<The afternoon of July.9 / by Masaharu.N>

 念のため、一晩病院に入院することになった。
チェックアウトは午前十時。質素なホテルだと思えば特に思うこともない。
〈無事退院できそう?〉というのメッセージには、〈大丈ブイ〉とだけ返しておいた。

 外はまだ午前だというのにそれに相応しくない暴力的な日差しで、早々に歩くのを諦め、タクシーに乗った。
幸い金だけならある。
 タクシーをアパートの前で降りて、三階の自分の部屋に着くまでのわずかな距離でも陽を浴びると大粒の汗をかいた。
夏はダメだ。冬もダメだが、夏が一番ダメ。
去年まで自分がこんな中でコートに立てていたことがすでに信じられない。
よくもまぁ六年間も続いたものだ、と今や他人事のように感心する。
 部屋に入って真っ先にエアコンをつけた。温度設定は二十三度。風量は最大。
室外機が寝入り端に起こされたように不機嫌な音を出して唸り始めた。
 午前はそのままベッドでうつらうつらとして過ごす。
長時間換気もせずにエアコンをつけっぱなしにしたせいか身体がまた怠くなってきていた。
何か腹に入れたいような気もするが、冷蔵庫には何もない。買いに行くより他ないが、外の日差しを思い出すと、たちまちその気は削がれる。
もういいか、と面倒くささが食欲に勝とうとした直後、ちょうど携帯が鳴った。柳生からだ。

〈身体の具合はどうですか? 生きていたら変身してください〉
〈ほぼ死んどるから変身は無理〉
〈すみません。打ち間違えました。返信です。それから生きてください。さんが悲しみます〉

 さんが悲しみます。
その文字列で昨日のの泣き顔がよみがえる。
わぁわぁと止めどなく溢れる透明無垢な涙。拭ってやりたかったが、生憎ハンカチなんてもんどこぞの紳士じゃないから持ち合わせていない。
ただ、頭を撫でて泣き止んでくれるのを待つしかなかった。

〈ちゃんと食事は取っていますか?〉
〈家になんもない〉
〈では何か差し入れに行きましょう。何が食べたいですか?〉
〈焼肉食いたい〉
〈わかりました〉

 突拍子もない我儘がすんなり通ったことに拍子抜けする。
しかし、今自分は一応病人であることを思い出して納得がいった。
 食事の心配もなくなり、気がつけばまたうとうとと眠ってしまっていた。
インターフォンの音で目を覚ます。軽いデジャヴュ。
念のため、モニターで訪問者を確認すると部屋の前に立っていたのは柳生ではなかった。



「柳生にね、頼まれて来たの」

 お邪魔します、と靴をそろえて家に上がる
その腕にはスーパーのビニル袋が下げられていた。

「それにしても、病み上がりなのに焼肉って大丈夫?」
「とりあえず、腹は減っとる」
「んーそっか。じゃあ今食べる? 柳生にね、ちゃんと仁王が食べてるかどうか確認するところまで頼まれてるの」
「お節介な奴じゃのう」

 はキッチンで手際良く買ってきた惣菜を皿に出したり、温め直したりしている。
その間にテーブルの用意でもしておこうかと、部屋の隅に置いてある作業机を引っ張り出した。
その上に乗ったままだった建築模型はとりあえずベッドの上に移動させる。

「いただきます」

 この部屋でまともな食事を取るのはいつぶりだろう。
基本、水周りの掃除をするのが億劫だからキッチンは使わない。電子レンジですら、買ってから二、三度しか使っていない。
ましてや、誰かと一緒にここで食事をするなんて、引っ越したばかりのときにブン太と赤也とが押しかけてきたとき以来な気がする。

「お肉以外も食べましょうね、仁王くん」
「プリッ」
「ほら、ナムル食べて食べて。これなら、焼肉屋さんっぽいから食べられるでしょ」
「どういう基準じゃ」

 そう言って何種類かのナムルがきれいに並ぶ皿を押し付けられる。
それを俺が口に運ぶまで許さないとばかりにが怖い顔をするので、しぶしぶ箸をつけた。
にんにくの効いたもやしのナムルを咀嚼してみせると、はよくできましたとばかりににっこりと笑顔になった。
おまえは俺の母親か。

「……つーか、なんで全部出来合いなん?」

 反撃とばかりにわざとらしく不貞腐れてみる。
の手料理は過去に何度も食べたことがあった。
出汁巻き卵、コロッケ、肉じゃが、生姜焼き。どれも目新しさはないが、逆にそこがいい。
じんわりと、舌に溶ける優しい味。訊けば、料理はほとんど自分の母親から教わったらしい。
どうせなら、今日はそういうのが食べたかった。

「仁王って手作りとかそういうの苦手じゃなかったっけ? それに、食材余ったって困るだろうし、すぐ食べられる方がいいかなって思ったんだけど……」
「.homeさんは気を回しすぎじゃ」
「……わかったけど、そういう我儘は彼女か柳生にでも言ってください」

