蒸された重い潮風が肌にまとわりつくのを心底不快に思いながら夜道を歩いていると尻ポケットの携帯が震え、ブーちゃん、もとい丸井ブン太からの〈今から飲もうぜ! 宅飲み、宅飲み!〉というメッセージを受信した。
メッセージが届く分、マシかもしれない。一度奇襲をかけられているので、こんな乱暴な誘いでもいささか良心的に思えた。
〈ムリ。女のとこ行け〉
〈俺が今女いないこと知ってて言ってんだろ! ふざけんな!〉
クマが猛烈に怒ってるスタンプ画像を連続で三回送られてきた。
〈クマじゃなくてブタだろ〉
〈マジふざけんな!〉
またもクマが画面内で怒り狂う。
〈つーか、ほんまにムリ。風邪引いとる〉
送信ボタンを押したタイミングでちょうど家に着き、すぐさまエアコンをつけて、ベッドに倒れ込んだ。
〈おい、嘘つくなよ〉
〈おいって!〉
〈マジで?〉
〈生きてる?〉
〈おーい!〉
静まり返った部屋に通知音が続けざまに響くが、返信を打つ気にはなれなかった。
一日寝れば治るだろうと思ったが、甘かった。日頃の不摂生がたたったのかもしれない
風邪薬、なんて気の効いた物がこの家にあるわけがない。
フラフラと歩いて丸井に無理矢理買わされた冷蔵庫を開けるとアルコール類の缶しか入ってなくて絶望した。
しかたなく水道水を飲む。生ぬるい。
汗でベタつくTシャツを脱いで、上半身裸のまま台所のフローリングに倒れるように寝転んだ。
しばらく、したのだろうか。自分でもいったいどれくらいそうしていたのかわからない。
インターフォンの音で目が覚めた。
今何時だ?
朦朧としながら、時間を確認するために床に転がっていた携帯を拾う。
そこで初めてからメッセージが入ってることに気づいた。
〈ブン太から風邪引いてるって聞いたんだけど大丈夫?〉
〈学校終わったから差し入れ持ってくね。いなかったら、玄関のドアにかけておきます〉
二件目の受信時刻は約五分前。
俺はモニターも確認せず玄関のドアを開けた。
「誰?」
「……それはこっちの台詞じゃ」
目の前にはなぜか見知らぬ女が立っていた。
自分に身に覚えがないだけで過去の女かと思ったが、相手も面食らっているのでそれも違いそうだ。
「ここ三〇四号室よね?」
女が不思議そうに首を傾げる。俺は無言でドアの横の部屋番号を指差した。
ここは三〇二号室。三〇四号室は向かいの部屋だ。
女は「あ」と短い声を上げ、「ごめんなさい」と慌てて謝った。身なりは整った上品な女だが、意外と抜けているらしい。
「アラ? 貴方、風邪?」
「プピナッチョ」
その女は俺のそんなふざけた回答にも気を悪くしたような素振りは見せず、「夏風邪は甘くみちゃ駄目よ」と本気で心配そうな顔で助言を残してから去っていった。
バタンッとドアを閉めると同時に溜息が漏れる。
そういえば、さっきの女は少しだけに似ていた気がした。特別どこがというわけではないが、笑うと幼くなる雰囲気がどことなくを連想させた。
それに、こんな見ず知らずの人間さえ心配できる気立ての良さも。
もあと数年すれば、あんな大人の女になるのだろうか。玄関のドアに寄りかかりながら、薄ぼんやりとそんなことを想像して鼻で笑った。
いつまでもこうしててもしょうがない。ベッドで寝よう。
そう思って身体を動かした瞬間、全身の血の気が一気に引くのがわかった。
——あ、これは本気でマズイ
受身もとれず、全身を固い床に打ち付け、その痛みを感じながら意識を手放した。
気がつくと、暗闇の中にぽつんっと独り座っていた。
すぐにこれは夢の中だと悟る。
非現実的な空間は天井も壁もなく、ただ闇だけが無限にある不思議な場所だった。居心地は……案外悪くない。
気ままに暗闇の中を散歩していると、出し抜けにまん丸な光を見つけた。
その光はまるでこの暗闇の出口のようで、ふと好奇心でその穴を覗いてみるが、暗闇に慣れていた俺の瞳孔は反応が遅れ、しばらくなにも見えない。
