「明日帰ったら真田の家の前で待ってたりしてね、さん」

 しかし、待てど暮らせどは一向に真田の前に姿を現さなかった。
今日かもしれぬ、明日かもしれぬ、そうやっていつ奇襲をかけられるともわからぬ状況では、なんとか心を落ち着けようとはじめた趣味の書道ですら手に付かない有様。
ふと、真田は書家泣かせの女字という言葉を思い出す。
“女”という文字は画数も少なくバランスがとりにくい文字の代表で、そこから“女”は書くも扱うもとかく難しいという様を言い当てているらしい。それをこんなかたちで自分が思い知ることになるとは。
 とうとうしびれを切らした真田は自ら動くべく腰を上げた。が、しかし、そこではたと気づく。
連絡を取りたくともの住所はおろか、個人的な連絡先さえ真田は知らなかった。
真田の携帯に登録されている連絡先はわずか数十件。家族と部員、それからテニス関係の人間やクライスメイトが少々。
 今はまだ夏休みで新学期までにはあと数週間もある。
「真田」と自分を呼ぶあの声がすでにひどく懐かしい。
 玄関の格子戸が開く音で真田は我に返った。
そうだ。今日はうちで勉強会の日だった。これも毎年恒例で、大半が赤也の為である。
馴染みのメンバーが挨拶もそこそこにぞろぞろと真田家の玄関をくぐり居間に上り込むなか、真田はさりげなく視線で彼らの背後を探ったが、やはりそこにの姿はなかった。
幸村に「どうかした?」と気付かれ、「なんでもないっ!!」とシラを切ったが、見抜かれていることなどその食えない表情でなんとなく察っすることができる。……不本意だ。


「そっか。さん来てないんだ」

「どうしたんだろうね」と言う幸村は先ほどから頬杖をつきながらこの上ない上機嫌で真田を観察していた。
「で、結局真田はさんになんて返事するつもりなんだい?」と、お前はここに何しにきたのだ!! と一喝したくなるようなことばり訊いてくる。
自分の家だというのになんたる居心地の悪さ。
真田は邪念を追い払うためにも勉強に集中しようと試みるのだが、そんなこと周りはもちろんお構い無しだ。

「いい加減飽きたんじゃねぇの。勝手な都合で一年近く待たされて今更好きとか調子いいにもほどがあんだろい」

 丸井の言葉が真田の胸にぐさりと刺さる。
自覚はある分重傷だ。

「恋って難しいよね。たとえ想い合っていても伝えるタイミングが少しズレただけでも上手くいかなくなったりするからね」

 そこに幸村がすかさず追い打ちをかけてくる。
「おいおい」とやんわり止めるのはジャッカルだけだ。
柳生は塾の夏期講習。仁王は旅に出ているとかなんとかで今日は不参加。
ある意味この場で真面目に勉強に集中しているのは赤也だけである。だがそれも柳が急用で来られなくなり当てが外れた赤也はほとんど終わっていない宿題をこれから一人で片付けねばならなく、真田をからかっている余裕がないだけというのが真相だ。
 不意打ちに玄関の呼び鈴が鳴り、次いで「こんにちはー」という聞き覚えのある女の声がした。
思わず真田が振り返ると案の定幸村がしてやったりという顔で笑っているところだった。


「お邪魔します」と居間に入ってきたはもちろん制服ではなく私服だ。
無地のティシャツにタイトなスカート。派手すぎずかといって地味すぎるわけでもなく、簡単にいえば垢抜けているように思えた。
化粧をしているかどうかは初な真田にはわからないが、格好もあいまってか年上の女にも見える。
見慣れなぬ姿に真田が戸惑っていると幸村が「あれ、さん髪の毛切ったんだ。可愛いね」とさらりと褒めた。
「ほら、真田も。何か言ってあげれば?」と小声で促され、真田は改めてを真正面から見すえる。
確かに言われてみれば髪型が多少変わったような気もするが正直そういうことに疎い真田にはよくわからない。ただ、似合っていようといまいと久しぶりに見るは何割か増しに可愛いく見えた。

「……うむ、涼しげになったな」

 なんとか絞り出した的外れな感想には気を悪くすることもなく「ありがとう」と微笑んでから、周りに倣って畳に腰を下ろした。
すれ違いざまにふわりと誘うように甘い花の香りが真田の鼻腔をくすぐる。
 真田は向かいに座って静かにペンを走らせるを盗み見た。これではまるでいつかの逆だ。
あのときは、目の前の試験のこと、テニスのこと、己のことで両手が塞がっていたが、今は違う。
丸井の言う通り今更都合のいい奴だと罵られても文句は言えない。
だとしても、今度逢ったときには必ず伝えようと決めていた。
なのに、どういうわけか本人を目の前にすると言葉が喉の奥で詰まり上手く出てこない。皇帝の名を持ってしても恋というものは一筋縄ではいかないらしい。

