<The evening of July.10 / by heroine>

 急に後ろから抱きしめられて、手に持っていた皿を思わず落としそうになった。
それをなんとか防ぎ、ほっとするも、その温もりはまだ背中にあり、緊張がすぐにまた戻ってくる。
息を飲む小さな音ですら許されない危ういバランスの空気がこの部屋全体を支配していた。
肩口に絡みついている仁王の手に躊躇いがちに触れると、その熱さに驚く。反射的に身を引いて振り返れば、艶のある鋭い瞳に捉えられ、開きかけた唇がうまく言葉を型どれなかった。
 手から皿が滑り落ちたが、仁王は気にせず私を再び抱きしめる。
 そばにいてくれ、と。
 必要だ、と。
 何もかも自分の都合よく解釈して、この熱を受け入れることができたなら——


「……欲しいものは自分から奪いに行く俺がさ、おまえのことはずっと待ってたんだよ」

「もう俺にしなよ」



 仁王の胸を押し返し、そっと身体を離した。

「仁王、やっぱり熱あるよ。ほら、ちゃんと寝なきゃ」

 風邪を引いたり、身体が弱るとそれに引きずられるように心も弱るときがある。
ましてや、誰もいない部屋にひとり残されるのはきっと心細かろう。
手近にある温もりを求めてしまう心情はわからなくもない。
 ベッドの上にある模型を壊さぬように慎重に下に退かしてから、仁王をそこに誘導した。仁王もそれに黙って従う。
横たわった身体に薄手の掛布団を掛けて、おやすみ、と囁いたが、仁王は自分の腕で目元を覆ったまま何も答えなかった。
 この部屋は日当たりがあまりよくない。カーテンも閉めきっているから、尚のこと。
仁王が眠りに落ちたのを見計らって、ベッドのそばから立ち上がり、エアコンを一度止め、窓を開けた。
生温い夏らしい風が部屋に舞い込む。冷え切っていた身体にはその温度がむしろ心地よくすらあった。
暑いからといって、冷やしすぎは身体によくない。せめて時々は換気をしないと。
 テーブルの上や溢してしまった料理と皿を片付けて、残っていたものはラップをして冷蔵庫にしまった。
 部屋を出る際、もう一度おやすみ、と小さく声をかけると、仁王は寝ぼけているのか寝言なのか「ただいま」とつぶやいた。



 いつもだったらインターフォンを鳴らして中にいる家族にドアを開けてもらうのだが、今日は誰とも顔を合わせたくなくて、自分で鍵を使って玄関ドアを開けた。
何も告げずに階段を上り、二階の自分の部屋に直行する。
そして、そのままベッドに倒れこみ、枕に顔を埋めた。
 もう陽はすっかり暮れていて、照明を点けていない部屋は仄暗い。
ベッドに入ったまま、カーテンが開きっぱなしになってる窓の外をぼんやり見つめた。
住宅街に一つ、また一つ、と明かりが灯る様を眺めていると、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのがわかる。
「おかえり」「ただいま」「おつかれさま」「今日の夕飯何?」「先に手を洗ってらっしゃい」「あ、エビフライ!」「コラ!」なんて会話を勝手に脳内でアテレコして和んだ。
窓の数だけ幸福があると思うだけで、優しい気持ちになれる。
昔から変わらない自分を癒す方法だ。

 静かな部屋にくぐもった振動音が響いた。
たぶん柳生だろうな、と思ってベッドの下に落ちていたかばんから携帯をノロノロとした動きで取り出すと、光る画面には柳生の名前の他にもう一つ、別の名前が表示されていた。

