いい気味。
なんて言ったらどんな顔をするだろう、と想像して滝は授業中ひとりこっそりと嗤った。
宍戸が(いや、実際は宍戸本人というより周りが)起こした事件が起きてすでに一週間が過ぎようとしていた。
◇◆◇
「何描いてるの?」
まだ八割がた白い画用紙を後ろから覗くと、はビクッと小動物のように肩を震わせた。
しかし、相手が滝だとわかると一睨みしたあと、すぐまた画用紙に向き直った。
「聞いたよ。武勇伝」
そう言いながら、許可なく滝はの横に腰を下ろした。
サロンの中庭は木枯らしが吹くこの季節でもきちんと手入れがなされ、そこかしこ花が咲いていた。けれどちょうど大きな木の下にある肘掛け部分にアールヌーヴォー調の飾りのあるこのベンチは微かに湿ったような冷たさを含んでいた。「寒くないの?」とに訊いたが当然のうように無視されて苦笑する。
「がさんのこと心配してたよ」
の鉛筆を持つ手が止まった。よく見るとの鉛筆は芯の部分だけが長く削られていて、傍に置かれている用具箱にも同じような削り方がなされた鉛筆が二十本以上入っていた。
そういえば、絵画が趣味の叔父がこんな風な鉛筆の削り方をしていたな、と思い出す。
「馬鹿じゃないの。あの子、どこまで能天気なの」
「そこがのいいところ。案外いい友達になれるんじゃない?」
まさか、とでも言いたげにが鼻で嗤った。
そういえばね、とがのことを語りはじめたのは昨日の部活が始まる前だった。
「今日うちのクラス二時間目自習だったんだけどさ、課題プリント一枚だったから後半の方は結構みんな自由にしててね、そのときたまたま近くでさんたちのグループがたちの話しててさ……、」
あ、さんて忍足の、と言いかけたところで滝は「知ってるよ」と相槌を打った。
「そっか。あ、それでね、最初は小声だったんだけどだんだん声がおっきくなってるし、内容も言いたい放題って感じだったから私も頭きちゃって『ふざけんなー!』って叫びそうになった瞬間、それまで黙って笑いながら話聞いてたさんがね、『ネットニュースのコメント欄にもよくいるよね。本当か嘘かもわからないことに対してその芸能人個人に暴言吐いてるひと。そういうひとたちって絶対本人目の前にしたらそんなこと言えなくて、それこそ気持ち悪いくらい吃っちゃうんだよね』って、笑顔のまんま。そこそこ大きい声だったからクラスみんなしーんっとしちゃって……」
その様子を想像して滝はクスクス笑うと、が真面目顔で「笑い事じゃない!」と怒った。
「私、ずっと勘違いしてたのかな、て。さんのこと。忍足のことがあったし、なんか勝手に向こうがこっちを敵視してるような感じがしててイメージ悪かったんだけど、違ったのかな、て。違うって言うのも違うか。今まではさんの表面の部分しか見てなかったんだけど、もっといっぱい話したら、『うんうん、わかるわかる』って部分もきっとどっかにあるんだろうな、て」
滝が柔らかい微笑みを向けていると「どうかした?」とが小首を傾げた。「は心も体も健康だなっと思って」と答えると、「には『能天気』って馬鹿にされた」と不貞腐れた。
我武者らな人間を見ると、滝は自分の芯がスーッと冷えていくように感じることがある。
どうしてそんなに必死になれるのか。馬鹿にしているわけでもなく本気で理解できなかった。
欲しいものを泣いてねだったことなど生まれてこのかた一度もない。自分が恵まれた環境で育ったことは自覚している。
“根性”だとか、“一生懸命”だとか、“精一杯”だとか、そういう泥臭い言葉を滝は必要に感じたことがなかった。今までも。そして、きっとこれからも。
宍戸に負けて部活を辞めなかったのは、テニスが好きだからでも嫌いだからでもなかったおかげだ。別に跡部に「辞めんなよ」と声をかけられたからでもないし、「会計係が年度の途中で変わったら混乱するだろう」は強がりではなく本心だ。
もうすぐ関東大会が始まるから準レギュラーに堕ちた滝はしばらく試合もない。毎日の部活はあらかじめ決められた練習メニューをこなすだけ。そんな日々の中で滝はを見つけた。
間違いで倉庫ではなく部室に備品が届いてしまったというので女の子だけに運ばせるには偲びなく、滝は自らマネージャーに手伝いを買って出た。職員室から台車を借りてきて、ダンボールを乗せていく。部活が始まる前に片付けてしまおう、とはいつも通りテキパキと動いていた。
舗装をされていない地面の上で重い荷物を乗せた台車を押すのは案外難しい。前を歩いていたが急に止まるので危うく積み上げていた段ボールが崩れそうになった。
「どうしたの?」
「シッ!」
立ち止まって身を隠すように校舎の角に隠れたの視線の先を確かめる。こちらに背を向けて立っているテニス部のジャージを着た背の高い男子は——忍足だ。そして、その向かいにいるのは、同じ学年のという女子だった。そういえば、付き合いたての頃は随分噂になっていたな、と滝は思い出す。
