<The morning of July.16 / by heroine>

「うん、チェンジ」

 週末、駅の改札口で顔を合わせるなり、幸村は真顔で衝撃的な一言を放つ。
気まずさや不安で戸惑っていたはずの気持ちがパッと消し飛び、思わず目をひん剥いた。
 
「おまえさ、ティシャツにジーパンとか、俺のこと舐めてるの?」
「べ、別に普通でしょ!」
「普通にダサイ」
「いつもと変わらないじゃん!」
「だから、いつもダサイ」
「ひどい!」

 幸村は呆れたように溜息を吐き捨ててから、「行くよ」と私の手首を掴んで人ごみを掻き分けながらズンズンと歩き出した。
「ちょっと待って! ねぇ、幸村どこ行くの? ちょっと! ねぇってば!」という私の質問は「うるさい」の一言で片付けられ、駅ビル内の洋服店まで強制連行される。
 幸村は慣れた手つきで、ハンガーラックにかかっている服を次々と私の身体に当てては「うーん」と唸るのを繰り返した。
 予想もしていなかった展開に今日も初っ端から幸村のペースだ。このままではこの前の二の舞。なんとかしなくては。

「ねぇ、幸む」
「あ、すいませーん。コレ、試着いいですか?」

 なんの策も思いつかぬまま、私は一枚のワンピースとともに試着室に放り込まれた。

 私だってファッションに全く興味がないわけではない。
ファッション雑誌を買って、「あ、これかわいいなぁ」なんてうっとりすることだってある。
 しかし、これまで私は中高合わせて六年間ずっと部活漬けだった。
ほとんど休みのないスケジューリングで、私服を着て遊びに行くなんて半年に一度あるかないか。
そんな限られた機会のために、少ないお小遣いをはたいて服を買うのはさすがに躊躇われて、私のクローゼットは常に制服と地味な部活着ばかりが幅を利かせている状態だった。
 だから、私服に気を回せるようになったのは実質大学生になってからだ。
友達と学校帰りに近くの繁華街まで出かけてウインドウショッピングするのも、買い物の合間にカフェに寄り他愛のない話に花を咲かせるのも楽しい。
 ただ、やはり買うのは素っ気ないシンプルな服が未だに多かった。
ジャージばかり着ていたせいか、今更可愛くて女の子らしい物を身につけるのはなかなか勇気がいる。
白い総レースのブラウスに小花柄のスカート、ビジューが光るアクセサリーに、作りの華奢なヒールのパンプス。
どれもこれも可愛くて、可愛すぎて、手に取って眺めてはラックに戻してしまう。
「それ、似合うよ」と友達に勧められて勢いで買ってしまった唯一のスカートも結局はタンスの肥やしになってしまっていた。

 そっと、試着室のカーテンの隙間から外を覗く。
幸村はそれにいち早く気づき、私の了承もなしにカーテンを全開にした。

「うん、似合ってる。かわいい」

 カッと自分の顔に熱が集まるのがわかる。

「……どうせ、『服がね』とかって言うんでしょ」

 クスリと笑った幸村がくるりと私の身体を半回転させて、背後にあった全身が映る鏡に向けた。
 水色の夏らしいワンピースは上品で清楚で大人っぽいけどかわいいデザイン。
普段履かないスカートのせいで目の前の鏡に映る自分は自分じゃないみたいで、落ち着かない。
背後から幸村が「似合ってるよ」ともう一度鏡越しに私の目を見て言うもんだから、今度は近くに立っていた女性店員までもが顔を赤らめていた。

「じゃあ、これも履いて」

 試着室の前には自分の履いていた地味なぺったんこパンプスのとなりに真新しいストラップがついたヒールのサンダルがいつの間にか用意されていた。
自然に差し出された幸村の手を支えに、言われるがままサンダルを履いてみる。
ヒールは高すぎず、低すぎず、慣れていない私でもどうにか履きこなせそうだ。
幸村は少し離れて視線を私の頭から足先まで移動させてから「うん」と満足そうに笑って、「じゃあ、これ全部ください。あ、このまま着ていくんで、値札切ってもらえますか?」と止める間もなく会計へ向かってしまった。

「ねぇ、待って! 待ってってば!」

 たまらず、幸村の腕をふりほどいて叫ぶ。
しかし、近くにいた制服姿の女の子たちの視線に気付き、慌てて声量を落とした。

「なんで? ていうか、これ自分でお金払う」
「いいよ。プレゼント」
「そんなことしてもらえない」
「俺がしたいからしてるだけだからいいだろ」
「よくない」
「おまえに好かれたくて必死なんだよ」

 幸村の言葉に固まると、「冗談だよ」と幸村は吹き出した。
ほっと肩を撫でおろしたのもつかの間、「なーんてね、嘘」と幸村はアハハッと声を立てて笑う。
もう何が冗談で何が嘘なのかよくわからない。
 さっきまで着ていた服や靴を入れてもらった紙袋は幸村が持っていた。人質ならぬ物質だ。
 手のひらを包むように握られながら連行された次の場所は海岸沿いの水族館だった。


 薄暗い館内で、最初に目に飛び込んできたのは壁一面の大きな水槽。
サメ、エイ、イワシ、アジ、……あとはわからない。水槽の下に書かれた説明書きを読みつつ、その大きな水槽を言葉なく見上げた。

