の両親が離婚したのはもう随分昔のことになる。
がまだ小学生だった頃、の母親は不倫の末、との父親を置いて勝手に家を出て行った。
母がに言った最後の言葉は「ちゃんは幸せになってね」だ。
勝手にもほどがある。呆れを通り越して、むしろその堂の入った無責任さには感嘆すら覚えた。
父はこの一件で憔悴しているようだったが、それは母を愛していたからではない。
外では地位のある自分があんな女に振り回されたということが許せなかったんだろう。
その証拠に父は母よりもずっと若くて美しい女とこれみよがしに再婚して、過去の失敗の象徴とも言える母に関するいっさいがっさいを家から捨て去った。
母が選んだダイニングテーブルやカーテン、小皿にわたる小物、ハウスクリーニングまで呼んですべて綺麗に片付けさせた。
母が嫁入り道具として持ってきたという化粧台にいたってはわざわざ斧で叩き割っていたくらいだ。
今、家に残っている母の名残といえばだけだった。
幼いがこのとき学んだことは、自分を幸せにするのは自分しかいない、ということだった。
母も父も、誰も彼も自分のことしか考えていない。皆自分が幸せになることで精一杯だ。
ならば、とは思った。
これから先、より一層しっかり生きていかねばならない。
どうしたいか、どうなりたいか、どう見られたいか。ロールモデルを明確にし、そこから逆算して物事を決め進んでいこう。
自ずとは意思がはっきりしていて、自信に満ち溢れているような人間として他人の目には映った。
それこその目指す“なりたい自分”だった。
多少小狡いところはあるが、それが自分が好きな“自分”だった。
「がゲンコーハンで捕まったって!」
が慌ててのクラスに駆け込んできたのは昼休みが終わる直前だった。
「いいから来て」と腕を引かれたまま廊下を走り、職員室へ向かう。
ちょうど職員室からが担任に連れられて出てきたところだった。
その後ろから養護教諭に肩を抱かれて頬を冷やしながら泣いている後輩(♀)が現れ、そのキャスト陣では一瞬のうちに察しがついた。
「ちょ、大丈夫? なにやってんの?」
「『むしゃくしゃしていてやりました。当時のことはあまり覚えていません』」
「はぁ?」
のとなりにいた担任もと同じように呆れた溜息を漏らす。
「こいつ、さっきからコレの一点張りで理由とか経緯とか一切言わないんだよ。あっちもずっと泣いてるばっかりでなんで自分が殴られたかわかんないって言うし……」
ほとほと困り果てている様子の担任とは正反対にはツーンとそっぽを向いて涼しい顔をしていた。
「とりあえず、もうすぐチャイム鳴るからお前らは自分の教室戻れ」ととは追い払われ、はそのまま奥にある指導室へと連行される。
「」
がを呼び止めた。
「私、こんなこと頼んでない」
が睨むと、はべっと舌を出して背を向けた。
噂はあっという間に駆け巡る。それは午前中にも嫌というほど体感したことだ。
何故か宍戸とと後輩(♀)とによる四角関係という話にまでなり、痴情のもつれでが後輩(♀)を階段から突き落とそうとした、ということにまで尾ヒレが伸びていた。
馬鹿馬鹿しい。
本当に馬鹿馬鹿しい。
「大丈夫? なんか大変なことになってる?」
好奇心を隠しきれてない同級生たちには「大丈夫だよ。大したことじゃないから」と笑って答えて放課後までやり過ごした。
部活も本当は休みたい気分だったが、休んでしまったら負けたような気がするのでやめる。
一体それで何に負けるのか。にもわからなかいが、とにかくこんなとき、が描く“”は休まない、と思ったのでほとんど意地みたいなものだった。
「今日一日主役お疲れ様」
面と向かって茶化してくれる滝はまだマシだ。
みんな滝みたいに適当に笑い事にしてくれたらいいのに。