だから、視覚の代わりに聴覚と嗅覚が情報を先に捕まえた。
サーッと吸い込まれそうな音の後に、ザザザーッと押し返される音。それから微かながら潮の香り。
ようやっと目が慣れた頃、目の前に広がったのは慣れ親しんだ海沿いの通学路だった。
「仁王先輩こっちこっち!」
突然、赤也が後ろから俺を追い越すように現れた。
「おい、早く来ねえと全部食っちまうぞ」
ブン太が赤也に続く。
そして、その二人に少し遅れてが現れた。は振り返り、俺の方を見て微笑む。
「仁王」
ひどく優し気な声が潮騒に混じって俺の耳に届いたが、何も返事をせずにいると、は眉尻を下げてから、赤也やブン太のいる方へ歩き出してしまった。
思わず腕が伸びた。しかし、その手は何にも触れることなく、宙を掻く。
制服姿の三人の背中は俺をおいてどんどんと遠ざかった。
「宜しいんですか?」
今度はとなりに柳生が立っていた。
彼も制服姿だ。きっちりとYシャツの裾をしまい、ズボンの丈もジャストサイズ。
クイッとメガネを指で押し上げるお決まりのポーズで語りだす。
「プリッ」
「今ならまだ間に合うかもしれませんよ」
「ピヨッ」
「仁王君、真面目に聞きなさい」
「プピナッチョ」
柳生は無表情で俺を見下ろした。
やがて呆れたように溜息を吐き、「まったく貴方は……。そうですか。それなら、私もこれにて失礼します。アデュー」とスッと一歩下がり、暗闇の中に消えていった。
相変わらず柳生のセンスはわからない。ふざけているのか、真面目にやっているのか。真面目にやってるのであれば、俺よりタチが悪い。アデューってなんだ。
赤也もブン太もも、そして柳生も、みんないなくなり俺は何もない真っ暗な空間にまた独り。
光が消え、より一層深くなった気がする生緩い闇が身体全体ににまとわりつくようだ。
けれど何も怖くない。自分も闇になって同化してしまえばいい。
そう得意のイリュージョン! 俺は闇にだってなれる!
……なんてな。プリッ。
見知らぬベッドで目を覚ました。
ここはどこだ?
辺りをゆっくりと見渡すと、白い天井に白い壁。それから、窓には白いカーテンが掛けられており、ベッドのリネン類も全て白。白白白。
おそらく病院だろうな、と簡単に結論に至った。
程なくして、開きっぱなしになっていたドアから年配の看護師が現れ、俺の腕に刺ささる点滴を確認しながら、テキパキとこの状況について説明してくれた。
どうやら俺は自宅で倒れているところを友人に発見され、ここに運び込まれたらしい。
原因はただの風邪だが、肺炎の一歩手前まで悪化しており、早期に受診していればこんなことにはならなかったのよ、と叱られる。
いくつかの体調に関する質問を受けたあと、「友達にちゃんとお礼言わなきゃね」と微笑んでから、その看護師は部屋を出て行った。
パタパタと遠ざかる看護師の軽い足音と入れ違うように、今度は病院には全く似つかわしくないリノリウムの床をわざと痛めつけるようなヒールの音が廊下から鳴り響く。
その足音は俺の部屋の前で止まった。
「アンタ何やってんの」
チッ、と舌を鳴らしながら現れたのは、歳の離れた実の姉だった。
こうして直接顔を合わせるのは姉が高校を卒業して実家を出て以来だから実に八年ぶりだろうか。
「ほんといい加減にしてよね。こっちだって暇じゃないんだから」
久しぶりに見た姉は相変わらず派手で、もともと濃かった化粧がさらに三割増しになっていた。
病院から家族に連絡がいったのだろう。だがしかし、なぜ家を出ている姉が来たのか。いやそれより、よく来たな、と驚くべきか。
仁王家は昔から基本干渉し合わないスタイルだ。
家族全員が各々勝手に暮らす家は、朝も夜も関係なくカーテンが閉まりっぱなしで薄暗い。
家事が嫌いな母親に「小学生になったんだから自分のことは自分でできるわよね?」と言われ、学校から帰るとリビングのテーブルの上に置かれた千円札で、その日の自分の夕食を買うような生活だった。
