<The morning of July.16 / by Masaharu.N>

 柳生が〈借りていた本を返したいので会えますか?〉という連絡をよこしてきたので、昼間に会う約束をする。
待ち合わせの駅改札前は休日だからか人がやたらに多い。いや、そういえば……と思い、あたりを見回すと花火大会のポスターが目に入った。
日付は今日。そうか、もうそんな季節か。
独りでいると、時間も曜日も季節も意味が薄らいで虚ろになる。
 柱にもたれながら、流れていく人を観察していると、待ち合わせ五分前に柳生が現れた。

「お待たせしてすみません。でも、仁王君が待ち合わせ時間より早く来ているなんて珍しいですね」
「手前に他の用事があったんじゃ」
「そうですか。ああ、そうです、仁王君。昼食は済ませましたか?」
「いんや」
「では、まずご一緒にどうですか?」

 何が食べたいですか? と訊かれ、焼肉と答えれば、では参りましょうと真昼間から雑居ビルの地下にある焼肉屋に入った。


 じゅうじゅうと炭火で焼かれた肉の脂が滴り落ちる。
柳生はその脂が跳ねても大丈夫なように紙ナプキンで胸元をきちんと覆っていた。

「先ほど、幸村君とさんが一緒にいるのをお見かけしました」

 宜しいんですか? と続く言葉に、何がじゃ? ととぼけて返して、いい感じに焼けたカルビを白米に乗せてかきこむ。
 幸村が、を好きなことは以前から知っていた。
 草木を愛でているときにも似た慈悲深い眼差しでを見守る幸村の姿を見せつけられるたび、「はこういう人間にこそ愛されるべきだ」といちいち忠告を受けているようで勝手に不愉快に感じていたことを思い出す。

「そんな風にいつまでも逃げていたら、盗られてしまいますよ」
「もともと俺のじゃなか」
「貴方は本当に狡い人ですね。さんの気持ちを知りながら、それに応えることも拒むこともしない。なのに、時々彼女にひどく思わせぶりな態度を取る」

 柳生が箸を置いて、クイッとメガネのブリッジの位置を直す。
柳生のお説教タイムの始まりの合図だ。

「好きなのだったら、試すような行為はせず、きちんと向き合ったらいかがですか?」

 ああ、嫌だ嫌だ。
子供の頃から叱られるのは苦手だ。
柳生の話を半分に、空になった網に新たに肉を並べてく。

「今更なんじゃ」
「今更かどうか、きちんと向き合うべきです。と言っているんです」
「向き合うてなんになる。俺にはメリットがあるようには思えん」
「そうでしょうか。ずっと引きずるよりよほど潔い気持ちになれると思いますが」
「……おまえは、俺がわざわざフラれんのがよほど見たいようじゃのう」
「私はただ大切な友人の幸せを願っているだけです」
「さすが紳士。お優しいかぎりじゃ」
「仁王君」
「ハイハイ」
「返事は一回」
「おまえは俺の母親か」
「こんな意気地なしな息子を持ったらさぞ大変でしょうね」
「ほっとけ」
「ほっておいてほしいなら、ご自分できちんとしてください。仁王君、もう一度伺います」

 宜しいんですか? と柳生が念を押すようなはっきりとした口調で俺に問いかけた。
レンズ越しでも強すぎる柳生の視線をうまくあしらうことができず、無意識に下を向く。
長い沈黙。店内のBGMがやけに耳につく。

「……付き合うたら別れんといけんじゃろ」

 やっと吐き出された俺の情けない本音に、柳生が盛大な溜息をついた。
けれど、次に「仁王君」と呼んだ声はいつも以上に穏やかで、さっきからずっと自分の靴の爪先あたりを見ていた視線を前に戻せば、その声色に合った柔らかな笑みが自分に向けられていることを知る。

「添い遂げるという選択肢もあるんですよ」
「ヒビだらけのガラクタに金を払う阿呆はおらん」
「愛に対価は必要ありません。信じればいいのです」

 いつの間にかカルビが網の上で真っ黒な炭になっていた。


 ほどなくして焼肉屋を出た。
「申し訳ありませんが、本は忘れてしまったのでまた後日」とご丁寧に謝った柳生を駅の改札まで見送る。
そもそも本なんか貸していないんだから問題ない。
 駅構内を出ると、日差しは午後になっても全然和らいでいなくて、すぐにどこかに避難したくなった。
今日はこれからどうしようか。誰か適当な女に連絡でもするかと携帯を取り出したところで、柳生の言葉を思い出した。

——信じればいいのです。

 一体何を?
 の気持ちをか?
 違う。わかってる。
 自分が本当は何から逃げているのか。
 あのとき開いた箱の底になにが残っていたのか、俺はもうちゃんと知っている。