続いて部室へ入ってきた跡部に滝が「ねぇ、宍戸が浮気したんだって」と話題を振ると、「下世話なことに興味はねぇな」とだけ言って樺地を連れてさっさと奥へ行ってしまった。本当にさして興味はないのだろう。
「あ、、いた!」
もうなんで先に行っちゃうの! とむくれながらが部室に入ってきて、ホワイトボードに【忍足:欠席】と書き込んだ。
「あれ? 忍足休むの?」
「うん。についててあげてるって。なんか親呼ぶってとこまで発展してるらしくて……」
はほとんど無意識で深い溜息を吐いていた。
「……、大丈夫?」
本日通算二十八回目の『大丈夫』。は気を逸らすために数えていた。
が本気で自分を心配してくれていることはわかるけれど、朝からずっとこの調子では正直うんざりする。
「大丈夫?」と訊かれたら、「大丈夫」と応える以外なにがある。
そんな予定調和の台詞をあと何回吐けば済むのだろう。
イライラする。
なんでみんな放っておいてくれないのか。
平気だと、大丈夫だと、もう済んだことだと、言ってるではないか。
「大丈夫」
はそう言った自分がきちんと笑えているかもうわからなかった。
誤魔化すのには絶好のタイミングで部室の扉が開いたので、はほっとした気持ちで部室の入口に視線を向けるも、入ってくるのが人物が誰かとわかると表情は消えた。
「お疲れ様です」といつも通り挨拶している長太郎に対して、その後ろにいた宍戸は居心地悪そうに黙ったままだ。
明らかに気まずい空気が部室内に流れる。
それを「ハイ、主役その二のご登場〜」と滝が適度に茶化してから、「さ、そろそろ俺は行こうかな。正レギュラー来ると肩身狭いんだよね」とおどけながら流し、「またそうやって滝はツッコみ辛いギャグ言う〜」とがことさら明るくツッコんで笑いに変えた。
「も、ほら、早く行こ」
宍戸が何か言いたげにの方を見ていた。
笑え。笑え、私。
は拳を握りしめた。
いつもみたいに、「亮ちゃん」と、「今日もがんばろうね」と、全然気にしてないように笑わなきゃ。
なのに、言葉にしようと口を開くと何も出てこなかった。
「」
先に動いたのは宍戸だった。しかし、宍戸がに触れようとした瞬間、は弾かれたように宍戸の手を払いのけてしまった。
これには宍戸も驚いたが、当人も自分のしたことが信じられないとばかりに目を見開く。
はそのまま逃げるように部室を飛び出した。
備品倉庫のある場所とは真逆にある水飲み場の裏のベンチで、はひとり俯きながら座っていた。
泣いてはいない。
砂利を踏む足音に気づき頭をあげると、「となりいいですか?」と訊いたのは長太郎だった。
「……亮ちゃんは?」
「宍戸先輩はあっちを探しに……」
と、備品倉庫の方を申し訳なさそうに指す。
長太郎が悪いわけではない。宍戸はこういうとき大概ハズレを引くタイプの男なのだ。
「……亮ちゃんってそういうとこあるよね」とは可笑しくもないのに笑った。
「すみませんでした。先輩たちを巻き込んでしまって……」
「長太郎が悪いわけじゃないでしょ」
はっきりと言ってやると、長太郎のしっかりした太めの眉がハの字に下がった。
宍戸に腕を取られて振り払ったとき、はフラッシュバックを起こしていた。母の記憶だ。
忘れたくても忘れられない。あの日、は具合が悪くて学校を早退していた。熱で朦朧としながら、何故かチャイムを鳴らさずわざわざランドセルから鍵を取り出して自分で玄関の扉を開け、フラフラとしながら家にいるはずの母を探す。リビングにはいなかった。
「お母さん」と喉が痛くて声もでない。
やっとのことで開けた両親の寝室でが見たのは、自分の母と見知らぬ男のキスシーンだった。
に気づいた母が蒼白な顔をして、に駆け寄る。
——ちゃん!
