久しぶりに会った友人の変化はわかりやすかった。
「なにがあったんだ?」
「ん?」
「おまえがスマホを気にしてるなんて珍しい」
千歳がきまり悪そうに頭をかく。「なんでもなか」と言われても、とてもそうは思えない。ただ直感では悪い変化ではない気がした。
「桔平がエプロンなんか俺の家に置いとるせいで疑われたばい」
「ほう」
千歳がはぁ、と深いため息をはく。おもしろいことこの上ない。今夜は美味い酒が飲めそうだ。
「本当に珍しいな。おまえがそんなこと気にするなんて。相手はいったいどんな子なんだ?」
そういって千歳のグラスに日本酒を注ぐ。
つまみは旬の秋刀魚の刺身に秋茄子の焼き浸し。どちらも生姜が効いていて箸も酒も進む。
この居酒屋には千歳とよく来るが、メニューが季節ごとに入れ替わり、何度来ても飽きない工夫が凝らされていて楽しい。
いつもの場所でいつもの相手と。だけど、今夜はいつもとは少し違う話ができそうだ。
俺の知る限り熊本時代も含め、千歳の異性関係ははっきりいってろくなものじゃなかった。芸術肌のせいかフィーリングを重んじるせいか、その場限りのような関係が多過ぎた。まぁ、相手もそれを求めているような子をうまく選んでいたから大ごとにはなったことはないようだが、一歩間違えばグサリなんて事件になってもおかしくないように見えた。そのスリルさえも楽しんでいたように思えるからタチが悪い。
その場その場で適当な態度はとれるが、基本的に面倒ごとが嫌いで、誰かひとりに深く関わるのを意図的に避けてるんじゃないかとすら思っていたから、友人心に心配していたんだ。
今を大切にして懸命に生きる生き方と、今だけと行き急ぐような生き方は、側から見れば似てるが根本的にまったく別物だ。
「真面目な子ったい。真面目で頑張り屋」
「おまえとは正反対ばい」
「ひどかー」
「今回の旅が思いの外短かった理由はそれね」
今夏いつもなら平気で何カ月も帰ってこない旅行を一カ月もしないうちに切り上げて帰ってきたから少し驚いていた。聞けば、旅の行く先々で彼女のことを思い出し、自分の女々しさにうんざりして、潔く彼女に会いに帰ってきたはいいが、ロストバゲージにあい、財布はおろか彼女と唯一繋がる手段のスマホも落とし途方に暮れたらしい。持ち物をなくしてこんなに落ち込んだのは人生で初めてだったと語る友人がずいぶんかわいく見える。
「いつも受け身なおまえが自分から行動を起こすなんてな」
「勝手がちごうてよおわからんばい。怖がらさんように気をつけるだけで精一杯ったい」
千歳が俺から目を逸らして笑った。きっと彼女のことを思い出しているのだろう。
「今度紹介してくれ」
おまえをそんな風に変えた子に会ってみたかった。
結局俺がその子に会うことはなかったが、あの頃の千歳が本気でその子を大切に思っていることは知っていた。
願わくば、その子にも千歳の想いが届いていてほしいと思わずにはいられない。
◇◆◇
「、逃ぐるなら今のうちばい」
彼の家の扉の前でそう言われると同時にキスされた。もう逃げる気なんてないけど、そもそも逃す気だってなさそうだ。
なぜお金を貸してほしいのか、夏休みに一体なにがあったのか、学校から歩いて彼の家に向かう道すがらおおよその話は聞き終わっていた。ついでに、エプロンは友人(男)の物で、調味料はその人がときどき家にきて料理をするからあるのだとも教えてくれた。同じ科のギャルのことは適当に誤魔化されたが、今は特定の彼女はおらず、別に彼女を作らないという主義ではないということも確かめた。あとは……
「もう良か?」
「よ、良くない。最後にもう一つ」
「なんね」
「わたしは、そういうことする仲になるなら千歳くんとだけそういうことしたいって思うし、千歳くんもわたし以外に触れさせないでほしいって思う。でもこれは強制じゃなくて、あくまで提案で、千歳くんを無理やり変えたいとかじゃないの。ただ、わたしはそうじゃないと難しいから、もしこの提案が受け入れられないなら、……帰ります」
この一線は崩せないと思ってしっかりと伝えた。面倒に思われるかもしれないけど、はじめにしっかりしておいた方が双方のためだ。これは、わたしのためでもあり、彼のためでもある。とはいえ自分可愛さが八割強。だって、傷つきたくない。
はじめっから、というかはじめる前からこんな条件をつきつけるようなまねをして引かれたかな? 不安になって彼の様子をうかがうと、ふっ、と気を抜いたように笑っていた。「なんだそんなことか」と彼の心の声が聞こえたような気がしたのは都合のいい幻聴だろうか。