夜は俺と弟だけしか家にいないことも多かった。
いつだったか、俺がまだ小学生で、弟は幼稚園生だったとき。弟が風邪を引いてしまったことがあった。
しかも夜になるにつれて熱が上がり、嘔吐を繰り返す。熱で苦しいのか、吐いてしまったのが怖いのか、わぁわぁと泣き出す小さな弟をなんとかなだめ、必死に看病の真似事をした。
父親も母親も家にはいない。
ガチャンッと玄関のドアが開く音が聞こえ、俺は急いで弟の部屋から飛び出した。
「姉ちゃん、待って」
その頃、姉は中学生だったはずだ。
親の監視の目のない思春期の子供は限りなく自由で、時計の針が何時を指していようとも、補導さえ気をつければ行動に制限はない。
「アキが熱出しちょる」
今まさに家から出て行こうとする姉の服の裾を藁にもすがる思いで必死に掴む。
普段はろくに口も聞かないが、頼れる相手はもう姉しかいなかった。
姉は「行かんで」と不安で泣く俺を一瞥してから、力づくで俺を自分から引き剥がした。
冷たい玄関の床に尻餅をついたまま、閉まっていくドアの隙間から姉がハエでも払うかのように手を動かしたのが見えて、俺はそれ以上姉を引き止めるのは諦めた。
俺たちはそういう家族で、そういう姉弟なのだ。
そして、数年後自分も弟に対して似たような態度を取るようになっていて、乾いた笑みが漏れた。
あの家は子供には広すぎて、大人には狭すぎる。弟も高校を卒業したら間違いなく出ていくだろう。
そして、よほどのことがない限り帰らない。
姉は自分のブランド物のバッグからこれまたブランド物の財布を取り出し、そこから何枚か紙幣を抜き取り、俺のベッドに放ってよこした。
「死ぬなら勝手に独りで死んでよね」
そして、もう用はないとばかりに部屋を出ていく。
なんの感慨もなく、この金で久しぶりに焼肉でも食うか、と姉が散らかした金を片づけた。
別に金に困ってるわけではなかったが、もらえるものはもらっておこう。
はて、その金をしまおうとしたところで自分の財布はどこにあるのかわからないことに気づく。携帯はベッドサイドのキャビネットの上に置いてあるのを先ほど見つけた。他の私物がここにあるかどうかベッドから降りて確認する。
キャビネットのある側とはベッドを挟んで反対にあるロッカーを開けると自分の服が出てきて、その下の棚に財布も見つけた。
金をしまっていると、またも廊下から足音が聞こえてくる。その慌ただしいこと。
廊下で短距離走の練習でもしてるのか、と思うほどとにかく物凄い速さでその音は近づいてきて、俺の部屋を通り過ぎた。と、思ったら、また戻って来た。
が肩で息をしながら、よろよろと倒れ込むように部屋に入ってくる。
「ハァ、ハァ、倒、たって、聞いて、」
てっきりここに運んでくれた友人とはのことだと思っていたが、この様子ではどうやら違うようだ。
なおもゼェゼェと喘ぐに「ちょっと落ち着きんしゃい」と声をかけてから、ベッドサイドのキャビネットの上に携帯と一緒に置いてあったお茶のペットボトルを渡そうとするが、すでにそれは開封済みなことに気づく。誰だ、こんなとこに飲みさしを置きっぱなしにしたのは。
「そんなに心配せんでも大丈夫じゃ。ただの風邪ダニ」
とりあえずを落ち着かせようと、ニッとわざとらしく笑ってピースサインを作った。
しかし、それを見たはヘナヘナとその場に崩れて、あろうことか顔を覆って泣き出してしまった。
「なーにやっとんじゃ。ほれ、ちゃんと心臓も動いちょるぜよ?」
自分もの前にしゃがみこみ、彼女の手を取って、自分の左胸に押し当てた。
だが、は泣き止まないどころか、わあんわあんと子供のように声を上げて泣きじゃくる。
どうしたものかと頭を掻いていると、しゃくりあげながらが何か必死にしゃべっていることに気付いた。
「無、で、かった」
無事で良かった。
その言葉は何もない空洞な俺の胸によく響いた。