真田が自分の失態に気がついたときにはもうすでに遅かった。
そこにあったはずの熱が今まさに自分の腕をすり抜けてゆく様がスローモーションで見える。
咄嗟に出た照れ隠しだった。受験も確かに大事だが、今更それを理由にを遠ざけようとは思っていなかった。
が一瞬見せたのあの表情。怒り、悲しみ、呆れ、そのどれとも言い難いむしろ感情自体が抜け落ちてしまったかのような無の表情。
これまでが笑顔ばかりだったからこそ余計にその落差は激しい。
「三連覇の次は受験? さすがのさんも愛想が尽きたのかもね。仁王に乗り換えるのも当然だ」
「……乗り換える、だと?」
「だって現に今仁王と帰っていっただろ……って冗談だよ。そんな顔するなよ」
そんな顔とはどんな顔だ、と自覚のない真田は憮然に思う。
そんな真田を見て幸村は盛大なため息を吐いた。
「それよりさ。さん、夏あたりから元気ないみたいだけど大丈夫かな」
「む、なんのことだ?」
「お前の家に来たときも随分大人しかっただろ。いつもだったらもっとお前にべったりくっついてはしゃいだっておかしくないのに」
確かに言われてみればそんな気もするが実際にはどうもピンとこない。
の行動はいつだって真田の理解できる範疇を超えていた。
人前で平気で抱きついてきたり、軽々しく好きだと口にしたり、嫌われたくないからといってつまらない嘘をついたり。
思い返せば真田はに振り回されっぱなしだった。
なのに、それが不思議と嫌な記憶になっていないことに真田が気がついたのはつい最近だ。
「まぁ、これがの作戦なら大したものだがな」
「作戦? どういうことだ、蓮二」
「好きだ好きだと言われて急にそっけなくされれば気になるだろう。現にお前は今が気になってしかたがなくなっている。どうだ、違うか?」
そう問われ、真田はますますわからなくなった。
結局は自分を好いているのか、いないのか。
こちらが作った壁は易々と越えてくるくせに、近づこうとすれば離れていく。
これがすべて策だというのなら、自分は今までただの手のひらで転がされて弄ばれていただけなのか。
——否。
はいつだって真正面から真田に打つかってきた。自身が傷つくことすら厭わずに。
瞳を見れば嘘を吐いているかどうかなどすぐわかる。
「真田、だいすき」。そう直向きに伝え続けてくれた。
の笑顔は真田に対する最大級の信頼の証だ。真田が必ず約束を果たす男だと信じている証でもある。
それに、そもそも三連覇が果たされたときには自分の想いは決まっていた。それは断じての策略に嵌られたからではない。
真田自身がという人間をひとりの女として好ましいと思ったからだ。
いってみれば、もはや相手が自分をどう思っていようかなど二の次だった。自分の気持ちを正面から嘘偽りなく打つける。ただそれだけ。
男・真田弦一郎、たとえ時すでに遅しで玉砕しようとも一度決めたことはやはりやりとげねば気がすまない。
「待っててあげる」。その約束は確かに果たされた。
ならば今度は自分がそれに応えるのが礼儀というものである。
「策なら策でそれでいい。俺のあいつに対する想いはそれしきのことで変わらんからな」
勝手に落ち込んで勝手に立ち直ってる真田を見て、幸村と柳は顔を見合わせて笑った。
ともすればさっそく、といきたいところだが、そうは上手くいくわけがないのが相手あることである。
自由登校期間になったことで三年生のフロアは閑散としていたが、下級生たちはもうすぐある海原祭の準備で慌ただしいので、むしろ学校全体としては騒がしいくらいだった。
立海大付属の文化祭、通称・海原祭は一大イベントである。
中、高、大合同で行われるため規模も普通の高校のものより大きく、毎年外部からの客も多いため華やかだ。
真田も毎年この時期はクラスの出し物、部活の出し物、それと並行して委員会の仕事もこなさなければならなく、目まぐるしい生活をおくっていたが、今年は三年生なので風紀委員のOBとして当日の見回りを少し手伝うくらいの仕事しかなく、正直手持ち無沙汰気味である。
三年生も真田と同じく先のテストで内部進学を決めてる者やすでに推薦で進路が決まっている者などがクラス関係なく有志で出店することも認められているのだが、真田はそれには参加していなかった。
が、どうやらは参加しているらしいという情報を手に入れ、真田がのもとを訪ねにいくと、
「ごめん、真田。今準備ですっごく忙しいから、海原祭の準備が終わるまで待っててくれる?」
と、予想外の待ったを食らった。
しかし、今まで散々待ってくれていたに「待っててほしい」と言われれば、待ってやるのが義理というものだ。
「恋って難しいよね。たとえ想い合っていても伝えるタイミングが少しズレただけでも上手くいかなくなったりするからね」と言っていた幸村の言葉が真田の脳裏を嫌なタイミングで過ぎったが、今はぐっと堪えることにする。
真田が「相分かった」と承諾すれば、は「ありがとう」とにっこり微笑んだ。