咄嗟にはその手を汚いものでもあるかのように払いのけた。
そのときの母の心底傷ついた顔が幼いの脳裏に焼き付いた。
だからだろうか、は傷ついたのは自分の方だとは言えなかった。
なにも言えぬまま、母は家を捨て、父を、を、捨てた。
自分には価値がない。
がそう思い込むようようになったのはその頃からだ。
だから、自分で自分に金メッキを施した。
実の母親に捨てられるほどなんの価値もない自分を誰にも知られたくなかった。
なりたい自分になるためじゃない。
二度と誰にも無下に扱われないように、必死に演じていただけだ。
「私ね、本当は亮ちゃんのこと好きとか……そんなんじゃないの」
“好き”という感情はどうやれば生まれるのか、それがにはわからなかった。
ただ漠然とあったのは「ああ、この人なら私を大切にしてくれるかもしれない」という希望に似た打算だけ。
「亮ちゃんがレギュラーに戻してくれって、監督に頭下げたことあるじゃない? アレみて、カッコイイなって思ったのよ。自分の道を自分で切り拓いていく姿がね。自分もああなりたいな、て。憧れみたいなもんかもね。彼女になって側にいれば、自分も亮ちゃんみたいになれるんじゃないか、て。だから、純粋に……ほら、と忍足みたいに? 好きっていう理由で付き合ってたわけじゃないっていうか……」
まるで言い訳でもしているようで、は自分を嗤った。
「好き! 好き! 大好き! 亮ちゃんのそういうところ本当好き!」
今振り返って考えると、何度も繰り返し“好き”と言葉にしていたのは自分に言い聞かせるためだった。
そうしていないと、自分の意思がもろもろと崩れそうでいつも怖かったからだ。
自分が幸せになるため。
誰にも愛される価値のない自分は不幸になるだけだ。
なら、多少小狡くたって仕方がない。
そう開き直ってるくせに、おみくじすら引けないのが滑稽だ。
もし悪いことが書いてあったら——
たかが神社のおみくじだ。そう笑い飛ばせない自分をはずっと自分の胸の奥に隠してきた。
本当のはいつだって自分の意思を揺るがすすべてのものに怯えていた。
「以前、クリスチャンだった祖父母に連れられてミサに行ったことがあるんです」
突然なんの話だろう、とが怪訝な顔で長太郎を見た。長太郎はそれを宥めるように微笑んでからゆっくりと語り出す。
「そのとき、神父様がお話してくれたことなんですが、“愛”っていうのは意思なんだそうです。“好き”とか“嫌い”というのは自然に湧き上がる感情で自分ではどうすることもできない。けれど、“愛”は違う。この人を“愛したい”と思い、それをまっとうしようとする意思こそが“愛”なんだそうです」
長太郎はどこまでわかってこの話をしているだろうか。
まるで自分のために作られたような話には静かに聴い入っていた。
「“愛”は意思です」
“好き”じゃなくても一緒にいてもいいのだろうか。
“愛する”という意思があれば赦されるのだろうか。
「きっとさんの宍戸さんに対する想いもそういう“愛”です。だから——」
乗り越えられます。
の肩に添えられた手は大きく暖かい。
ここは教会の懺悔室だろうか。“赦し”を説いてくれる長太郎は神父だろうか。
「もう大丈夫ですよ」
長太郎の目線の先には宍戸がいた。
随分を探し回ったのだろう。一試合終えたときより息が上がっていた。
長太郎はもう一度「大丈夫ですよ」と言っての背中を優しく押した。
「ごめん、ごめんね……」
ごめんなさい、との瞳に涙が溢れた。
こんな私でごめんなさい。
でも、どうしてあなたの手を放したくない。
「なんでお前が謝んだよ! お前はなんも悪くねぇだろ!」
ごめんなさい、と泣き崩れるを宍戸は力強く受けとめた。
「俺はお前が好きだ。お前以外考えらんねぇ。世界一じゃねぇ、宇宙一、俺はお前のことを愛してる!」
宇宙ってなんだ。真面目な話をしているのに、とここは呆れなくてはならないはずなのに、はいつのまに泣き笑いになっていた。
ふと気配が消えたことを気づいて振り返ると、すでに長太郎の姿はなかった。
——ねぇ、私のこと、本当はどう思ってる?
まだ宍戸と付き合い始めたばかりの頃。
は出し抜けに長太郎に尋ねたことがあった。
意地の悪い心がまるでなかったとは言わないが、どちらかといえば軽率な好奇心からだ。
補習を受けている宍戸を二人で待っているときだった。
も宍戸と一緒に補習を受けているし、他のメンバーも帰ったあとで、手持ち無沙汰だったことも理由である。
「なんですか、それ?」
「ぶっちゃけウザいかな? って。長太郎からしてみれば。なんてゆーか、横から突然カラスが現れて持っていた宝石盗られちゃったみたいな?」
長太郎は気を悪くするそぶりなどまったく見せず穏やかなまま答えた。
——好きな人が好きになった人は、俺にとっても好きな人です
眩しかった。まっすぐにそう言える彼の強さがにはとても眩しかった。
きっと一生かかっても敵わない。女で良かった、と安心した瞬間、そう思った自分をは強く恥じた。
「わざわざ他人の色恋に口出すなんてお前も大概暇だな」
戻ってきた長太郎に早速日吉が嫌味を言う。
「なんなら日吉のも出してあげようか?」
「なっ! 俺は! 恋なんかしてないっ!」
「じゃあそういうことにしといてあげる」
恋とは、愛とは、——
一体なんなんだろうか。
「亮ちゃん、——」
亮ちゃん、亮ちゃん、亮ちゃん。
は宍戸の名前だけを何度も呼んだ。