※ヒロインの担任や母親などが登場します

 の親が学校に来るまでまだ時間がかかるらしい。
 はぁ、と深い深い溜息を吐いてそのまま魂まで溢してしまいそうなの担任が哀れにみえてくる。

「忍足からも言ってくれよ」

 おおよそ教師が生徒に向けるとは思えない恨みがましい視線が忍足に向けられた。
「お前、彼氏なんだろ」と言われたところで、忍足にだってこの状況を打開する策はない。
案の定、はツーンッとこれみよがしにそっぽを向いた。

「……なんだよ、お前。尻にひかれてんの?」

 大きなお世話だ。
今度は忍足が溜息を吐く番だった。

「ったくよぉ、どうせ宍戸と関係なんだろう」

 窓の外の流れる雲を眺めていたの視線が僅かながら動いた。
 どうやらこの教師、そこまで鈍というわけではなさそうだ。
やる気のない生徒も呆れるほどやる気のない授業をすると聞くが、眼や耳はそこまで耄碌してないらしい。
確か年齢はまだ三十半ばだ。白髪まじ入りの髪と光沢のない萎んだ肌が実年齢より十歳は老けさせてみせてはいるが、「先生舐めんなよ」と悪態を吐く荒さはまだ若さが残っている証拠かもしれない。



 教師がまっすぐを見据えた。
さすがにも決まりが悪くなったのか、しぶしぶ顔を上げて話を聞く体勢をとった。

「お前、殴って何か解決したか? 自分の苛が解消しただけだろ? そりゃ世の中、正義が罷り通らんことも多いし、こっちに非がないのに泣き寝入りするしかないことだってざらにある。だがな、それを暴力で片付けようとするのは未来の見えない阿呆のすることだ。未来のあるお前がそんな先がないことをするな」

 の口元がへの字に曲がる。
けれど、それはこの教師に対する反発ではないだろう。
 と、そこに「あら、すみませーん」と近所の魚屋に晩のおかずでも買いに来たかのような陽気な声が響いた。
「……お母さん」と呟いたの声を聞いて、忍足も担任も目をギョッとさせて、とその母親を交互に見やった。
確かに。つくりは似てる。大きな瞳や通った鼻筋などはまさにコピーアンドペースト。
しかし、纏う光の熱量が違った。例えて言うなら太陽と月か。もちろん娘が月で、母親が太陽だ。
「すみません、お呼びだてして。とりあえず、中へ」と促す担任に待ったをかけて、の母親は娘と向き合った。

「何があったの」
「お母さん、それは中で話しましょう」
「いいえ。まず、自分の口で説明させます」

 、話しなさい。
 先ほどまでの溌剌とした様子は打ち消され、ピリリと周りを萎縮させる厳格な態度に緊張感が走る。
このままでは暴力事件を解決させるより前に親子喧嘩が勃発しそうだ。
そんな雰囲気を察知している忍足と担任が恐れおののくなか、が口を開いた。

「人を殴った」
「それで? あなたは今、反省してるの? 開き直ってるの? それとも自分には非がないと主張してるの?」

 母親は容赦なく娘に畳み掛ける。法廷で矛盾を次々に指摘する凄腕の弁護士のようだ。

「……私、悪いことをしたなんて思ってない」

 けど、とが続ける。

「今は……方法が間違ってたかもしれないとは思ってる」

 ごめんなさい。と今日呼び出されて初めて謝罪の言葉を口にしたの背中を母親が景気よく叩いた。
「なら、相手にも謝って仲直りしてそれでおしまいよ! 元気出しなさい! そうそう、これ最中持ってきたんですけど、先生どうぞ」と太陽の笑顔が戻った。
「いえ、そういうのは」と遠慮する担任に「あら、甘いのお嫌いです? まぁ、だったらおせんべいにすればよかったわ」とどこまでもマイペースだ。
娘に引き続き母親の方にも翻弄させてる担任に忍足は再び同情を寄せた。

