新学期がはじまると教室内の空気が変わる。
まさに受験一色。と、まではいかないが、余裕そうな奴らの表情の下にも少しずつ焦りや不安が見え隠れしはじめている。
夏まであった推薦入試の案内は剥がされ、代わりに予備校主催の模試の案内がいくつも掲示されていたが、それももう申し込み用紙はもうほとんど残っていなかった。
あと少しすれば内部進学テスト(付属の立海大に上がるためのテストだ)があり、それが終われば三年生は自由登校になる。高校生らしい生活も残りわずかなのだが、それを惜しんでる場合ではないというのが現状なのかもしれない。
そんな雰囲気の教室にいると仁王はふと自分ひとりが台風の目にいるような凪いだ気分になった。
「おーい、ちょっと」
と、が担任に手招きで呼ばれる。ここ最近よく見る光景だ。
はあれで成績も優秀だし、普段は真田のことさえなければ特におかしな行動もないので生活指導の対象になるとは思えない。
しばらくすると戻ってきたを友人たちが「どうしたの?」と取り囲む。
は「進路希望調査の紙、突き返されちゃった」と手にしていた紙をみんなに見せた。
「いやいや、『第一希望:真田の嫁』って」と教室の真ん中でどっと笑いが起こった。
「よぉ」
と、気さくに声をかけるも、かけられた方はしれっとローファーに履き替えて仁王の前を素通りしようとする。
「この時間帯だとあと四十分はバス来んぜよ」
学校から駅まで歩くとなると三十分はかかる。この残暑冷めやらぬ中、バスを待つにしても歩いて帰るにしてもどちらも地獄というわけだ。
そこで仁王は「チャリ後ろ、乗せちゃろか」と第三の選択肢をに提供してやる。
はしばし考える素振りをみせたあと突然仁王の髪を引っ張った。
「なにするんじゃ」と顔をしかめれば、「親切だから柳生かなと思って」と真顔で返してくる。
あの件以来、は仁王に容赦がない。
を自転車の後ろに乗せ、まだ暑さの残る通学路をひた走る。
湿った潮風が全身に絡みつき、すぐに汗が首を伝った。ここからしばらく木陰もない。第三の選択肢も他の二つと大差ない地獄だった。
仁王の自転車は所謂ママチャリで後ろに荷台が着いていたが、はそこに腰を下ろさずに慣れた感じで仁王の肩に手をつき立つようにして後ろに乗っていた。
本来なら咎められる行為だが、授業終わりでも部活終わりでもないこのはざまの時間帯の通学路には人通りもなく、必然的に注意する人間もいない。
と思った矢先に前方に人影発見。
しかも……
「真田っ!」とよく通るの声で真田とそれから一緒にいた幸村、柳が一斉にこちらを振り返った。
「仁王駐めて!」
「この自転車ブレーキ壊れちょるからムリ」
仁王がを乗せたまま真田たちの横を通り過ぎようとすると、が容赦なく後ろから小突いてくるので、仕方なく数十メートル先でブレーキをかけた。
止まるや否やはぴょんと自転車から飛び降りてあっという間に駆けていき、真田に体当たりをお見舞いする。
「すごい偶然っ! 真田が歩いてるなら私もやっぱり歩こうっと!」
「自転車の二人乗りは道路交通法違反だぞ、仁王」
「なんで俺だけに言うんじゃ」
「こんな時間に二人ともどうしたんだい?」
「お前らこそ三強お揃いで」
「俺たちは部活の引き続きだ。案外やることが多くてな」
まったく笑ってしまうほど過保護な先輩たちである。
は真田に会えたことがよほど嬉しいらしく、さっきまでのローテンションとはうってかわってキラッキラの笑顔全開だ。裏表があるとは違うが、ここまで違うともはや別人だ。どちらが本当のなのか……。
そして、この変化を真田は気づいているのだろうか。
真田の歩幅に合わせて周りをちょろちょろと歩きまとわりつく様は好奇心旺盛な小型犬である。
飼い主は自分がどんなに好かれているか自覚はあるのだろうか。
「もう部活はないんだよね?」
「……ああ、引退したからな」
「それならもしかして時間あるってゆーかせっかくだから今日このままデートしようよっ! ねっ?」
がぴょんっと飛び跳ねながら真田の腕にしがみついた。
それを何を思ったか咄嗟に真田が振りほどく。思いの外強い力で振りほどかれたらしくは少し後ろによろめいた。
「戯けめっ何を考えているっ! 受験生が“でーと”などしている場合かっ!」
いつもの真田らしいお言葉。照れ隠しだろうがそれもここまでくると白ける。
ただ、いつもだったら構わず「ええ〜行こうよ〜」とわかりやすく駄々をこねて甘えるが
「うん、そうだね」
と、あっさり引き下がり、「じゃあまた明日ね! バイバーイ!」となんでもなかったかのようにいつもの笑顔で手を振って、再び仁王の後ろにヒラリと跨った。
「もうええんか」と一応確認すれば、「うん、もういい」と返ってきたので、仁王は「ほんじゃあの」と幸村たちに挨拶してから、自転車のペダルに乗せた足に力を入れた。