はさっきまでの勤勉さは嘘だったかのように嬉々として覗き見をしていた。けれど、ピロンッと動画撮影開始音がしたときはさすがに振り返って怪訝な顔で滝を見た。
「弱みを握ってレギュラーの座奪っちゃおうかなって」
があんまりひどい顔をするもんだから、滝はすぐに「冗談だよ」と笑って付け足したが、は冗談だと思っていない表情だった。
「私のこともう好きじゃないんだ」とが低く呟く声が聞こえたので、も滝も視線を二人に戻した。
「そういうわけちゃうで。せやけど、今は部活が——」
「『今は』っていつまで? 大会終わるまで? それって夏までってこと? でも高校でも部活続けるんだよね? それってずっとってことじゃないの?」
「急にどないしてん?」
「急にじゃない!」
徐々にふたりの争う声は大きくなっていた。というより、が一方的にまくしたてていて、忍足はその勢いに完全に負けていた。
滝はスマートホンの画面の中心をに向けてピンチアウトする。彼女の口元が微かに動いて、「別れたい」と呟いたようだった。が「あぁあ、自分から言っちゃった」と溢す。
詳しい事情なんて知らないが、この現場を目撃しただけでも、が本心から「別れたい」と言ったわけじゃないことくらい誰だってわかる。忍足を責める言葉とは裏腹にの全身からは「別れたくない」という必死の訴えが痛いくらい溢れて出ていた。忍足はそのことに気づいていないのだろうか。気づいているのにこのまま彼女を切り捨てようとしているなら、すべて相手の責任にして上手く逃げきるつもりなのかもしれない。きっぱりと「もう好きじゃないから別れたい」と言ってやらないのは忍足からしたら優しさなんだろうが、それが本当は誰に対する優しさかと問えば、きっと忍足は言葉を詰まらせることだろう。
きっとどちらも自分が被害者だと思っているに違いない。
「側からみればどっちもどっちなんだけどね」
も滝と同じような意見なのだろう。呆れたように呟いて、二人が立ち去ったあとの裏道を堂々と横切った。
が立っていた場所の土が微かに湿っているように見えた。彼女の怒りの熱量で蒸されたように。
その日、滝は家に帰りそのときの動画を自室でひっそりと再生してみた。
の切羽詰まって張り詰めた表情を見ていると、やっぱり体の芯が冷えてくる。目を閉じてそのままベッドに倒れこむと宍戸に負けたあの試合のことが蘇った。
一球も取りこぼさない、そんな熱意で追いかけられて、追い詰められて、あっという間の
はぁ、と深くため息を吐き、こんな時でも笑みが溢れた。どうあがいても、自分は宍戸やのような人間にはなれない。なりたくないんじゃなくて、なれない。身体の中に熱がないのだ。
一度認めてしまえれば開き直れるかと思ったが、自分の心が自分が考えていたよりもう少し繊細にできていたことを思い知らされただけだった。
「眩しいな」と、溢れた独り言を聞いていたのは滝本人だけだった。
◇◆◇
「放っておいてって言っといて」と応えたに「うん、わかった。『私のことはいいから、さんの心配してあげて』って言ってたってには伝えておくよ」と微笑んだ。
はいつの間にか下書きを終えていたようで、鉛筆を束に戻し、スケッチブックをたたんだ。
立ち去ろうとする間際、滝はに
「好きだよ」
と「じゃあまたね」と言うくらい気軽に告げた。
は探るような視線を受け止めながら、滝は穏やかな表情でをまっすぐ見つめ返す。
は「冗談だよ」と言われることを待っているのだろうか。しばらく黙ったままでいたが、やがて小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
滝はがそう答えるのを知っていたかのように微笑んだままだった。
「弱ってるとこに漬け込もうとしたけどダメか。まぁいいや。でも、なにか困ったことがあれば……——に頼るといいよ」
自分に、と言えないのが少し残念だ。滝はそう思いながら、やはり最後まで笑みを崩さず、“滝萩之介”という人間でいた。
「続きは忍足のことちゃんと忘れられたらね」
なんてだいぶ前に言ったけれど、きっとは忍足を忘れることはないだろう。忘れることなく、心の成長の糧にして、違う実を結ぶのだろう。
滝はそんなが好きだった。
「ねぇ、宍戸。いい気味って言ったらどう思う?」
廊下ですれ違いざまに宍戸に訊いてみた。
「あ?」
「俺のこと軽蔑する?」
宍戸は思いっきり顔をしかめたあと、「しねぇよ、別に」とぶっきら棒に答えた。滝は「そうだよね。宍戸ってそういう奴だよね」とでも言うかのように、ひとり納得した顔で頷いた。
「のこと大事してあげな。好きな子が自分のこと好きなのって実はすごい奇跡だからさ」
いつもの宍戸だったら「小っ恥ずかしいこと言ってんじゃねぇよ!」と怒鳴りそうなものだが、最近の自分の周りでの出来事を重く受け止めてか、滝のいつもと違う雰囲気を野生の勘で悟ったのか、「おう」とだけ応えて背を向けた。
滝は眩しいものでも見るように目を細めて宍戸の背中が廊下を曲がって見えなくなるまで目を逸らさずに見届けた。