○かわむら寿司にて
「大石、手塚、やっほぉ遅れてメーンゴ☆ 撮影が長引いちゃってさ。あ、タカさんも久しぶりだにゃ」
遅れてやってきた菊丸が立ったまま今しがた河村が握ってくれた寿司をひょいっと摘む。
それを大石が「こら、英二! 行儀が悪いぞ!」と窘めた。
「だってずっと撮影でなんも食べてないんだもん」と菊丸は悪びれもせず寿司をもぐもぐと咀嚼する。
「このあいだ英二が出てるドラマ見たよ」
「サンキュータカさん! でも知り合いに見られてると思うとやっぱ恥ずかしいね」
「英二のサインも手塚のサインも店に飾れて俺は嬉しいよ。今日二階はみんなしか上がらないようにするからゆっくりしてってね」
河村が階段を踏み締める音が遠ざかる。
かわむら寿司は一階にカウンター席と座敷があるが、団体客が来たときは二階の座敷も使えるようになっていた。
おそらく今日は菊丸に配慮して二階に通してくれたのだろう。
手塚が日本を離れているあいだ皆それぞれの道を進み大人になっていた。
大石は予定通りスポーツドクター、菊丸はアイドルになったらしい。いや、俳優といっていただろうか。日本のテレビを見られていない手塚にはそのへんの違いがよくわからない。
「じゃああらためて。今日は人数が少なくて申し訳ないけど、手塚、おかえり」
と手塚の一時帰国を祝うささやかな同窓会が始まった。
「おまえたちも久しぶりなのか?」
「まぁな。英二は忙しいから」
「よく言うよぉ、大石だってろくに休みなんかないくせにぃ」
二人のテンポのいい会話を聞きながら忘れないうちにと手塚は自分の鞄から二人に渡すドイツ土産を取り出した。
その拍子に別の包みが鞄からポロリと転がり落ち、すぐに拾ってしまいなおしたが、それを目ざとく見つけた菊丸が自分たちの土産はそっちのけでそれに食いついた。
「なになにそっちの可愛いラッピングのは誰にあげるのかにゃ〜?」
「こらこら英二!」
「大石も気になってるくせに〜」
「いや、でも手塚にもちゃんとそういうひといたんだな。なんだか安心したよ」
少しの間をあけて手塚が「いや……そういう相手ではない」と否定すると、
「え? どういうこと? 姪っ子ちゃんとかそういう?」
「いや、手塚は一人っ子だから姪御さんはいないだろう」
二人の困惑する顔が手塚に向けられる。
「……に渡そうと思って買ってきた」
正直に白状すると、菊丸が「?」と首をひねった。大石は思い出したのか「手塚が生徒会長してた頃の副会長の子か」と目を丸くする。
菊丸が「えっ、あ、不二と噂になってた子?」と言い、手塚の眉間に微かなシワが寄った。
「で、その子とはどういう関係なの?」
菊丸にそう訊かれて手塚は黙った。訊かれて不快だったからではなく、自分たちの関係をなんと形容したら良いのか咄嗟に適切な言葉を見つけられなかったからだ。
「付き合ってはないってことなんだよな?」
「……ああ」
「付き合ってもいない女子にお土産?」
「……やはりおかしいだろうか」と言う手塚の問いに大石は「いやぁ……」と濁したが、菊丸は間髪入れずきっぱり「おかしい」と断言した。
「それって今回だけ? 違うんじゃない? お土産渡すってことはわざわざ会ってるってことっしょ? それで? それだけ?」
「いや、手紙とメールと電話を月に数回交わしている」
「もう、そういうことじゃなくてさ! あぁもうまどろっこしいなぁ手塚は!」
大石がなんとか手塚に助け舟を出そうと「きっかけはなんだったんだ? たまたま日本に帰ってきてるとき会ってお土産を頼まれたとか?」と話がうまく進むように質問を続けた。
「……いや、そういうわけではない。には帰るときに俺から連絡をしている」
「手塚ってのことが好きなの?」
ズバリの疑問に手塚は眉間にシワを寄せた。そのまま沈黙していると、「もうだんまりになんのやめてよ、話進まないじゃん」と菊丸が怒る。
「じゃあさ、今の手塚は仮にに恋人がいたとしても文句も言えない立場ってことだよ。そういうのわかってんの?」
「……恋人か。考えたことがなかった」
