「一体どんな催眠術をかけたんです?」

 自分と同じ顔をした奴に背後から話しかけられるのはあんまりいい気分ではない。
そんなことを思いながら仁王はとりあえず「なんのことかのう〜」とわざとらしくとぼけて帰り支度を続けた。

「そういえばお前は最初からあの女のことを気にかけとったな」

「なんじゃお前もあいつに気があるんか」と揶揄うような問えば、柳生の冷たい視線が返ってくる。
眼鏡をかけていない柳生は恐ろしく目つきが悪い。それは本人も自覚済みのことで、だからこそ滅多に人前で素顔を晒したがらないのだが、仁王相手には関係ないらしい。

「好奇心は猫をも殺すという英国の諺をご存知ですか?」

 仁王がふざけて「にゃおん」と鳴くと、これ見よがしなため息だ。
柳生は銀髪のカツラを取り、愛用の眼鏡を眼鏡拭きで丁寧に拭ってからかけなおした。
それだけでそこに立っている人物はもうすっかり柳生比呂士にしか見えないのだからまさにイリュージョンである。

「……私の父がさんのお母様の主治医だったんです。おそらく」
「おそらく?」
「父は仕事のことを家で話しませんから。ただ私なり点と点を結ぶとそういう結果になりました」
「ほんで? なんじゃ、お前の父親医療ミスでもして訴えられたんか?」
「まさか。……運ばれてきたときにはすでに手遅れだったようです」
「なら——」
「しかし、それはあくまで病院こちら側の言い分です。本人や本人に近しい人間がそれをどう取るかはわかりません」

「あいつがお前を恨んでるとでも?」と仁王はあえて続けた。

「……いえ、これもおそらくですが彼女は私の存在を知らないのでしょう。でなければ——」

 二人しかいなかった部室の外から数人の足音と話し声が聞こえて話が止まる。
柳生は最後に

「——ということなので、真田君を揶揄うのは百歩譲って良しとしますが、彼女に害を与える気なら私が許しません」

 と、仁王に釘を刺してから部室を出て行った。そして、柳生と入れ違うようにして真田たちが部室に入ってくる。
真田が一瞬仁王を見たが、目が合う前にすぐに逸らした。
思わず吹き出しそうになったのをなんとか堪え、仁王は片手で器用にスマホを操る。
柳生の忠告はとりあえず聞かなかったことにしよう。
[既読]のマークが付くまでのあいだ、仁王は真田の視線をあえて無視したまま部室で優雅に過ごすことにした。



 資料室でのできごと以来、は真田にぱったりと近づかなくなった。
「下手に嘘をついてこれ以上罪悪感を抱えたくないじゃろ?」と言っておいのが効いたらしい。
 あれだけ騒ぎ続けていたのに、年度が変わり新しい学年になった途端、急に態度を変えた——仁王以外にはそう見えただろう。
しかも——
それはちょうど先日のこと。部活を終えて帰ろうとしたテニス部面々の前にが現れた。
を見つけた途端、真田はカッと目を見開き肩を怒らせる。用もないのにこんな時間まで学校で何をしていた、部活終わりに待ち伏せなどするな、等々と言って叱りつける気満々なのだろう。
仁王は込み上げてくる笑いをなんとか噛み殺し、そんな真田の横をすり抜けて、「待たせたのう」とに声をかけた。
は超がつくほど不機嫌だ。それを対する仁王に隠そうともしていない様子がまた面白い。
けれど、それよりさらに傑作だったのは自分を待っていたと思い込んでいた真田の呆気にとられた顔だった。



 [既読]のマークはまだつかない。
おかしいな、とは思いつつも呑気にトランプタワーに興じている仁王の前にいつのまにか真田が立っていた。

「また待たせているのか」

 誰を、とはあえて聞いてこない。
「さぁのう」と煙に巻けば、「惚けるな」と厳しい声が返ってくる。短気な奴だ。

「待たせるも待たせないもお前に関係ないじゃろ。それともなにかこの部の副部長は部員の交友関係にまで口を出す権限でもあるんかのう」

 仁王の挑発に一瞬乗りかけた真田だったがぐっと堪えたらしい。「……原則、用のない者は速かに下校するのが決まりだ」と静かに低い声で返すにとどまった。一触即発。こういうときにいつもならやんわり止めに入ってくれるジャッカルは生憎今日はここにいなかった。