 午後いっぱい揉めていたのが嘘のように、の母親が到着してからものの五分ですべてが解決した。
職員室奥の相談室からぞろぞろと人が出てきて、親子が最後にもう一度深く頭を下げているのを離れたところで忍足は見守っていた。
教室に荷物を取りに行くというがいなくなると、廊下には忍足との母親が残った。

「あの、挨拶遅れてしもうてすみません。さんとお付き合いさせてもろうとります、忍足いいます」

 忍足が頭を下げると、の母親は「ああ! チャーハンの!」と声をあげた。
そう言われればだいぶ昔に家でチャーハンを作ったことを忍足はなんとか思い出した。

「あの子、ほっとくと何も食べないでしょう。助かるわぁお世話してくれて」
「勝手に台所使うてしもうてすみません」
「いいのよ、いいのよ。誰も使ってないんだから。最近塩とか醤油とかも常備されててなんの気まぐれかと驚いてたんだけど、あなただったのね」

 親の不在時に何度も訪問していることに関してはお咎めはないようで、忍足はほっと胸を撫で下ろした。

「あの子、昔っからああなのよ。ほっとくと食べるのも寝るのも忘れてずっとひとりで本読んでるかピアノ弾いてるような子で」

 変わってるでしょう。
 しみじみとそう言われても忍足は苦笑いするしかない。
自分は娘さんのそういうところが好きなんです、と素直に言えれば好感度も上がるだろうにと思うに止めるまでだ。

「子供のときからずっとそんな感じだったから最初は少し心配してたんだけど、そういえば私も主人も子どもの頃から本の虫だったからひとのこと言えないじゃないって。だから、今日は驚いたわ。あの子が人を殴るなんて面倒起こすの初めて」

 普通の母親ならここで溜息の一つでも吐いて頭を抱えそうなものだが、の母親は太陽の笑みを浮かべたまま、廊下の向こうを優しい眼差しで見つめていた。
 淡い色のスーツに耳元にはピアス。爪にも綺麗に色が塗られ、艶っとしたハイヒールには傷一つない。けれど、やはりよく見ると顔や首には年齢を感じさせる皺があった。歳は自分の母親より少し若いくらいだろうか。
この人がの母親か、と忍足はまじまじと見つめた。
同時に父親はどんな人物だろうか、と思いを巡らせた。

「俺も詳しく聞いたわけちゃいますけど、たぶん友達のためやったんやと思います」

 実のところ忍足も状況をすべて把握できているわけではなかった。
しかし、聞いた状況を忍足なりに整理するとおおよそ見当はついた。
 今日は朝から騒がしかった。
が殴ったのはその渦中の宍戸との間に割って入った後輩だ。
殴った場所は階段の踊り場だと聞いている。
そこでたまたま何か雑音を耳にしてしまったのだろう。運が悪かったのはそのときを諌める人間が一緒にいなかったことだ。

「そう……お友達……」

 の母はくしゃっと眉尻を下げた。
 忍足が口を開きかけたところで、が戻ってきた。

「お母さん、仕事大丈夫なの?」
「戻りたくない〜もっと忍足くんとお話したい〜」
「また所長から鬼のようにファックス送られてくるよ。家中ファックスの紙でいっぱいにされても私片付けないよ」

 娘に脅された母親はしぶしぶ「ハーイ……」と項垂れた。


「もっと寄って! そうそう! ハイ、チーズ!」

 の母親の携帯の画面には大輪の花を咲かせたような笑顔の母親と真顔の娘と苦笑いの忍足が写っている。
「娘の彼氏ガチイケメンってみんなに自慢しようっと」という彼女を止められるものはいない。
去り際に「これで美味しいものでも食べて帰りなさい」と紙幣を手渡されたは「えぇ……いらない」と一度はそれを返そうとしたが、「あんたにじゃないわよ! 忍足くんに食べてほしいの! 遅くまで付き合わせたんだから!」と言われ、今度は忍足が恐縮すると「いいの、いいの。チャーハンのお礼よ」と制服のポケットにチップのようにねじ込まれた。
 何度も名残惜しそうに振り返る母親を二人で見送ると、嵐が過ぎ去ったあとのような静寂が廊下に訪れた。