「呆れた。それってすっごいに失礼だよ。手塚、俺たち今何歳かわかってんの? 二十五だよ。もう好きだって気持ちだけで一緒にいれる中学生じゃないんだよ!」
菊丸が止める間も無く手塚の鞄からへの土産を引っ張り出し、きゅきゅっと慣れた様子でそこにサインをした。
「も身勝手な手塚が選んだお土産より俺のサインの方が喜ぶんじゃん。んじゃ、俺明日も撮影早いからもう帰んねっ!」
寿司をあらかた腹に収めて言いたいことをいって満足したらしい菊丸は風のように去っていく。
それと入れ違うように河村が追加の寿司と酒を持ってきてきた。
「あれ? これに? も英二のファンなの?」
「いやそれはどうだろう……。ってタカさんさんのこと覚えてるんだな」
「いや、この前お店にきてくれてさ。あ、そうそう、そのとき幸村と一緒だったんで驚いたよ」
思わず大石が「えっ!」と声を上げる。
「あれ? 大石こそと仲良かったっけ?」
「いやぁ……そういうわけじゃないんだけど……」
「もう卒業して十年経つだろ。俺正直言うとパッとだってわかんなかったんだよ。それくらい綺麗になっててさ」
詳しくは訊かなかったけど仲良さそうでお似合いのカップルだったよ、と河村が笑いながら空いた酒やら皿を片付ける。
今日は下も忙しいのか河村はすぐに下へ戻っていった。
「まぁ、一緒に寿司を食ってたからって付き合ってるとも限らないしな!」
と大石がわざとらしく明るい声を出して自分をなんとか励まそうとしてくれている気遣いを感じて手塚は申し訳なく思った。
今日はとことん飲もう、と注がれた酒はよく冷えた美味い日本酒だったが酔う気分には到底なれない。
「手塚はどうしたいと思っているんだ?」
菊丸と違って大石は手塚の答えを辛抱強く待ってくれる。だからこそ手塚は答えないわけにはいかなかった。
菊丸に指摘されてはじめて気づいた可能性。そして同時に気づいたことは、自分が無意識には自分の帰りを待っていると期待していたことだ。
ドイツでの生活は日本にいた頃以上にテニスがすべてだった。
家族も友人もいない、築き上げた功績もここでは無に等しい。文字通りゼロからのスタート。
それでも充実した日々を過ごせているという実感があった。
だが、ふいにテニスから離れると考えないように無理やり意識の隅に追いやった想いが滲むように心に広がることがあった。
元気にしているだろうか。困ったことはないだろうか。しっかりしているようで案外抜けたところもあるので心配だ。
手紙くらいならば送っても問題ないだろう。それがメールくらいなら、電話くらいならと増えていく。
内容は当たり障りのない些細な日常のこと。けれど、手書きの文字を見るだけで、電話越しの声を聞くだけで、ただそれだけで癒される。手塚にとっては変わらずずっとそういう存在であり続けた。
に好きだと想いを告げられたとき、手塚は“今は”おまえの気持ちに応えられないと答えた。
待っていてほしい、という己の願望が強すぎるあまりに幻想を抱いていたのかもしれない。
「……今の俺ではそばにいて守ってやることもできない。そんな俺が自分の想いを伝えるべきではないと思っている」
なら、なぜ自分はを繋ぎ止めるようなことをしているのだろう。
「俺はおまえがどうしたいのか訊いたんだよ、手塚。さんだってきっとそれを知りたいんじゃないか?」
だからあのときは手塚に想いを告げたのだろうか。
「……俺は菊丸の言う通りいつも自分勝手だな」
これまでは周りの優しさがそれを許してきた。だがそれをにも求め続けるのは酷だろう。
「英二は本気でそう思っていったんじゃないと思うぞ。歯がゆかったんじゃないかな。アイツも最近までずっと同級生の子と付き合ってたんだけど、英二の仕事とかそういう理由でダメになっちゃったらしくてさ……。だから、手塚には自分と同じ思いさせたくないんだと思う」
俺は逆に手塚が相手のことばかり気にかけて自分の気持ちを押し殺してるんじゃないか心配だよ、と言う大石の姿は青学の母と呼ばれていた頃と変わらない優しい男だった。