「あ、におーセンパーイ!!」

 急に名前を呼ばれ、視線を上げると道の反対側から制服姿の赤也がこちらに駆けてくるところだった。
「こんなとこで奇遇っスね」と屈託のない笑顔を向けてくる後輩に「まぁ、そうじゃのう」と適当に返す。
ここは学校と駅の間の通学路。そして、俺の家はその間にある。
偶然会うことに特に運命的なものは感じない。

「明日県大会なんで部活早く終わったとこなんスよ」
「おうおう余裕じゃのう。部長サン」
「四連覇するんで全国は観に来てください!」

 若きエースはいつの間にか頼もしい部長だ。
昔あった情緒の不安定さもほとんどなくなり、悪魔化も天使化もせず赤也は人間として地に脚をつけてコートで闘っている。
これを成長と呼ばずになんと言う。

「そうえば、仁王先輩って弟と全然似てないんスね」

 ハ? と柄にもなく本気で驚いてしまった。

「先輩の弟、今立海中等部のテニス部にいるじゃないっスか。俺この間初めて直接話したんスよ」

 立海に通っているのは知っていたが、まさかテニス部に入部していようとは。
俺が家を出るのと入れ替わりで中等部に入学した弟の近況などまったくもって知らない、ということに改めて気づく。

「スゲーいい奴なんで、マジで仁王先輩の弟なのかって、俺めっちゃ疑っちまったんスけど。ってイテッ!」

 どういう意味だ、と赤也の脇腹に無言でパンチを食らわす。
赤也は「もう何するんスかぁ」と情けない声をあげて大げさに痛がった。

「仁王先輩みたいなプレイヤーになるにはどうしたらいいか訊かれたんスけど、俺イリュージョンとかよくわかんねぇから、『仁王先輩本人に訊けば?』つったら、『内緒で強くなって驚かせたい』って言ってましたよ!」
「……それを俺に言っていいんか?」

 赤也が「あ!」と口を塞ぐが遅すぎる。
「俺から聞いたって言っちゃダメっスよ!」と必死に人差し指を立てて焦る赤也の頭をなんとなくわしゃわしゃっと犬のように撫でた。

「ちょ、やめて! 髪形崩れる!」
「ワーカメ、ワカメ!」
「アンタ、潰すよ?」

 赤也を存分に揶揄って別れたあと、携帯が震えた。
光ったディスプレイにはの名前が表示されていた。


 俺が信じていないのは自分自身だ。
こんな自分が愛されるわけがないと最初から諦めて自分から誰かを愛そうなんてしてこなかった。
愛しているのに、愛されないのは拷問だ。
そのつらさを知っているつもりだったから、愛すことも愛されることも面倒なことだと割り切って、今までずっとのらりくらりと逃げてきた。
逃げて、逃げて、いつの間にか迷子になって、不安で、寂しくて、泣き出したくて、でもそんなの格好悪いからふらり一人旅だと必死に強がって偽って。
あてもなく歩くけれど、進めば進むほど帰り道すらわからなくなる。
夜になっても誰も探してはくれない。誰も迎えにはきてくれない。
 は、そんな俺を哀れに思った神様が差し出してくれたランプの灯りだ。
その光は、決して強いものではないけれど、手をかざせば仄かに暖かい。
そばにいてくれるだけで、ただそれだけで、よかった。それ以上はいらない。もし、それ以上を望んだら罰が当たりそうだと思った。
 だから、自分の気持ちを箱に押し込んだ。
俺のことなんていつでも捨て置いてくれてかまわない。
そう自分で自分に嘘を吐き続ければ、楽でいられた。
 大学に入って、今まで毎日当然のように連んでいた丸井や赤也や柳生などのテニス部の面々とも自然と距離ができた。
当然だ。しかたない。ずっとこのまま一生なんてありっこなくて、むしろ自分が同じメンバーと六年間も連んでいたことの方がイレギュラー。
も。離れていくのはしかたない。
世話焼きマネージャーはとっくに引退してるのだ。
 頭ではそうちゃんと理解しているのに、いざ本当にがいなくなることを想像したら耐えられなかった。
 ちゃんと愛せるかどうかなんてわからない、傷つけてしまうかもしれない、それでもできるなら、その笑顔を、その幸せを、遠くから祈るんじゃなくてこの手で守りたい。
そう強く思ったからあのとき箱が開いたんだ。

 なにかが劇的に変わったわけじゃない。すべてが赦されたわけじゃない。
今更弟が自分のことをどう思ってるか知ろうと、自分が今までしてきたことは変わらない。
でも、微かな希望の光が見えるような気がする。
暗闇の出口。に続く道。
 箱の底で膝を抱えて泣いていた自分自身に手を差し伸べる。
やっと迎えにこられた。遅くなってごめん。
そう声をかければ、泣きっ面の幼顔が俺を見上げて笑った。


〈話したいことがあるので会えませんか?〉というのメッセージに〈今から会おう〉と短い返信を打って、防砂林の合間に覗く近くて遠い海の端を見つめた。

11.
孤独な旅のその先に