい。今は客観的な意見が聞きたい。三人よれば文殊の知恵。今は四人だけど。
「普段全然料理しなさそうな男の家のシンクの下に並んだ調味料か……微妙だね」と友人その一。
「冷蔵庫横のエプロンはアウトじゃない?」と友人その二。
「あ! でも元カノのかもよ?」とその一に戻り、「え、それだったら許せる? 逆に別れたのになんで持ってんの? って感じじゃない?」とまたその二。
洗面所には化粧品の類はなかったんだよ、と慌てて情報を追加してみたが、それだって戸棚を全部確認したわけじゃないんでしょと指摘され黙るほかない。でも、彼がわざわざ隠すとも思えないんだけどな。まぁこれも願望かもしれないけど。
「いや、それより、気になるのが二回も泊まってるのに何もないってとことじゃない?」
「……でも、一回目のときは、パンフレットの入稿直後で死んでたし」
「じゃあ二回目は?」
「に、二回目は、お互い結構お酒も結構入ってて……」
「お酒が入ってたら余計にそういう展開にならない?」
「そもそもそういうことしに行ったんじゃないし!」
「え? なにしに行ったの?」
「……財布もスマホもなくて仕方なく」
あ! でもさ! と明るい声が上がる。
「すぐに手を出したら、チャラいとか思われて嫌われるかもって心配したとか!」
「好きだから大切にしたい的な? え、めっちゃいいじゃん、それ!」
キャーと黄色い声で盛り上がるのを尻目に机につっぷす。そんな都合のいい話ならどんなにいいことか。
もう数々のヒット連発でダメージを受けるわたしをそれまで黙って聞いてくれていた友人その三の子は「まぁまぁ」と慰めてくれた。
「やっぱり彼女いるのかな……」
「彼女いるのに他の女家に連れ込むとかどういう神経してんの」
「……そういうのあんまり気にしないのかも。悪い意味で」
来る者拒まず去る者追わず、という言葉が浮かんでいた。求められれば拒まないというか、彼のおおらかさはここでも遺憾無く発揮されそうというか。
そもそも彼にいわゆる普通のお付き合いという概念があるかどうかも疑わしいとわたしは睨んでいた。今が良ければそれで良し。そんなふうに考えている方がしっくりきてしまう。
だからこそ、余計に気になってしまうのかもしれない。なぜ、わたしにはなにもしなかったのか。彼女がいるからなのか。そうなってくると、いてほしいような、いてほしくないような……。
一回目のお泊まりはまぁしょうがないとして、居酒屋での出来事と二回目のお泊まりは彼自身の行動が発端だ。これが本当にただの優しさだけに由来する行動なら罪作りな男である。
「なにもなくて正解だったんじゃない?」
おそらくベストアンサーに「うん」と項垂れてると、「てゆーかさ、」とワントーン低い真面目な声が割って入った。
「相手って、あのめっちゃでっかい工芸の人なんだよね?」
向かいの子が「、大丈夫?」と眉間にシワを寄せた。
咄嗟に大丈夫? の意味がわからず首を傾げる。
「いやだってあの人だいぶ近寄りがたいよ。てゆーかこわい」
確かに、と他の子も続く。「そんなことないよ! 優しいんだよ!」とわたしは慌てて彼を擁護したが、「優しいひとは突然ひとのこと殴ったりしないよ」と言われ、返す言葉なし。確かにそれはそう。
それに、そもそもわたしも彼に対しての第一印象は「こわい」だったことを思い出した。まだその頃から季節を一つ跨いだくらいしかときはたっていない。自分の気持ちの変わりように自分でも戸惑うわけだ。
「の意思は尊重するけど、もし付き合うにしても結構覚悟が必要なタイプかもよってこと。には他にもっといいひといると思う」
肩を落としてしゅんとなるわたしを囲んで最後はみんなでしゅんとなった。わたしの友人たちはみんな常識人でとても優しい。
彼だって優しいけど、その優しさは男女の関係に当てはめた途端、急に不誠実になるから困った。
深入りしてしまわないうちにこのままフェードアウトを決め込もうか。いまならまだなんとか間に合う気がする。企画展も終わり、どうせもう滅多に会うこともない。なんて考えながら校内の購買で小腹を満たすためのものを選んでいると、ふわっとあの夜と同じ香りがして振り返った。人の気も知らないで、へらっと笑う顔がいまは憎らしい。
「甘いもん好きと?」
なんで会っちゃうかな。会ったらまた惹かれてしまうから嫌なのに。
「千歳くんもお腹減ったの? ラーメン?」
「昼食べ損ねたと」
「じゃあ食堂の方がいいんじゃない?」
そこにいつぞやのギャルもやってくる。「あーまた千歳が学校にいるー!」って同じ科の子に言われるって彼はどんだけレアキャラなのだろう。
へらへらと笑って購買のとなりの食堂に消えていく彼をギャルと見送った。ギャルも小腹を満たしにきたらしい。「これ食べたことある? おいしいよ」と気さくに勧められて手にとった。たしかに美味しそうなチョコレートビスケット。
「千歳いいよね」
「え?」
「えっちうまいっしょ」
ギャルは「あ、わたしコレにしよーっと!」と別の菓子を選び、レジに並ぶ。そして、固い笑顔を貼り付けたままのわたしに「じゃあね」と手を振って、軽やかに去っていった。