「ああーーっもうムリっ! マジムリっ!! ほんとムリっ!!」

 赤也が突然叫びをあげて、そのまま大の字で後ろに倒れこんだ。
勉強をはじめてから二時間。まぁ、赤也にしてはもった方だろう。

「バカもんっ! まったくお前は毎年毎年何故学習をせんのだっ! 常日頃から計画的にこなさんからこういうことになるのがわからんのかっ!!」

 この説教も何度したことか。しかし、これも最後になるかと思うと少しは感慨深い。
「貸してみろ」と真田が情けをかけてやろうとしたとき、赤也のとなりに座っていたが「私が教えてあげようか?」と先に声をかけた。
最初はあまり乗り気ではなかった赤也もの丁寧な教え方に次第に態度を変える。
課題がひと段落つく頃にはすっかり懐き、丸井たちと一緒に世間話に花を咲かせていた。

「部活やってない人って夏休みなにしてんスか?」
「ん〜なんかいろいろ?」
「遊び行ったり?」
「うん。このまえはみんなでタピオカ飲みに行ったよ」

「え、マジ? どこの? 旨かった?」と丸井が食いつく。

「ほら駅前。新しいところ」
「ああ、あそこな。あそこいつも混んでるよなぁ。結構並んだんじゃねぇ?」
「二十分くらい並んだかなぁ」
「いやいやこのクソ熱い中タピオカごときのために二十分並べるとか女子マジわかんねぇ」
「そうだよねぇ。私もよくわかんなくて、結局タピオカなしの頼んでんだけど、せっかく並んだのに! って、みんなから総攻撃された」
「そりゃそうなるだろいっ!」

 真田が「“たぴおか”とはなんだ?」と疑問をそのまま口にすると、から「ん〜っとこれくらいの大きさのカエルのたまごみたいなやつだよ」という摩訶不思議な答えが返ってくる。
「……お前それ一番ダメな説明の仕方じゃねぇかよ」という丸井の脱力したツッコミに笑いが起きた。
 庭にある井戸で丸ごと冷やしてあったスイカを切り分けて皿に盛る。
蚊取り線香はだいぶ灰になって落ちていたので新しいものに付けかえた。
生温い風が風鈴を鳴らす。
庭先でタネを飛ばしあって遊んでいる赤也たちをは縁側に座って微笑ましく見ていた。
いつもの夏の終わりの風景にがいるのが新鮮だ。

さん、そろそろ時間大丈夫かい?」

 と、幸村がに声をかけた。
居間に掛かっている時計がちょうど鳴り、夜の七時であることを報せる。さすがに夏といえど空の端には薄闇が気配を忍ばせていた。

「えぇ帰っちゃうんスかぁ。これから花火するんスよ。せっかくだからもうちよっといればいいのに。つーか、一緒に泊まりましょうよ」

 と、赤也がを引き止めたが、それを真田が「馬鹿を言うな。駄目に決まっているだろう」と代わりにつっぱねる。そして「送ろう」と自分から申し出た。

「あ、じゃあ俺もついでにコンビニにっと——」

 と、何も考えずに真田たちに付いていこうとした赤也の襟首は丸井が慌てて掴み止めた。



「真田のおうち素敵だね」

 真田が「ああ。古いがな」と応える。そしてまた沈黙。
 パチパチッと音を立てて古い街灯が点りはじめた。神経が過敏になっているせいか、そんなどうでもいいことばかり気になってしまう。

「私、特にあの縁側が気に入っちゃったなぁ」
「……なら、またいつでも来るといい」
「ほんとに? やったぁ」

 真田は横目でを盗み見る。するとすぐに気づかれ目が合ってしまった。
「どうかした?」と微笑まれると、気恥ずかしさで「いや」と誤魔化してしまう。
 こんな予定ではなかった。
自分を想いを口に出して伝えることなど造作もないことだと思っていたのに。
あれやこれと悩んでいるうちにあっという間に駅まで着いてしまった。
このまま離れるのは名残惜しい。
も同じ想いなのか真田の手をとって向かい合うかたちでにこりと微笑んだ。
の笑顔は不思議だ。以前と変わっていないのに前とはまったく違って見る。
変わったのは真田の方だ。
 真田が意を決して息を吸い込んだそのタイミングで、「今日はありがとう。楽しかった。みんなにもよろしくね。おやすみ」とが先に言い終え、そして止める間もなく去っていってしまった。
取り残された真田は手を振り返すことすら出来ず、遠ざかるの背中をただ棒立ちで見送る。しかもまた連絡先すら訊けなかったことに気づいて頭を抱えたくなった。
 家に戻り、玄関の戸を開けると待ちかまえていたらしい奴らが廊下を駆けてくる。

「で? どうでした? 上手くいったんスよね?」
「む、なんの話しだ」
「いやいや惚けないでくださいよ! あの先輩と付き合うことになったんスよね?」

 何故こんなにも赤也は期待に満ちた目で自分を見ているのか。訳が分からず真田は眉間にシワをよせた。

「どうやらこの様子じゃ赤也の負けみたいだよ」

 真田が告白できるかどうか皆で賭けていたことがバレ、何故か赤也だけが真田から雷を落とされた。