「帰ろか」

 と忍足がどちらからともなく歩き出すと、廊下の角からと宍戸が姿を現した。
の目元は赤い。
忍足はのこんな表情を初めて見た。

……巻き込んでごめん……」

 そう謝るに「私の方こそ勝手なことしてごめん」とも謝った。

「殴ったとき、私、自分のことしか考えてなかった。だから、の所為じゃないよ」

 泣き出しそうなの手をがそっととって優しく微笑みかけた。
 忍足はずっとこの二人の関係が不思議だった。物静かで気まぐれなほたると勝気で女王様気質の白羽。どこに共通項があって友人関係になったのか。
でも、今は妙にしっくりきていた。
とそれから。 性格が違っても、好みが違っても、交わせる情は存在する。自分と岳人たちがそうであるように。
 宍戸が「巻き込んでわるかったな」と忍足に後ろから声をかけた。

が許しとるんやから、俺がとやかく言うわけにもいかんやろ」

 忍足は宍戸の肩を軽く叩く。男の自分たちの友情はこれくらいの表現でいいだろう。
 帰り道、四人揃って入ったのはラーメン屋だ。

「私、ラーメン屋でラーメン食べるの初めて」というの呟きに、「嘘だろう? お前、今までどうやって生きてきたんだよ」と宍戸はツチノコでも見つけたように驚いた。


◇◆◇


「あら、おはよう、忍足くん。今日休むとか言ってまだ寝てるのよ。? ? ちょっと、忍足くん来てくれたわよー?」

 家の玄関を開けてくれたのは朝も早よからフルチャージされている母親だった。
「大丈夫なんでそんな叫ばんとってください」と言いつつ忍足は家に上げてもらう。

「ごめんなさいね、お茶でもお出ししてゆっくりしたいところなんだけど、私ももう出なくちゃなのよ」
「ほんま気い使わんとってください」
「そうね。息子だものね。それにたぶん私が淹れたより、忍足くんが自分で淹れた方が美味しいわね。えっと、お茶っ葉は……」
「大丈夫です。知っとります」

 頼りになる息子で良かった良かったと朗らかに笑うの母親を今度は忍足が見送る形になった。

「あの、お義母さん」

 そう呼び止めた忍足に、の母親は「まぁ、お義母さんって呼んでくれるの!」と大げさに喜ぶので忍足は苦笑した。

——さん、寂しなかったと思いますよ」

 きょとんとした表情を向けられても忍足は言葉を続けた。

「子どもの頃からお父さんやお母さんが選んでくれた本に囲まれてたから家で独りでおっても独りぼっちやなかった言うてました」

 はちゃんと愛を知っている子だと伝えておきたかった。
そして、安心してほしかった。
の大切な家族は忍足にとっても大切だ。

「今はそばに俺や友達もおります。独りっきりやありません」

 の母親は「あなた、優しいのね」と笑った。その顔はそっくりだ。
 「今度お父さんにも紹介させてね」と言われて「はい」と忍足が畏るとその顔は破面する。
 「いってきます」。「いってらっしゃい」。家族のようなやりとりをして忍足は家の玄関の扉を丁寧に閉めた。