「美味しそう、とか言わないでよ」
「言わないよ。ブン太じゃあるまいし」
「でもさっきから口開いてるよ」

 え、嘘! と慌てて口を閉じる。
 館内は夏休み期間だからかなかなか混雑していた。
辺りを見回すと家族連れも多いが、カップルも多い。
居心地が悪くなり、後ろにいた小さな女の子に場所を譲って、次の展示場所へと足早に移動した。
 オレンジ色の小さな魚があまりにもアニメそのもので感動したり、作り物みたいな色のクラゲに驚いたり。穴子が狭い筒に何匹もぎゅうぎゅうにつまっている水槽はなかなか気持ち悪く、幸村と真顔で顔を見合わせてしまった。
 さくさくと進むはずだったのに、気付いたら完全に楽しんでる自分に「何やってんだ!」と心の中で喝を入れるも、結局イルカショーまでばっちり堪能してしまった。
 水族館をようやっと出て、お腹が空いたという幸村に連れていかれたのは今はやりのクリームや果物がたくさんのったふわふわのパンケーキのお店だった。意外な選択に、順番待ちをしている間に本当にこの店でいいのかと三回も確認して、幸村には「うるさい」と叱られる。
三十分以上並んで、私が嬉々としてゴテゴテのパンケーキを頼む向かいで、幸村が頼んだのはここ以外でも頼めそうなクリームも果物も乗ってない(この店では)質素なフレンチトーストとコーヒーだけだった。


 日が沈みかけた沿道を生暖かい潮風に煽られながら歩いていると、浴衣を着た人たちとすれ違う。
ああ、そうか。今日は花火大会か、とすぐにわかる。
 この花火大会は、打ち上げ数こそ他の花火大会に劣るものの、“夏の湘南”というロケーションのおかげでここらではとても人気のある花火大会だ。

も一緒に行こうよぉ」
「部活ですー」
「部活、終わってからでいいから来なよ」
「終わったら、花火も終わってるんですけど」
「テニス部厳しすぎー」
「しょうがないよ。全国間近だし」
「この部活バカ!」


 そんな会話を毎年笑顔で流したのを覚えている。
 マネージャーなのにロードワークはあるし、水仕事が多くて手は年中ガサガサ。休みなんてほぼないから友達とは遊べないし、大会前はみんなピリピリして気を使うこともある。「南ちゃん気取り」なんて影で悪口を言われてたことだってちゃんと知ってる。
もしかしたら、つらいことや嫌なことの方が回数で言えば多かったかもしれない。
それでも、決して辞めようとは思わなかったのは、自分がやると決めて始めたことを途中で投げ出したくなかったし、何より私は立海テニス部が好きだったからだ。
誰よりも近い場所で、誰よりも大きな声で、コートで闘う彼らを応援したい。
そのためだったら、なんだってできる。そう思っていた。
 ただ、まわりの子が自由に遊んでいるのを見て「いいな」と羨む気持ちがあったことも完全には否定できない。
ねぇ、今日は帰りどこ行く? とか、次の休みの日はデートなんだ! とか、そんな話題のときはいつもにこにこと笑うしかなくて、それは少しつらかったっけ。
 今日行った水族館は私たちの間では定番のデートスポットだった。
水族館に行って、おしゃれなカフェに入って、それから夕日が沈む海辺を散歩する。ここらの子なら一度は経験のあるデートコース。
高校生や大学生になると定番過ぎだし子供っぽいと不満を漏らす子もいたが、私にとっては今でもあこがれのデートそのものだった。
 幸村が、美術館でも植物園でもなくあの水族館へ連れてきてくれたこと、定食屋でも焼肉屋でもなくかわいいカフェを選んでくれたこと。疑いようもなくすべて自分のためだと思うと、胸がぎゅっと締め付けられる。
でも、——

「幸村」
「ねぇ、夕飯はどうしよっか? 俺、夕食は家がいいな。やっぱりさっきのじゃ全然足りないや」
「幸村、あのね、」
「あ、献立のメインは魚ね。うーん、焼きでもいいし、煮付けでもいいかな」
「幸村っ!!」

 私が立ち止まると、幸村も立ち止まって私を振り返った。
幸村の瞳がまっすぐ私を捉える。私ももう逸らさない。

「何?」
「私、やっぱり仁王が」
「俺は、それでもおまえが好きだよ」

 私の言葉を遮るように幸村の口からはっきりと出た“好き”という言葉には迷いがなくて、その強い眼差し同様、私の心を一直線に突き刺さした。
痛くて、痛くて、今まで味わったどんな痛みより痛くて、涙が込み上げてきたが、ぐっと堪えた。

「……女の子はさ、愛された方が幸せになれるって聞いたことあるだろ?」

 もう何度も考えた“幸せ”の意味。
自分の選択のせいで誰かを困らせたくなくて、誰かに嫌われたくなくて、誰も悲しませたくなくて、ずっと選択することから逃げてきた。
私を崖に追い詰めたのは幸村じゃない。自分でここまで逃げてきたのだ。
 差し出された手を掴むのか、はたまた自分の意思で崖から飛び降りるのか。
意気地なしな私に一歩踏み出す機会チャンスを与えてくれたのが幸村だ。

「うん。でもなにが幸せかは自分で決める」

 怖くて足が震えてしかたがないけれど、もう立ち止まったままは嫌だから。

「……おまえ、やっぱり馬鹿だね」

 幸村はそう言って笑って、今日ずっと握っていた私の手を放した。





「ねぇ、最後にキスくらいさせてよ」
「えっ!」

 迫ってきた幸村の顔にとっさに目をつぶってしまった。
 キス、されちゃう。
そう身構えた瞬間、むぎゅっと鼻をつままれて、「んぐっ」と変な声が出た。

「アハハッ、変な顔」

 幸村の優しさはわかりにくい。優しいようでいて、実は全然優しくなくて、でも本当はやっぱりすごく優しい。
あの雨の日、私の頬に流れる涙を拭ってくれたのは、確かに幸村だった。
 私は「ありがとう」という言葉を音には出さず、夕日の沈んだ夜色の海にそっと投げ捨てた。

10.
海にそっと捨てたもの