「名前」
「え?」
「名前で呼んでほしか」
「……千里。わたしが言ったこと聞いてた?」
にこっと笑った彼が部屋の扉を開けて視線でわたしを招き入れた。わたしの後ろで扉が閉まったあと、ガチャンと音がして扉が施錠されたのだとわかる。
こうなることをわかっていたかのように用意周到に敷きっぱなしになっていた布団が見えた。靴を履いたまままた二度めのキスをされる。
「大事にするばい」
ずるいなぁ。微妙に答えになってないのに許してしまいそうだ。というかもう拒めない。
彼の部屋は完全にとなりのアパートの影にすっぽりと収まっているようで、まだ陽のある時間帯でも薄暗かった。そのかわり、干されるような暑さは感じない。ただ窓は開けられないからこもった熱が行き場をなくして肌にまとわりつく。
慣れた手つきで脱がされて、わたしはあっという間に剥かれていった。恥ずかしくて、なんとか肌を隠そうとするも「全部見せんね」と囁かれて呆気なく阻止されてしまう。
千里の指が、千里の唇が、千里の舌が、肌に優しく触れるたび、身体がじれったく熱を帯びていくのがわかる。それは千里も同じなのか、それとも単に暑いからなのか、上に着ていた服を脱ぎながら、無造作に汗を拭っていたのが見えた。
「声ば我慢しなっせ」
的確にいい場所を抉るように責めながら、そんな無茶なこと言わないでほしい。
「のむぞらしか声、他んやつに聞かせたくなか」
そう言うくせに、千里はわたしの太ももを大きく開いて固定したまま、逃げようのない快楽を追い打ちで与えてくる。
どこかだいぶ遠くの方から五時を告げるメロディが流れてきた。薄戸を一枚挟んだ玄関の外では子どもの慌ただしい足音が響き、「おかえりー」「ただいまー」と健全な日常の会話が響いていた。わたしは言われた通り必死に声を我慢しているというのに、千里は入れっぱなしになっていた自身をさらにグッとわたしの内に突き立て、隅々まで味わいつくすように楽しんでいた。
「なんね、その眼は。足らんと?」
千里がどう解釈したのかわからないが、腰を打ちつける深さが増していく。残虐性すら見え隠れする雄の眼で見下されて、恐怖より悦びを感じているわたしはたぶんおかしい。でも、肉食動物に牙を突き立てられた草食動物の最期は案外こんな恍惚とした混沌の中に沈むのかもしれないと思った。わたしを食べて。残さず食べて。わたしはあなたになりたい。自分と彼との境界線が曖昧になって溶け合うのを感じながら、堪えきれなかった小さな悲鳴が唇の端からもれた。
さんざんそうやって彼のペースで好きにいじめられて、気がつけば陽はとっぷりとくれていた。
順番にシャワーを浴び、即席ラーメンでお腹を満たす。
汗を流してすっきりしたせいか、窓から入る風が涼しくて気持ちがいい。風鈴の音にまじって鈴虫の声が聞こえた。まだまだ夏だと思っていたが、夜はすでに次の季節の準備をはじめているらしかった。
「明日ふとん干さないとね」
「はしっかり者ったい」
「煽ててもなにも出てきません」
「そぎゃんこつなかよ?」
大きな身体で後ろから覆い被さるように抱きすくめられて捕獲される。見た目よりやわらかな千里の髪がふわふわと首筋に当たってくすぐったい。
「っん」
「むぞらしか声が出たばい」
振り向いて、もうっと眼で抗議したが、千里はどこ吹く風。そのまま湿っぽいふとんに再び引きずり込まれて、あとはもうずっと戯れあうみたいに求め合った。そして、三度目にしてようやく彼の腕の中で迎えた朝。幸せに浸っていたのに、突然玄関からドアノブを回す音が聞こえてきて心臓が飛び跳ねて起きる。
「おるんやろー、千歳!」
ドンドンと扉を叩く音でようやくとなりで眠っていた千里も目を覚ます。どうしよう。どうするのか。ってか、誰?! わたしが慌てているのに、千里はまったく動じていないようで、のそっと立ち上がったかと思うと止める間もなくそのまま玄関のドアを開けてしまった。
「おまえ寝とったな、もう十時過ぎとるで……って、え? なんでフルチンなん????」
とにかく急いで服をかき集めるもそんなの間に合うはずもなく、曼荼羅柄のタオルケットで必死に裸体を隠しながら、信じられないくらいのイケメンと鉢合わせることになった。
ただし先に顔を真っ赤にして逃げたのはイケメンの方で、イケメンは外のゴミ捨て場にでも突っ込んだらしく、カラスがカァとけたたましく鳴き立てて羽ばたく音がした。