後ろで真田が何か言おうとしている気配を感じたが無視して出発する。
一度漕ぎ始めてしまえば後ろに人が乗っていようとさして負担はない。
しかもここからは下り坂だ。仁王は後ろのに「ちゃんと掴まりんしゃい」とひと声をかけてから一気に坂を下って風を切った。
「あのなぁ」
しれっと欄間を開けておくととなりの進路指導室の声は丸聞こえである。
声の主は担任。一緒にいるのはだ。
これまで休み時間にちょっと呼ばれる程度だったのが、放課後に進路指導室ともなれば事は少々違ってくる。
担任がを呼び止めているのをたまたま見かけた仁王はいつもの好奇心でとなりの資料室に潜り込んで盗み聞というわけである。
「頼むから本気で書いてくれ」
「先生、私本気です」
「じゃあそれは一旦置いておいて。志望校を書いてくれ」
「私、進学する気ありません。だったら働く」
「お前なぁ……」と担任はほとほと困り果てた声を出す。そりゃそうだ。
立海は進学校。ほとんどの奴らが受験をして大学に進む。
私立なので経済的に恵まれている人間も多いし、教育熱心な親も多いのだろう。
今時大学など出て当たり前。これから何をするにしても大学を出ていなければ話にならない。そんなように考えている大人たちに囲まれて育てられれば、「とりあえず大学に入って」という発想に行き着くのも無理はない。
少数派に専門学校という奴もいないこともないが、就職なんていうのはまず聞いたことがない。
そんな生徒がクラスに二人もいれば担任はさぞ頭が痛いだろう。
「親御さんは金は出すって言ってくれてるんだろ?」
「たぶん。言えば出してくれるとは思います」
「なら……。お前が嫌なのもわかるけどさ、そこはほら、お前がちょっと大人になって、言い方悪いけど親を使ってやるくらいの気持ちでいけよ」
「大学に行ってまで学びたいことがありません」
「なくてもさ、とりあえずだよ。お前、頭良いんだからもったいないって」
「とりあえずで時間を無駄にしたくありません。就職がダメなら専門に行って美容師になります」
その場で適当に言っているのがバレバレだ。も頑な奴である。
だが、これまで弱腰だった担任もこれで負けるようでは教師は務まらない。
「じゃあってお前なぁ。あんまり仕事舐めるなよ」
と、しごく冷静な声でを諭した。
「美容師ってのは技術職と同時に接客業でもあるんだよ。お前、接客とかできんの?」
「……お客さんがみんな真田だったらできる」
「そんな店一ヶ月で潰れるわっ!」
重いため息を吐いた担任が「お前は今の状況から逃げるためにこういうこと書いてないか?」とに訊く。そして、沈黙。
根負けした担任が「頼むから自分の未来に投げやりになるな」とを送り出したのを確認してから、仁王は資料室を出て、昇降口に先回りをした。
そして、あとから来たにしれっと声をかけた、というわけだ。
すべて聞いていたと言ったらは怒るだろうか。いや、怒らないような気がする。
おそらく「ああそう」と興味すら示さないだろう。
仁王は坂を下りきったあと、を乗せたまま何も告げずに勝手に駅とは反対方向にある海までやってきた。
もさすがに途中で気づいたはずだが特にコメントはなし。そうして、今は高台に腰を掛け足をぶらぶらさせながら仁王が奢ってやったアイスを齧っている。
黙っている女というのは往々にして“私の話を聞いて”オーラを全身から放っているものだが、目の前の女はそんな気配を微塵も感じさせず、カラリと乾いた秋の空のように清んだ横顔でただ海を眺めていた。
進路が定まっていないことを責められていたは真田の言葉に傷付きはしなかっただろうか。
何も知らないとはいえ、そろそろ自分のことばりな真田に愛想が尽きても良さそうな気もするが、ある意味今はその余裕すらないのかもしれない。
集団の中でマイノリティであることは周囲が思っている以上に本人に負担をかける。無理解。それは孤独に繋がる。
早く大人になりたい、大人になってこの中途半端な世界から抜け出したいと渇望しているのは台風の外も中も同じだというのに。
こちらが勝手に抱いたシンパシーを仁王はどうこうする気もないが、これ以上が悲しむことがなければいいとは思う。
「仁王も受験するの?」
がなんとなしに仁王に訊いた。
仁王ものとなりに腰を下ろしつつアイスを齧る。もう半分溶けているようなものだったので、やたら甘く感じた。
「俺か? 俺は旅芸人にでもなろうかと思っての」
「なにそれ」
都合よくもうすぐ夕日が沈みゆこうとしていた。
が「帰りたくないなぁ」と誰に言うでもなく呟く。
「……そういうんは
「真田には言えなかったんだよねぇ」と言ったの声とともに溶けたアイスの雫がポタリと砂浜を汚した。