フェンスにもたれかかりながら瞳を閉じて、小気味いいインパクト音に心を預ける。
結局俺はこの音が鳴っている世界が今でも一番落ち着くんだと改めて思い知らされたようで、なんとも小憎らしい。
コートの上では、嬉しいことや楽しいことよりつらいことや苦しいことの方が多かったはずなのに、不思議とすべて過ぎ去った今は何もかも等しく胸の奥で光っていた。本当に不思議だ。
ふと、背後で人の気配を感じて振り向けば、いつかのように丸井がそこに立っていた。
その表情もそのとき同様あまりにも気不味そうで、思わず先にこちらが笑ってしまう。
「丸井がここに来たってことはと仁王がうまくいったってことかな?」
丸井が「幸村くん、察しよすぎだろぃ……」と苦々しげに笑った。「本当にね」と笑って返す。
今日もナイター設備の整った野外コートはどの面も大学生で埋まっていた。
みんなただ単純にテニスを楽しんでいるように見える。ここには、負けても飲み代を払わされるくらいで、本気で負けることに怯えている奴なんかひとりもいない。そこが立海テニス部とは大きく違うところだ。
奥のコートでは真田が赤也を嬉々としてしごいている。
そして、その脇には柳が立ち、赤也のミスを細かく指摘していた。真田も柳も相変わらず赤也には過保護だ。
「別に丸井が気に病むことじゃないよ」
丸井とふたりで話しているのに、視線はわざとコートに向けたまま動かさなかった。
「それにさ、おまえが言ったことあながちハズレってわけでもないんだ」
ここで「幸村くんはが自分の思い通りにならねぇから、気にいらねぇだけだろぃ!」と怒鳴られたことは記憶に新しい。
こちらがどんなに押しても靡かなかった。丸井の言う通り、俺はのそういうところが好きだった。
お人好しで流されやすくて、でも芯は頑固で、こちらが呆れるくらい一途。
ずっとひとりの背中だけをひたむきに見つめている儚げで、でもとても凛とした横顔に俺は惹かれたんだ。
だから、この結果に本当はどこか少しほっとしている部分もある。
は最後まで俺が好きになった“”でありつづけてくれた。
彼女の美点がむげに摘まれることなくありのままの彼女でいられるのであれば、俺の願いはもう半分叶ってる。
『報われますように』
みんなが帰ったあと、独り部屋で書いた二枚目の短冊。
神様なんて信じていない俺が、きっとどこかでそんな存在を信じているであろうの代わりに書いた願い。
『立海大付属高校男子テニス部が全国大会四連覇できますように』なんてもうおまえが願ったりしなくていいんだ。
童話の中の健気な少女に輝く星の金貨が降ってきたように、の元にも幸福が舞い降りてほしい。
自分の想いより、の幸せを見つけてあげたかった。
ただただ誰かの幸せを祈ったのはこれが初めてだ。
「……でも、俺、あんときやっぱ言い過ぎたわ。ごめん」
丸井がそう言って俺に頭を下げた。
丸井は自分が悪いことをしたと思ったとき、相手に謝らなければ気が済まない質だ。
悪いことをしたら「ごめんなさい」、なにかしてもらったら「ありがとう」。そうやって今まで兄としてお手本になるように生きてきたのだろう。
「じゃあさ、」
上目遣いで俺の様子をうかがう丸井の喉がごくりっと鳴った。
「今度、誰かかわいい子紹介してよ。それでチャラにしてあげる」
俺がそう言うと丸井は目をぱちくりさせてから、ワンテンポ遅れて「おう!」と勢いよく返事をした。
「丸井センパーイ!」
ちょうどそのタイミングで赤也が丸井の名前を叫ぶ。
赤也は丸井がいることに今気づいたのだろう。大きく手を動かすジェスチャーで丸井を呼んでいる。
「ったく、しょうがねぇなぁ」と丸井もまんざらでもなさそうだ。
柳がこちらに戻ってきて、丸井にラケットを渡した。
「弦一郎と赤也の世話を頼む」
丸井はラケットを受け取り、クルクルっと器用に回してから、「俺、ちょっと行ってくるわ」と真田と赤也の方へ駆けて行った。
それを柳と並んで見送る。
「和解できたようだな」
「まあね。ご心配おかけしました。頼んでないけど」
「安心しろ。心配などしていない。こうなることはおおよそ見当がついていた」
嘘か誠か。いや、柳のことだ。ハッタリではないのだろう。そこがなんとも悔しいところだ。
「俺だってさ、わかってたよ」
がもし仁王と付き合わなくても、自分に振り向かないことくらい。
伊達に六年間一緒に過ごしてきたわけじゃない。のことなら、たぶん仁王より俺の方がよく知っている。
「でも、百パーセント勝つってわかってないとコートに立てないような奴にはなりたくなかったんだ」
柳は「精市らしいな」とフッと吐息で笑った。
「今度、丸井と俺とおまえで合コンでもしようよ」
「俺を巻き込むな。悪いが俺はちゃんと相手がいる」
「何それ聞いてない」
「弦一郎でも誘ってやれ」
柳に彼女がいるなんてこれっぽっちも知らなかった。
でも、ふと一緒に過ごした学生時代を思えば、似たようなことが何度かあったな、と思い出す。
柳は涼しい顔でしれっと彼女をつくっては、またしれっと別れる。
逐一報告しろ、なんて言わないが、自分の事情だけ知られているのはいささかアンフェアではないか。
ただ真田が自分たちと並んで、女の子の目の前で自己紹介をするのを想像すると、それはだいぶ愉快だった。
合コン、と言えば真田は来ないであろうから、どうにか騙して連れてくかと企む。
「精市」
名前を呼ばれ、柳を見上げる。
柳は穏やかな顔で微笑んでいた。赤也がその笑顔を「お地蔵さんみたいっスね!」と言ってわりと本気で柳を怒らせたのはいつだったか。
それに「大人気ないなぁ」と苦笑いする。そんななんてことない日常の一コマがふと鮮やかによみがえった。
「泣いてもいいぞ」
柳の言葉に「勘弁してよ」と軽く返してから、堪らなくなって俯いた。
この感情を素直に吐き出せたら、楽になるのだろうか。
泣いてしまえたら、涙がこの悲しみを洗い流してくれるのだろうか。
忘れてしまえたら、何事もなかったかのようにまた普通に笑い合えるのだろうか。
でも、それだけが前に進む方法じゃないと思う。
今はつらくてもいつか振り返ったとき、この想いもまた思い出になって、そして宝石のように眩しく輝くような気がするから、悲しみごとすべて抱えて持っていたい。
「さ、俺もそろそろテニスしようかな!」
きっとまた俺には大事な宝物が増えるから大丈夫。
予感を確信に変えて、コートに向かって足を一歩踏み出した。