「具合、どうや? 診察したろか?」

 こんもりと盛り上がったベッドに向かって忍足は話しかける。
「間に合ってます」と覗かせた顔は白いが、血色は悪くない。
 忍足はベッドサイドに腰を下ろした。

「ほんまに。大丈夫か?」

 忍足はのまあるいおでこを撫でると、は猫のように目を細めた。
 今日は冬季遠足の日だった。
場所は箱根山。バスで麓まで行き、そこから山道を登り頂上でお弁当を食べる。実に健全な遠足だ。
数年前ラスベガスへ行った遠足を経験している忍足からすれば普通すぎて逆に拍子抜けする内容だ。
 が今日休むつもりであろうことはなんとなく気づいていた。
もとよりは学校行事にあまり積極的ではない。
大勢で同じことをする意義については懐疑的なのだ。
それでも一年時はに引きずられるようにしながらも参加はしていた。参加しているうちに、こんなものか、とそれなりに楽しんでいるように見えた。
二年時になり、二人とクラスが分かれるといよいよは欠席が多くなる。
猫が気まぐれに散歩へでかけるように、フラリと学校を休んだ。
今に始まったことじゃない。でも——

「別に今は具合悪いわけじゃないから大丈夫だよ」
「そうか」
「遠足、行かなくてよかったの?」
「遠足楽しみにしてるほどお子様ちゃうから平気やで」
「じゃあ、はお子様だね」

 ふふふっと今日初めてが笑った。
笑ってから、小さな声で「もしかしなくても私今心配かけてる?」と忍足に尋ねた。
 暴行事件を起こして以来、はますます学校で浮いた存在になっていた。
いじめがあるわけではない。でも、皆がを遠巻きにする。
触れては祟りがあると恐れられつつも奉られている気性の荒い水神様ような扱いだ。
そのことに関してまったく気にとめていない風のはますますその神々しさを増すばかりで、やはりそれも他人を遠ざける理由になっていた。
他人によって自分の価値が揺らがないことをは知っている。
そんな堂々たる振る舞いはどこかの誰かを思わせた。
ってちょっと跡部に似てる」そう言ったのは今日の遠足を指折り楽しみにしていただ。
忍足もそのときは「そうかもな」と思ったが、今は少し違う見解を持っていた。

「小学生のときの遠足でね、」

 が目を閉じたまま今しがた見た夢の話しをするように静かに語り出した。

「初めてバスに乗ったんだけど私そのとき酔っちゃって。それ以来なんか長時間乗り物に乗るのが怖くて」

 布団からはみ出たの手を握りながら、忍足はの声に一音も漏らさぬように耳を傾ける。

「だから、それから遠足とかそういうのは全部行かなかったの。また酔ったらやだな、って考えるだけでも気持ち悪くて。だけど、そうやって過ごしてるうち同級生に『さんはズル休みできていいね』って言われて、それで、」

 言葉の端が宙に散った。
 きっとはそのときも何も反論せず同級生の言葉を黙って聞いていたのだろう。
相手に故意に傷つける気がないのであれば、傷ついたなど言ってしまっては今度はかえって相手を傷つけてしまうことになる。
そのときもは自分が沈黙することで相手を守ったのだろう。自然に。自然すぎて周りはそれにきっと気付けない。
だから、新たな誤解や偏見を生み、彼女をますます独りになる。
ひとりの時間を愛する彼女だが、それは他人といる時間を払った結果ではない。
 忍足は自分だけでもその優しさや寂しさを掬ってあげたいと思った。

「何処か行きたいとこあるか?」

 は首を横に振ってから、でも、と続けた。

「行きたいところ出来たら言う」

 頷いて、繋いでいた手を繋ぎ直す。

「そんときは俺がどこにだって連れてったるから安心しい」

 彼女がふふふっと笑いながら忍足の方へ身体を寄せてきたので、掛け布団ごと抱きしめた。

「好きやで、
「侑士って変わってるね」
「……お前がそれ言うんかい」

 一緒に寝よ、と誘われて忍足は制服のままのベッドにお邪魔した。
 レースのカーテンからは日差しが降り注ぎ、小鳥のさえずりが聞こえる。朗らかな秋晴れの朝。絶好の遠足日和。
けれど、が望まないなら、ずっとこのままベッドで過ごすのも悪くない。