<The night of July.16 / by heroine>

「あのね、私、仁王のことが好きなの」

 あの日、ジャッカルのお店でブン太に語った想いが私の本当の気持ち。



テニス部ウチってすっごく厳しかったじゃない? 他のどの運動部より練習量も多いし、休みもないし、負けたら真田の鉄拳飛ぶし、幸村の精神攻撃怖いし。でも、みんな本当に頑張ってて……ううん、“頑張ってる”なんて言葉なんかじゃ言い表せないほど頑張ってて……。なのに、仁王はいつも“自分なんか”って思ってるみたいだった。苦しい試合を乗り越えても、どんなに勝ってもたとえ負けても、仁王はずっと良くも悪くも仁王のままで。……何にもない人間がさ、あんなに頑張れるわけないよ。……なんかそういうの悔しいなって。仁王が自分のこと好きじゃないとことか、認められないとことか、全部」

 ブン太に渡された箱ティッシュをぎゅうっと抱きしめた。
力が入りすぎて箱が歪な形にへこむ。

「だからね、仁王のために私がしてあげられること何かないかな? とか、いろいろ考えてみたりもしたんだけど……。結局いつも当たり障りのないことしかできないし、言えないんだよね」

 仁王の周りにはいつも半透明なバリケードがあった。
何者をも寄せ付けない強固なものじゃない。相手を見分けて、薄くなったり厚くなったりできる変幻自在な便利な壁。
自分と仁王の間の壁は他の子と比べれば薄い方に感じられたが、それは単にマネージャーだから、友人だから、で説明がつく程度の厚さだった。

「……嫌われたくなかった。余計なこと言って友達としてもそばにいられなくなったらどうしよって……」

 今まで積み上げてきた時間や関係が大切な宝物だからこそ、壊したくない。
ならいっそのことそれを唯一のものにして、自分の本心はどこか遠い深海に重りをつけて沈めに行けばいい。
そんなこと、そばにいられなくなることを思えば簡単だ。
そうやって無理矢理自分を納得させていたはずなのに、——

「好きなの、仁王が。どうしても、好きなの。仁王じゃなきゃダメなの」

 仁王が倒れたと聞いた瞬間、私の頭の中からは仁王の存在以外のものすべてが消え失せた。
会って顔を見て無事を確かめるまで生きた心地がしなくて、正しく鼓動する胸に触れれば涙が堪えきれないほど溢れ出た。
 全然ダメだ。やっぱりまだ無理。捨てられない。
 たとえ叶わなくても、仁王を好きだということを自分自身でもう否定したくない。

「バカ」

 ずっと黙って聞いてくれてたブン太が呆れ顔で口を開いた。

「おまえ、それ俺に言ってもなんにも解決してねぇかんな。俺に言って満足すんな。ちゃんと仁王本人に言え。じゃないとおまえいつまで経っても前に進めねぇぞ」

 うん、と鼻を鳴らしながら頷けば、「ったく、本当しょうがねぇなぁ」とブン太は乱暴に私の鼻にティッシュをまた押し付けた。

「これ、サービス」

 ジャッカルがいつの間にか厨房から出てきていて、私の前にガラスの小鉢をそっと置く。

「デザートの試作品。甘いもん食うと元気でるんだぜ、ってどっかの誰かがいつも言ってるだろ」

 そう言ってジャッカルがニッと白い歯を見せ、私の頭をポンポンと軽く撫でた。

「それ俺か? 俺だよな。つーか、俺にも寄こせ」
「おまえは今食わなくても十分元気だろ」
「寄ーこーせー!!」
「わーったよ。持ってくるから、店で喚くな」

 小鉢に盛られた杏仁豆腐はほどよい甘さで美味しい。
それを食べていたら、また泣けてきてしまい、ブン太とジャッカルにその酷い泣き顔をひとしきり揶揄われた。
 でも、これはさっきまでの涙とは意味が違う。
つらくて、苦しくて、どうしていいかわからないから泣いたんじゃない。優しくて、暖かいから流れた涙だ。



 なんだかんだ文句は言っても必ず助けてくれるブン太。一歩後ろで見守ってくれるジャッカル。
それから、いつも無邪気に「センパーイ」って駆け寄ってきてくれる赤也に、ちょっとでもしょげていると「たるんどる!!」って喝を入れてくる真田。
見てないようで全部見ていてそっとフォローしてくれる柳に、「大丈夫ですよ」と言葉に出して励ましてくれる柳生。
そして、強い力で未来へ引っ張ってくれる幸村。

 自分はなんて贅沢者なんだろう。
引退して、卒業して、環境が変わり、それぞれの道を歩みはじめてもなお自分のことをこんなにも気にかけてくれる仲間がいる。
本当に、テニス部でマネージャーをやり遂げて良かったな、と心の底から思えた。


◇◆◇


 駅周辺は混んでいるだろうからと仁王の家の近くのコンビニで待ち合わせをした。
少し早めに着いてしまい手持ち無沙汰でコンビニ内をうろうろしていると、肩を後ろから叩かれ、振り返れば仁王がいた。
仁王はこんなときだいたい待ち合わせ時間ぴったりか、ちょっと遅れてくる。
驚いて時間を確認したが、まだ待ち合わせの十五分も前だった。