 そういう人できたんでしょ? よかったね。とは俺の目を見ずに付け加えた。

「なんの話か知らんが、なら柳生に頼むか……あいつ、料理とか出来るんかのう?」
「……彼女、いないの?」
「おらん」
「またまた」
「なんでおまえさんに嘘つかんといけんのじゃ」

 は箸を持つ手が完全に止まり、心底疑わしげな視線を俺に向けてきた。

「……でも私、昨日この部屋に入ってくきれいな女の人見たよ?」

 ああ、あの部屋番号間違えた女のことか、とすぐに合点がいく。

「あれは彼女じゃなか」
「いちいち付き合ったりしない大人な関係的な?」
「なんでそうなるんじゃ。向こうが部屋間違えただけぜよ」
「嘘っだぁ」
「ほんと」
「嘘でしょ?」
「ほ、ん、と。つーか、おまえさんこそなんでそんなこと知っとんのじゃ」

 昨日お見舞いに来たときにたまたま……、とがもごもごと口籠った。

「……ねぇ、本当に彼女じゃないの?」

 その問いに、「違う」とはっきり答えてやれば、たちまちの肩からは力が抜け、“なんだぁ”という心の声が漏れ出た。
しかし、すぐさまそんな自分の態度を誤魔化すかのように、「あっ! ねぇ、さっきから気になってたんだけど、コレ見てもいい?」と慌てて俺に背を向けて話題を無理矢理に変える。

「別に面白いもんじゃないぜよ」

 そう言ってが覗き込む模型を一瞥した。

「えー、でもコレ全部仁王が作ったんでしょ? すごいね、さすが建築学部!」

 本当に大したものじゃない。
座学ばかりで飽き飽きしてる新入生に、教授が気まぐれで出したお遊びの実技課題だ。
敷地図面と最低限クリアしなければならない項目が箇条書きになったプリントが配られただけであとは自由。
自由過ぎて逆に困ったが、まぁいい、教授も好きにしろ、と言っていた、と割り切った。

「わぁ! 中もちゃんと作ってある!」

 がいちいち指を差しながら、模型の家を探索していく。
始めは単に話を反らすために手近にあった模型に食いついたにすぎなかったが、今は純粋に興味をひかれているようだ。

「えー、一階にはリビングとキッチンとー、お風呂に、トイレ。二階は子供部屋と夫婦の寝室かな? あ、庭に犬小屋もある! 細かいねぇ」
「どうじゃ、三十五年ローン」
「おぉ……、一気にシビアな話になった」

 うーん、うーん、とが真剣な面持ちで唸る。
そうして散々悩ましげに唸ったあと、

「でも、ここに住んでる家族はすごく幸せそう」

 と言ってパッととびきり明るい笑顔を俺に向けた。

 これはあくまで模型であって、そこに刺さってる五十分一サイズの白い人型は、ただスケール感を表すだけに存在するに過ぎない。
建築家は家は建てられるが、ただそれだけだ。
出来上がった家にその後どんな人間が住もうが知ったこちゃない。
設備や間取り、図面上でいかにそれらが美しく整っているかを考えた空想の建物。
 なのに、にはこの家に暮らす家族が見えるのだろうか。
 庭で元気に犬と遊ぶ子供たちが。
 それをリビングから見守る父親が。
 家族のためにキッチンで暖かな料理を作る母親が。
 ふいに、この家の玄関に立っているの姿が浮かんだ。
「おかえりなさい」と微笑む彼女は今より少し歳を重ねた姿で、エプロンがとてもよく似合っている。
きっと彼女はいい妻になり、いい母になり、そしていいおばあちゃんになるんだろう。
そんな十年後や二十年後、さらにはその先のもっと未来までもが容易に想像できる。
 には笑っていてほしい。
明るくて暖かで心から安らげるそんな場所で、正しい愛に守られながら新しい希望を産み、その輪を永遠に繋げていくような、そんな世界の中でずっと幸せでいてほしい。そう思っている。
 だから、とっとと俺なんか捨て置いていけばいい。
俺はそんな未来にを連れていってやることはできない。俺はそこへ辿り着く道を知らないから。
「ただいま」を言う役は俺にはできない。
イリュージョンすればいい? 馬鹿言え。
化かしていい相手とそうでない相手くらい俺にもわかる。

「仁王?」

 現実の彼女が俺の名を呼んだ。
「大丈夫?」と問われ、一瞬なんのことだかわからなかったが、とりあえず口が勝手に「大丈夫」と返した。

「仁王疲れてるみたいだし、私そろそろ片付けて帰るね。ゆっくり休んで」

 そう言って立ち上がり、皿を片付けようとした背中を反射的に抱きしめて引き止めた。


 行かんで

 どこにも、行かんで


 なんでもないと、これくらい平気だと、大丈夫だと、押さえ込んでいた感情が突如湧き上がる。ずっと箱の奥底にしまいこんで、決して開かぬようにと理性という名の紐を何重にも巻いていたのに、それが切れるのは驚くほど呆気なかった。

 さぁ、全て中身が飛び出した今、箱に残ったものはなんだ?

08.
パンドラの箱