「さ、でも本当にそろそろ帰ろうか。さんも、ね」
この場に幸村に逆らう者はいない。
まだ納得のいっていない者も若干名いたようだが今日はこれでお開きだ。
学校から出る最寄り駅までのバスはもう最終が行ってしまった後だったので、薄暗い夜道をぞろぞろと連れ立って駅まで歩くことになる。
すっかりいつも通りに戻ったは嬉しそうに真田の腕にしがみついていた。
真田も今日はされるがままである。
「てゆーか、いよいよっスね! あ、時間何時でしたっけ?」
「バカもんっ! 八時に集合だとあれほど言っただろう赤也っ!!」
「試合あるんだ! いつ?」
「今週末だよ、さん。県大会、関東大会、順調にいけば八月に全国。あ、俺たちの試合は午後からだけど開会式があるから遅れちゃダメだよ、赤也」
「ウィーッス」と返事をした赤也がすぐにとなりの柳に「朝一緒行きましょうね」と声をかけてため息を吐かれていた。
「真田も試合に出るの?」
「当たり前だ」
「応援行ってもいい?」
真田の代わりに幸村が「もちろん」と答える。
「やったぁ! あ、じゃあ私ここからバスだから行くね。また、明日っ!!」
が手を大きく振りながら元気に駆けていくのをみんなで見送る。
何度も何度も振り返っては笑顔で手を振るを見て、「手くらい振り返してあげたらいいのに」と幸村は真田に言ってはみるが、案の定最後まで真田は手を振り返すことなく、が見えなくなると背を向けてとっとと駅に向かって歩き出してしまった。
いい加減認めればいいのに、と幸村は思う。
いくら鈍感といえど今日の一件でさすがの真田も自覚したはずだ。少しずつ訪れた自分の気持ちの変化に。
そして、あの笑顔が自分以外に向けられるかもしれない。そういう未来もあるということに。
でも、真田はに応えなかった。
そういうことなのだ。
何にも誰にも揺るがされることのない決意と覚悟に満ちた背中は頼もしいが同時にとても孤独にも見える。
「精市、どうかしたか」
柳に声をかけられ、幸村はやおら首を横に振り歩き出した。
駅の改札を抜け、「じゃあまた明日」とそれぞれが帰路につく。
今週末は県大会、そして関東大会と続き、八月には全国。
「遠いな」と呟いた幸村の声はホームに入ってくる電車の音でかき消された。
思い返せば真田とは長い付き合いだ。
通いはじめたテニススクールでダブルスの相手を探していたとき、幸村は自分と同じくポツンとひとりでいた帽子を被った男の子に声をかけた。それが真田だった。
通う幼稚園も小学校も違っていたが、いつだってテニスが二人を繋いでいた。
だから厳しい受験戦争を乗り越え、二人揃ってテニスの名門立海大付属中学校に進学できたときは本当に嬉しかったのだ。
幸村はそれまで学校に特定の親しい友人というものがいなかった。
やんちゃ盛りで悪ふざけをする同級生も多い中、幸村は教室の自分の席で静かに本を読んでいるような子で、大人しいというよりは大人びていて、周りとはすでに明らかに一線を画していた。
本を読んでる横顔は幼いながらも美しく誰もが見惚れるほどで、どうやらそれが相手を知らず知らずのうちに萎縮させる原因の一つにもなっていたようだ。
テニススクールでも似たような状況だった。
小学生ですでに頭角を現した幸村はその頃から向かうところの敵なしの正に神の子で、いわゆる神童と呼ばれる存在。
あまりにも強すぎるので同じジュニアコースに通ってる子たちでさえ幸村を恐れ、練習相手すらしたがらない。
真田以外は。真田だけは何度幸村に負けてもまた試合を挑んでくる。一緒にテニスをしようと誘ってくる。
コートの内では
「俺たちの代で全国三連覇を目指そう」
夕日に誓った言葉には青い夢と希望が詰まっていた。
なのに、それは呪いの言葉に変わってしまった。変えたのは幸村だ。
——
幸村ぁーーーっ!! 俺たちは無敗でお前の帰りを待つ!!
負けてはならぬ必ず勝て。それが王者立海。真田が掲げた無敗の掟。
いつ治るとも知れぬ病に倒れた幸村にとって真田の言葉は重すぎた。
医者にテニスなんてもう無理だろうと言われ、目の前が真っ暗になり、怒りに任せて見舞いに来てくれた真田にあたると、容赦なく拳が飛んできた。
「バカもんっ! 諦めるなっ!!」
初めて組んだダブルスの試合で負けそうになり挫けかけた幸村を奮い立たせたときと同じだった。
真田は何度だってそうやって力づくで幸村をこちら側に呼び戻す。
真田の曇りのない瞳はまっすく幸村を捉えていた。幸村が必ず病に打ち勝つと信じて待っていてくれているのだ。
その信頼に応えたい。そのために幸村はコートに戻ってきた。
『手塚はもう零式サーブは打てない。次のゲームが勝負どころだ——
そう全ては立海三連覇の為』
だからあのとき勝ちに拘った。
そうでなければ真田の思いに到底酬いることはできないと思ったからだ。
あれでよかった。間違ってはいなかった。
けれど——
『幸村よ…真っ向勝負であの小生意気な
そう幸村に言った真田は最後まで幸村を信じていた。
最後の一球が打ち返されるそのときまで。
信頼には信頼で返さなければならなかったのではないか。
諦めるなと言った真田に諦めさせた自分が酷くろくでなしに思えた。
——
今度こそ俺たちの手で三連覇を成し遂げよう
高等部に上がり真田にそう言われたとき、幸村は「ああ」としか返事ができなかった。
真田がテニスに情熱を注げば注ぐほど、あのときの試合のことが蘇る。
自分の判断は部長としては正しかった。けれど友人としてはどうか。
手塚はあのあとU-17選抜を経てドイツでプロになり、公式戦で真田と闘ったのはあれが最初で最後の試合になってしまった。
「“なに”にするかは自分次第なんじゃないかな」
あれは幸村が自分自身に言った言葉だった。今度こそ。今度こそは——
その思いは確かなもののはずなのに、一方で幸村はまだどこかで逃げていた。
真田のテニスに懸ける思いを感じれば感じるほどに増すのは拭いきれない罪悪感。
そこから目を背けるための恋に肩入れしてみたものの、結局は真田の揺るがない思いを改めて思い知っただけだった。
「ハ?」
「だから、真田は今手塚と試合してるよ」
「待て待て意味わかんねぇんだけど」
柳に「精市、説明をしろ」と凄まれて幸村は口を開いた。
「今、手塚一時帰国してるんだって。だから真田と試合をしてもらえるように俺が手配したんだ」
インターハイの決勝戦当日。集合時間を過ぎても真田が来ないという異常事態に幸村以外の部員が慌て出す。
「なんでよりによって“今”なんだよっ!!」
「それは手塚に言ってよ」
真田が手塚に固執していたことは周知の事実。そして、ここにいるメンバーはあの試合のことを強く覚えている。
反論はあれど誰もが口を閉じた。
「ま、とりあえず、真田副部長が帰ってくるまで時間稼げばいいんスよね!」
と、ことさら明るい赤也の声にみんなが一斉に顔を上げた。
いつのまにか頼もしくなった背中が真夏の日差しが降り注ぐコートに向かって歩き出す。
全国決勝。その幕は真田を待たずして今上がった。