いつものらしい笑顔。真田はそのことに胸をなでおろす。
手を振って去っていくにぎこちなく応えると、それだけで真田は胸のあたりがむず痒くなるのを感じた。
の背中が準備教室に消えたあともその余韻に浸っていると、不意をつかれて何者かに背後からブスリと浣腸をされる衝撃で我に返った。
「仁王ーーっ! 貴様ぁっ!!」
イタズラが成功した仁王はスタコラサッサとさっきが入っていったのと同じ教室に逃げ込んでいく。
真田が教室のドアをこじ開けようとすると、「ここは関係者以外立ち入り禁止じゃ」とピシャリと鼻先で締め出しを食らった。
参加者名簿を確認すればそこにはちゃんと仁王雅治の名前も記されていて、真田は思わず顔を顰めた。
見事な秋晴れで迎えた海原祭当日。
真田は腕に風紀委員の腕章をつけて警備の手伝いをしていた。
まだはじまったばかりだというのにすでに多くの客が来場し、何店舗かには列もできている。
それらが交通の妨げになったりしていないかなど確認しつつ校内のパトロールにあたった。
たちの模擬店も大いに賑わいをみせていた。
『森のどうぶつカフェ』と称したそこは店内のあちらこちらに装飾の工夫がなされていてなかなかの見栄えである。
壁や天井には蔦木が這わされ、テーブルは切り株風、足元には芝が敷かれていた。BGMは小鳥のさえずり。まるでおとぎ話の世界にそのまま迷いこんでしまったような世界観。
聞けば元演劇部の舞台美術担当だった者がおり、相当気合を入れて作ったらしい。
その意気込みが見事に反映されており、確かにこれは流行るだろうと納得できる出来栄えだった。
しかし、問題は給仕の格好だ。
ヒラヒラピラピラフリルのついたいわゆるメイド服。
女子は皆アイドルの衣装のような格好で頭には何かしらの動物の耳がついていた。
どうやらこれが『森のどうぶつカフェ』の“どうぶつ”の部分らしい。
「お待たせしました」と真田たちの前に紅茶を運んできた給仕の頭にも猫の耳を模したものがついていた。
幸村が礼を言うと顔を赤らめた女子はさっと恥ずかしそうに去っていく。ご丁寧に後ろを向くと長い尻尾までついていた。
「なんと破廉恥な……」と真田が顔をしかめたが、幸村は「そうかな? 別に普通じゃない?」と優雅に紅茶をすする。
「あ、結構味も本格的だ」とまるで気にもしていない様子である。
「脚が丸見えではないかっ!」
「制服のスカートもこのくらいの丈だろう? 俺は可愛いと思うけど」
「それにさんもきっと似合ってるんじゃない」と言われて、真田は「バカを言うな」と一蹴した。
なにもが可愛くないと言っているのではない。こんなものを着なくともは十分可愛いらしいというだけの話だ。
真田たちが訪れたときから店内にの姿は見当たらないので、もしかしたら裏方なのかもしれない。
そのことに真田は心からほっとしていた。
こんな無防備な姿を自分以外の男に晒すなど許しがたい。
すでに独占欲の塊である。
真田の思いを察した幸村が「先が思いやられるね」と肩をすくめた。
「なんのことだ」と幸村を問い詰めようとした矢先に真田は突如背後から何者かに襲われる。
もふもふとした謎のものに後ろから羽交い締めにされ息がでいない。やっとのことで真田が振りほどいて見たものは——
「“うさいぬ”ではないかーーっ!!」
真田の歓声が狭い店内に響き渡り、驚いたメイドが茶器を一組落としそうになる。
真田に体当たり食らわせてきたのはなんと着ぐるみだ。
しかも、つぶらな瞳、ふくよかな頬、もふもふの体毛。真田が愛してやまないゆるキャラ“うさいぬ”。
この着ぐるみもこの店の出し物の一部なのだろうが。他のものとは若干テイストは違うが、これこそまさに真田が求めていた“可愛いらしさ”というものだ。
「すごい完成度だね。へちゃむくれ具合がそっくり」と幸村も関心した声を出す。
褒められたことが嬉しいのかうさいぬがぴょんぴょんとその場で飛び跳ねまわった。それがまたなんとも愛らしい。
近くにいた子供も「わぁ、うさいぬだぁ」と集まってきた。
いい客寄せパンダならぬ客寄せ兎だ。
このままずっとうさいぬと過ごしていたいがそうもいかない。真田は断腸の思いで店をあとにすることにする。
「さん探さなくっちゃね」と幸村に言われ、真田はしっかりと頷いてみせた。
約束は海原祭の準備が終わるまでだった。だとすれば、今日はもういいはずである。
そう。今日こそ。必ず伝えるのだ、と真田の決意は固い。
去り際にうさいぬが入口までわざわざ見送りにきてくれた。うさいぬは近くに立っていた仁王から看板を奪い取り、ひっくりかえして真田たちの方へ向けて見せてくれる。
〈また来てね♡〉
客引きだとわかっていてもなんたる可愛さ。真田は一瞬のことも忘れて、うさいぬに心を奪われた。
その罰が下ったのかもしれない。両手足を縛られ身体の自由もきかず、声すら出せないこの状況。一体何故こうなった——?