「早いね、どうしたの!?」
「……なんで俺が待ち合わせ時間前に来るとみんな驚くんじゃ。傷つくナリ」
「ごめん、ごめん。てゆーか、本当にごめんね、急に」
「今日っつったのはこっちじゃ。謝りなさんな」

 顔を合わせるのは仁王の部屋でふたりっきりで会った日以来だから、気不味いんじゃないかと少し不安だったが、仁王はいつも通りだった。
ありがたいような、でもちょっと悲しいような。
複雑な感情を飲み込んでできるだけ明るい笑顔で「行こっか」とコンビニを出た。
 夜風を切って進む無言の仁王の背中に着いていく。
少し考えてから、となりに並んだ。

「今日、いつもと雰囲気違うのう」
「えっ! そうかな?」
「スカート。制服以外で履いとるん初めて見たかも」
「……うん。結構前にね、自分で買ったんだけど、なかなか着る機会なくて……。今日初めて着たの」

 水色のワンピースとヒールのサンダルは脱いできた。
仁王から〈今から会おう〉と返信を受けて、ひとり鏡の前で選んだのは自分が買った唯一のスカート。

「似合うとる。かわええ」

 一瞬足が止まりかけたが、なんとか誤魔化せた。
 仁王は狡い。こういうところがすごく狡い。
私が言ってほしい言葉を言ってほしくない絶妙なタイミングで言うのだ。
「……ありがとう」と下を向いたままつぶやいて、あとはもう黙って歩いた。
 夏の暑くてしっとりとした密度の濃い空気が沈黙を助長する。
でも、ここは湘南。何も話さなくても、波の音がある。ここで育って、ここで出逢えて、ここで仁王に恋をして本当によかったな、と今なら迷いなく言いきれる。
 見慣れた裏道に入り、仁王は自分のマンションへと入っていった。
本当は部屋には上がりたくなかったが、このままこの暑い中外にいることを強要するのも申し訳ない。
この時間に空いているファミレスもカラオケもその他諸々、おそらく今日は花火客でごった返しているだろう。
なら、やっぱり静かに話せる場所はここしかない。
 エレベーターに乗り込み、仁王が『7』のボタンを押した。
えっ、と驚いて仁王を見れば、詐欺ペテン師の顔でニヤリと笑った。

「……なんで屋上の鍵なんて持ってるの?」
「プリッ」

 仁王は舌を出して戯けてから、フェンスの近くまで寄り夜空を見上げた。
私もそれに倣って天を仰ぐ。薄雲がかかっている空は鈍い紺色が広がるばかりで星も月も見当たらない。
駅近くや大通りは人の流れがあっても、一本路地に入って住宅地になればいつも通りの静けさだった。聞こえてくるのはジーッジーッと鳴く虫の声だけ。
さすがにもうこの距離では波の音は聞こえてこない。
 アスファルトの固い床は学校の屋上と似ていて、よくそこでなぜかシャボン玉で遊んでいた仁王の姿を思い出す。
寂しそうに丸まった制服の背中。懐かしい。

「仁王」

 本当はいつまでもこうしていたいけど、時間は止まってはくれない。
変化を受け止めて、未来へ続く道を自分の意思で選ばないと、ただ優しいだけの過去に囚われてしまう。
 お別れは寂しい。ずっと一緒だった私の恋心。
でも私の幸せは、自分の気持ちを偽らないことだともう気づいてしまったから、悲しいけどさよならだ。

「好き。私、仁王が好きだよ」

 ちゃんと目を見てしっかり伝えた。
不思議と涙はもう出てこなかった。十分泣いたという証だろうか。
こうして仁王と向かい合って見つめ合えているのが嬉しい。きっと最後に勇気を出したご褒美。
今までは背中ばかり追いかけていたから、なんだか新鮮だ。

「返事はいらな、」

 言いかけた瞬間、低い音が響いたと思ったら、パーンッと大きな光の花が夜空に咲いた。

「えっ! わっ、花火だ!?」

 金色の火の粉がキラキラと闇夜に降り注ぐ。
緊張で強張っていた身体から自然と力が抜け、つかの間、その美しさに見惚れた。

「そうやって笑っとって」
「え?」
「ずっと、俺のそばでそうやって笑とって」

 仁王の腕が伸びて、私の手に優しく触れる。
それからゆっくりと抱きしめられた。
仁王の胸に押し当ててる耳からは仁王の心臓の音が微かに聞こえる。
ドクンットクンッ、ドクンットクンッ、繰り返すリズムが波の音に似ていて、目を閉じるとまるで砂浜にふたりで立っているような情景が浮かんだ。

「俺もおまえさんが好きじゃ」

 もう出ないと思い込んでいた涙が嘘のように溢れ出す。
「うそぉ……」と情けない声を漏らせば、すぐに「本当」と余裕のある言葉が返ってきたから、なんだか少し悔しくなって、これでもかってほどの力で仁王を抱きしめ返した。





「そろそろ泣き止みんしゃい。おまえさん、そんな泣き虫だったかのう?」

 抱きしめられたままいつまでも泣き続ける私を仁王がケタケタと笑いながら揶揄う。

「ほら、笑え。さもないと、ちゅうするぜよ」

 えっ、と身構えるものの遅く、仁王の唇が私の頬にちゅっと音を立てて触れた。

「ひとの寝込み襲った仕返しじゃ」

 驚いて顔を上げると、ちょうどまた特大の花火が打ち上がったところだった。

12.
光降る夜