 幸村精市

 どくんっと心臓が大きく脈打つ。

〈貸した服そろそろ返せよ〉
〈あとなんか作りに来て〉
〈会いたい〉

 幸村のストレートな言葉たちに胸が締め付けられる。

「おまえはどうしたいんだよ」

 ブン太に言われた言葉がよみがえった。



 次の日、幸村のマンションへ向かう。本当は外で会うつもりでいたが、幸村に押し切られたのだ。
 借りていた「らーめん桑原」ティシャツとハーフパンツ、それからお礼に紅茶の茶葉を持って、噴水のある豪華なエントランスで呼吸を整える。
最後に小さな声で「よし」と自分を鼓舞してから、インターフォンのベルを鳴らした。

「いらっしゃい」
「あ、うん。でも、今日は……玄関でいいよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「俺がなんかするとでも思ってるわけ?」
「えっ」
「安心しなよ。無理矢理襲うほど困ってないから」

 だから入った入った、と強引に腕を取られ、あれよあれよと言う間にリビングに引きずり込まれる。

「ああ、来たのか」

 そんな私を柳が涼しい顔で迎えた。
まさか先客がいようとは思っていなかったので、普通に驚く。
逆に柳は私が来ることを知っていたようで、特段反応はなかった。

「はい、コレ」

 戸惑っているうちに幸村に差し出された白いエプロンを思わず受け取ってしまい、気がつけば私はいつものようにキッチンで汗だくになりながらフライパンを振るっていた。


 帰り道、ひぐらしが鳴く道を柳と歩く。
 はぁ、と肺の底から溜息が漏れた。

「精市と何かあったか?」

 何も答えられずにいると、「それとも仁王か?」と追い打ちをかけられ、思わず身体がギクリと反応してしまった。
柳はそれを見逃さず、「ほう、両方か」と意地の悪そうな笑みを浮かべた。

「……私、結構バレバレ?」
「いや、気付いているのはおそらく俺と丸井と柳生とジャッカルくらいのものだろう」
「それって、赤也と真田以外全員!」

 青くなる私を置いて柳はスタスタと前へ行ってしまう。
大通りに出る曲がり角に差し掛かったところで、やっと柳は振り返った。

「いつまでもそうしてる気か?」
「……私、どうしたらいいのかな?」

 この期に及んでもまだそんなことを他人に問うてる自分が情けない。
情けないついでに言い訳をすれば、今日は本当にちゃんと自分の気持ちを幸村に話すつもりで来たのだ。
なのにそれができなかったのは、柳がいたからということもあるが、なにより幸村がことごとく私の話を遮ったからだ。
私が口を開こうとする度すかさず何か用事を申し付け、私に一切余計なことはしゃべらせない。
そんな幸村の姿を見て、私の決心が揺らいだのも確かだった。

「俺はどちらの味方でもない。味方したところで俺にはなんの利益にもならないからな」
「……柳ってそういう奴だよね」

 不貞腐れた顔でじとっと柳を睨むが、余裕の表情でサラリとかわされる。
腹立たしさからより一層睨みを効かせれば、柳は呆れたようにフッと息を吐いた。

「だが、それは逆に何があっても敵にもならないということだ」

 数メートル空いた柳との間をとぼとぼと歩いて埋めた。
自分よりだいぶ背の高い柳を近くで見上げれば、穏やかな笑みで迎えられる。
あぁ、この表情、見覚えがある。よく赤也に対して向けていたものと同じだな、と懐かしく思った。

「おまえは、本当に望む未来を選択すればいいだけだ」

 柳は筋張った大きな掌で私の頭を撫でた。
大人が子供を励ますような、そんないたわりを感じる。

「……柳ってこういうとこズルイよね」
「惚れたか?」
「話をこれ以上ややこしくしないでください」
「すまないな。俺は計算高い女が好みなんだ」
「相変わらず変わったご趣味ですね」



 帰宅して、自分の部屋で幸村宛にメッセージを送った。
返信があるまでの短い間、また真っ暗な部屋で窓の外の街の明かりを見つめて過ごす。

 自分の想い、幸村の気持ち、仁王の存在。
なにを選んで、なにを捨てるのか。
それにちゃんと向き合わなくてはいけないときがきたのだ。

09.
その二歩手前