○ホテルにて

 予定が変わりとの待ち合わせに間に合いそうにもないと判断した手塚はにメールを送る。
するとすぐにから電話がかかってきた。

〈もしもし、今電話大丈夫?〉
〈ああ、大丈夫だ〉
〈おつかれさま。大変そうだね。今日は遅くまでかかりそうなの?〉
〈ああ。まだ正確にはわからないが二十一時は過ぎる予定だ〉
〈でも、もうドイツに帰っちゃうんだよね?〉
〈……ああ、すまない〉

 本当なら今日ちゃんとこれからのことや自分の気持ちを話そうと思っていたが無理そうだ。
覚悟を決めていたはずだが結果を先延ばしにできることがわかってほっとしている自分がいた。自分の弱さが浮き彫りになり嫌になる。

〈手塚って今ホテルに滞在してるんだよね?〉
〈ああ〉
〈終わるまでホテルのロビーとかで待ってちゃダメかな? 本当に無理そうだったらそのまま帰るし〉

 手塚が応えられないでいると「どうしても話したいことがあって」とが粘った。
がこうも自分の意見を通そうとするのも珍しい。よほどの要件なのだろう。手塚は嫌な予感がして無意識のうちに眉間に力が入った。

〈……わかった。しかし、本当に何時になるかわからないからロビーではなく部屋で待っていてほしい。フロントにはおまえのことを伝えて部屋に入れるようにしておく〉

 ありがとう、と言われ電話が切れた。これがとの最後の通話になるかもしれないと思うとスマートフォンなどもういらない気がしてきた。

 スポンサーとの会食を終え、手塚がやっとホテルに帰って来れたのは二十三時を過ぎた頃だった。

 こんな時間までを待たせてしまった。いや、ひょっとしたらもう帰ってしまっているかもしれない。そうぐるぐると不毛な思考をしながらエレベーターを乗り降りし、自身のホテルの部屋の重い扉を開ける。

「おかえり、手塚」

 部屋の奥にあるソファーから立ち上がるがいた。
柔らかな声と優しく微笑む顔が手塚を出迎えてくれる。
久しぶりに会うは確かに言われてみれば化粧や衣服のせいで昔に比べて相応に大人らしくなってはいたが、内側から滲みでるの本質を表したようなたおやかさは手塚の知っている十五歳ののまま変わっていない。

 こちらに歩いてくるを手塚はそれ以上の速度で迎えにいき、その細い腕をしっかりと捕まえた。

 待っていてくれると傲慢にも思っていた。
待たせているから申し訳ない、そんなふうにすら思っていた。
の幸せを願うならこの手は潔く離すべきなのだろう。だが——……

 ——俺の帰る場所はここだ
それを悟った手塚は事前に頭の中で用意していた言葉をすべて投げ出していた。

「おまえを他の誰かに渡すつもりはない」

 の幸せを心から願っている。けれど、同時にそれを叶えるのは自分でありたいと強く望む心がある。

 夢のためなら独り孤独でも生きていけると思っていたが、それは自分の弱さから逃げる口実だった。
すべてを晒け出す勇気がないことを悟られたくなくて噤んだ口は愛の言葉を痛ましいほど叫びたがっていた。

「あともう少しだけ待っていてほしい」

 好きだ、とあのとき生徒会室でなんとか仕舞い込んだ言葉が十年の時を経てはじめて音になった。
の驚いたような戸惑うような瞳が涙で滲んでいく。

「『待っててほしい』って言ってくれてるの? 私、ほんとに待ってていいの?」

 限界まで淵に溜まっていた涙がスーッと一筋頬に溢れ落ちた。それはまるで山頂から眺める流れ星が描いた軌跡のように美しい弧を描く。

「必ずおまえの元へ戻ってくる」

 だからおまえの気持ちを聞かせてほしい、と言おうとしたが、その前にが勢いよく手塚の胸に飛び込んできた。