「さすが風紀委員。じゃあ俺だけじゃなくて他の奴にも注意しんしゃい。彼氏彼女の部活が終わるの待ってる奴なんざ他にもいっぱいおるじゃろ」
「……お前はテニス部のレギュラーだ。その自覚をもっと持て」
「俺は他が疎かになるほど女に入れ込んだりせんから安心しんしゃい」

「遊びじゃ遊び」と言った仁王の胸ぐらを真田が掴んだ。
そのせいで完成間際だったトランプタワーが見事に崩れた。

「たわけめっ! その腐った根性叩きなおしてくれるわっ!!」

 とうとう真田が拳を振り上げたところに「ストップ! ストーーップ!!」と間一髪ジャッカルが部室に入ってくる。

「あー、もうお前ら何やってんだよ。ちょっと目放すとすぐこれだよ。つーか、周りも誰か止めろよ」

 柳は「すまない。あまりにも馬鹿馬鹿しくてな」と言い、幸村は「ごめんごめん」とこちらも全然悪びれてる様子はない。

「話は全部から聞いたぞ、仁王! お前なにやってんだよっ!!」

 ジャッカルの後ろには丸井。そしてその後ろにはもいた。
 丸井が仁王にテニスボールを投げつけてくる。咄嗟に仁王がキャッチすると同時にが「あっ!!」と叫んだ。

「な、言っただろう。仁王コイツ左利き」

 がそれはそれは怖い顔で仁王を睨みつける。
赤也が「えぇ!? 一体どういうことっスか??」と声をあげ、真田もこの状況をまだ理解していないらしく眉間にありったけのシワを寄せたまま仁王とを交互に見ている状態だった。
丸井は仁王を睨みつけたままことの次第を暴露する。

仁王コイツ、こないだのこと庇って怪我したんだって。そんでそれ理由にのこと脅してたんだよ。自分が怪我したの真田にバレたらお前終わるぞって。しかも怪我したのは左腕じゃなくて右腕。つーか、そもそもその怪我自体怪しいけどなっ!!」
「怪我はほんとじゃ。ま、もうとっくの治ってるがの」

 が手近にあったボールを打つけてきたので仁王はそれをヒラリとかわした。

「お前なぁ、ほんとに何やってんだよっ! やっていいことと悪いことあんだろいっ!! 今回のはイタズラじゃすまされねぇぞっ!!」

 怒らせるつもりのない奴まで怒らせてしまった。とりあえず「落ち着け」とポケットに入っていた飴を丸井に渡そうとするも、「てめぇ、ふざけんなよっ!!」と当然ながら丸井の怒りは収まらない。
見かねたジャッカルが「まぁまぁ」と止めに入るが、丸井は今にも本気で殴りかからんばかりの勢いだ。
さすがに殴られるのは仁王とて御免である。
騒然とした部室に「ごめんね、真田」というの声が凛と響いて、それでやっと丸井の動きも止まった。

「部活、邪魔しないって約束してたのに……。それに仁王の怪我のことも最初からちゃんと嘘つかず言ってればよかった」

 は「ごめんなさい」と真田に頭を下げた。
咄嗟に今回のことはコイツは悪くねぇだろい! と加勢しよとした丸井を仁王が止めてまた睨まれる。

「頭を上げろ」
「もう怒ってない?」
「お前は俺が怒っているから謝っているのか」
「ううん、違う。約束破って、嘘ついて……だからごめんなさいって謝ってる」
「……ならもういい。お前が悪いわけではないことはもうわかった」

 真田が掌がの頭の上にそっと置かれた。
そこからじんわりと熱が伝わり強張りが解けたのか、が安心した顔つきで真田を見上げた。それに応える真田も心なしか優しげだ。
馬鹿馬鹿しいとしながらもなんだんかんだで見守っていた者も含め、その場にいた者全員がふっと肩の力が抜けるような気分を味わう。
だが、その雰囲気に付け込んで「一件落着、一件落着」と仁王がその場を締めようとすると、真田と丸井の怒りが再熱した。

「つーか、お前はまだ許されてねぇんだかんなっ! 真田揶揄うのにのこと使うなっ!!」
「こんな時期に怪我をするなどありえんっ! 日頃の鍛錬を足らん証拠だっ!!」

 うるさい男二人の言い分を仁王はすでに半分も聞いていなかった。
 赤也が「え、で、結局なんだったんスか?」と柳にこっそりと耳打ちする。

「まぁ要するに『男の嫉妬は醜い』という話だ」

 赤也が「はぁ?」と首を傾げた。