わかっていたつもりだったのに、いざ現実だと知るとダメージは想像以上に大きい。
ガツーンッと鈍器で頭を殴られ前後不覚のまま暗闇を歩いてる気分だ。
あの様子だと彼とギャルは付き合ってはいないし、過去に付き合っていたとかでもなさそう。勘だけど。ということは、そういうことで、彼は付き合っていなくてもやっぱりそういうことができるタイプの人間なのだ。それが悪いとか良いとかの話じゃない。いわば文化の違い。流れや勢いで、なんてこと彼には普通にあるってことだ。わたしにはしなかったくせに。
冷静になったなんてうそだ。
彼の部屋に泊まった二回目の夜。本当はそうなれたらいいなって心の中で願ってた。彼がわたしに触れて、優しく押し倒してくれたら、どんなことにも目をつぶって受け入れるのにってずるいことばかり考えていた。
調味料もエプロンも関係ない。才能があるとかないとかはもっと関係ない。どうなってしまうかわからない明日の心配なんか都合よくすみに押しのけられるくらい、わたしはいつものわたしじゃなかった。だけど、それがあの夜のわたしの本当の気持ちだ。
でも、じゃあそれを勇気を出して、正直にそう伝えればよかったのだろうか。
違う気がする。
あの夜、一瞬を求めて彼と繋がっても、わたしはどうせ今と同じように満たされなかったに違いない。
彼にもわたしと同じ重さでわたしを求めてほしかった。
他の誰にも触れさせないで、わたしもあなた以外誰にも触れさせないから。愛の鎖で束縛されたかった。
……束縛なんて、彼には一番似合わない言葉だろうに。
都合よく夏休みが到来したことが救いだった。
今年は帰省する予定もない。アルバイトに精を出し、友人たちとたくさん遊んだ。長期休暇は課題もないからわりと自由だ。
でも、来年の就活に備えて動き出すひとは動き出すらしい。
美大なんて就活から縁遠いように思われがちだが、それは一部の作家性の強いタイプの人間だけだ。案外他の大学生と同じようにエントリーシートを出して、リクルートスーツを着て、社会に溶け込む努力をする。
受験の次は就活だ。人生であと何回他人と比べられなくてはならないのだろうか。優劣をつけられて、線引きされて、そこから弾かれた人間は自分の価値を見失う。馬鹿馬鹿しいと思う。でも、他人軸の評価がすべてではないけど、誰もいない場所で独りで立ちつづけられるほどわたしは強くない。誰かに必要とされたいと思う心は、別に否定しなくてもいいんじゃないかと思う。
わたしはわたしのできること。結局はそこに行き着く。
とりあえず、SPIの勉強でもするか! と気合をいれた。楽しいことや意義のあることに没頭しているふりはなんだかんだ一番気が紛れるのだ。
ちなみに、彼との連絡は彼の既読無視というかたちで終わっていた。夏休みの中頃、彼から送られてきたどこかの風景写真に「きれい。どこにいるの?」なんてわたしが返したそれは何度確認しても未だ既読すらついていない。まぁだからこそ、もう本当におしまいにしようと踏ん切りがつけられたのかもしれないけど。
まだうだる暑さの残る新学期。だが、クーラーの効いたデザイン棟は過ごしやすい。三年は必修の実技の授業しかないので、特別な用事がなければ、ずっとここにいていいのだ。
それに、この棟から出なければ、たぶん彼と会うこともない。わたしがいるデザイン棟と彼のいる(かいないかわからないけど)工芸棟は、同じ校内でも丘の上と下でだいぶ離れている。しかも、彼は徒歩で学校に通い、わたしは最寄駅からバスを使ってるから行き帰りで会うこともないだろう。
そう思っていたから驚いた。
「ねぇ、あそこにいるのって例のひとじゃない?」
二階の吹き抜けから下を見下ろすとデザイン棟の入口にひときわ目立つ背の高い男が立っていた。なにをするでもなく、立っている様子は、誰かを待っているように見えて胸が苦しくなる。なにが踏ん切りはついただ。なにも諦められていないではないか。わたしを待っていてもいなくてもその姿を見ただけで泣いてしまいそうで下唇を噛む。
「どうしよう……」
おろおろとしていると、前に相談したときに「まぁまぁ」と慰めてくれた子が背中を押してくれた。
「はどうしたいの? それが今のすべきことだよ」
エレベーターを待つ時間も惜しくて、階段を駆け降りた。
なんて声をかければいい? 久しぶり? なにしてるの? 元気だった? 言葉が溢れてくるけど、気持ちが追いつかない。
彼がわたしに気づき、微笑みかける。やっぱりわたしを待っていたんだって思ったら胸が苦しくなった。
大きな手がひらひらと振られ、差し出される。
え? なに?
「お金ば貸してほしか」
「……へ?」
「千円でよか。返す時は二倍で返すばい」
「いや、え、なんで?」
困り眉のまま首を傾げてこちらの様子をうかがうのをやめてほしい。百九十越えの成人男性をかわいいと思う日がこようとは。
「と、とりあえず話きくから。ね?」
まだ、貸すとは言っていないのに、もう貸してもらえる気満々な笑顔が返ってきて呆れた。でもやっぱり憎めない。
こんな最低な理由でもわざわざ会いにきてくれたことが嬉しいだなんて、もう引き返せないところまで来ているなによりの証拠だった。