「チェンジ! チェンジでお願いします!」
一番最初に根をあげたのはだった。
「あ゛〜〜うっせぇな、今覚えた公式吹っ飛ぶだろ! 騒ぐんじゃねぇよ!」
「じゃあと忍足チェンジ!」
「それはできん相談やな」
「じゃあ〜〜」
「悪いけど私亮ちゃん以外がどうなろうと知ったこっちゃないから」
「人でなし!!」
そう叫んだままは全然進んでいない数学の問題集に頭からダイブした。
もうすぐ学期末。クリスマスにお正月。素敵な冬休み——だが、その前にたちには大きな壁が立ちはだかっていた。
そう期末テストだ。
常日頃から予習復習をしていればこんなことにはならないのだろうが、たちが所属するテニス部はこれでもハードな運動部だ。
部活から帰ってきて勉強机に座れる体力もとい精神力が残っている方がおかしい。
帰宅部のは別として、常に成績上位のキープしている忍足とはにとってもはや異星人だ。
細胞から自分とは作りが違う。そう思わないとやってられない。
ただにも仲間がいた。宍戸と向日だ。
三人の成績はどんぐりの背比べ。どうにかこうにかここまできたが、基本的に毎回のテストが背水の陣。余裕なんてまったくない。
だから、今日はこうして先生役を招いて勉強会を開いてもらっていた。
宍戸はに、向日は忍足に、そしてはに。それぞれ一番不得手な数学を放課後の教室で教えてもらっていた。
「だって、の教え方ミスターみたいで全然わかんないんだもん!」
パッといれてシュッとしてサッてなる。
おおよそを三角関数を教えているようには思えない擬音だらけのの解説にの脳みそはパンク寸前だ。
もで「私もが何がわかんないのかわかんない」と首を傾げている。
自分が出来ることと他人に教えられる技術があることは別次元だということをは今更ながら身をもって思い知った。
「……私もう帰ってもいい?」
そう言うに「ほな、俺も帰るで」という忍足が続く。
それを必死に止める向日が「クソクソふざけんな! 、お前ワガママ言うんじゃねぇぞ!」と騒ぎ出す。
宍戸はさっきからブツブツ言いながら、問題集とにらめっこだ。
みんな自分のことで必死だった。
「じゃあさ、跡部呼ぶ?」
さっきから机に突っ伏して寝ていると思っていたジローが突然むくりと起きだして止める間もなく、〈もしもし、跡部? まだ学校にいる?〉と携帯電話に向かって話出した。
数分後、生徒会の用事でたまたま残っていた跡部が「てめぇら揃いも揃って何やってやがんだ、あーん?」と樺地を引き連れて本当に教室へとやってきた。
「……ごめんね」
目の前に座る跡部の顔を窺いながら、は一応謝った。
申し訳ない、と思う気持ちはもちろんあるのだ。
「悪いと思うんだったら、さっさとソレ解いちまえ」
跡部は腕組みをしたまま優雅に長い脚を組み替えた。
後ろで控えている樺地は空いた跡部のティーカップに香りのよい紅茶を注ぐ。
ただの放課後の教室だろうと跡部がいればそこはどこでもサロンだ。
カリカリッカリカリッとリスがクルミを齧るように忙しなかったのシャーペンの動きが一度止まれば、それに気づいた跡部がテッィーカップを置き、身を乗り出した。
「そんなこともわかんねぇのか」と軽蔑することも「さっきも同じこと言っただろ」と苛つくこともなく、跡部はあくまでも淡々とにも理解できる速度で三角形の角度の求め方を教えてくれる。
最初は変なカタチ、と思っていたθにもはだんだん愛着が湧いてきた。
「数学が苦手って奴は圧倒的に解いた問題数が少ねぇんだよ」
そう言われて「ははー」と平伏すしかない愚民三人。
夕方五時のチャイムがなるまで、宍戸も向日もも跡部の言葉を信じて必死に問題集を解き続けた。
忘れ物しちゃった。先帰ってて。
みんなで校舎を出たあと、はそう言ってひとり生徒会室へ向かった。
重厚な観音開きの扉をそっと開き、中を窺えば案の定跡部が奥のデスクで作業をしていた。
ここが生徒会室だと知らなければ、どこかの会社の立派な社長のように見える。
に気づいた跡部の視線が一瞬動いた。
いつのまにか扉のところまできていた樺地に促されて、は生徒会室に招き入れられた。
「なんだ。まだわかんねぇとこでもあるんのか」
は「ううん」と即座に首を横に振る。
「仕事、何か手伝えることないかな? って思って。さっき跡部わざわざ生徒会の仕事の途中で来てくれたんでしょ? だから、恩返しというかなんというか……」
辺りを見渡したはごにょごにょっと言葉が萎んでいく。
黙々と作業をこなす優秀な生徒会メンバー。
もしや自分は御呼びでない?
自分に大した能力がないことを重々承知しているは急に不安になった。
帰って自分の勉強をしろ、と追い返されても文句は言えない。
なにやってるんだろう、と急に恥ずかしくなった。
「わかった。なら、そのアンケートの集計を頼む」
生徒会のメンバーが一人の元へやってきて、データの集計方法について説明を始める。
先日行われた文化祭に関するアンケートの集計は、どうやら頭を使うというよりひたすら手を動かす仕事のようだ。
さすが跡部はひとの上に立つ立場だけのことはあり、仕事の割り振りはちゃんと考えられている。これなら自分にも出来そうだ、と安心しては与えられたパソコンに向かった。
急ぎの仕事ではないから出来る分だけでいいと言われたが、出来る限り頑張りたい。
アンケート結果を一枚一枚データ入力していく。地道な作業だ。
跡部に「おい」と声をかけられるまで、は没頭し続けた。
生徒会のメンバーは一人帰り、二人帰り、気がつけば残っているのはもう跡部と樺地とだけになっていた。
「どこまで進んだ?」
「えっと、ごめん。まだ三クラス分……」
項目が多くてなかなか終わらない。特に自由欄を入力するのは骨が折れた。
中には判別不可能な文字を書く輩もいて、たった三行の感想を入力するにも暗号を解き明かしているような気分だ。
跡部に後ろからパソコンを覗き込まれ、は身を固くした。香水だろうか華やかだけど上品な香りが鼻をかすめる。
「充分だ。今日はもう帰れ」
でも、と食い下がる気はなかった。
は「うん」と頷いて素直に帰り支度を始める。
窓の外の空はすっかり闇に呑まれていた。
さぞ寒かろうと思い、は自分の首にマフラーをぐるぐると巻きながら、「ちょっとは役に立った?」とおどけてみた。
「まぁな」
「よかった。こんなことくらいしか出来ないけど、忙しかったらまた呼んでくれてもいいよ」
「なんだ? また勉強教えろってか?」
「バレたか」
どうやら跡部も帰るらしい。
作業用にかけていた眼鏡を外し、さりげなく樺地が辺りを片付け始めた。
迎えの車が来るであろう跡部はほとんど防寒具も身につけぬまま帰り支度を終える。
寒空の下を黙々とひとり歩かなければならないとは違うのだ。
正門をくぐって「じゃあまたね」と手を振ったところで呼び止められた。
「お前はわかってねぇな」
「何が?」
「他人と自分が出来ることを比べても意味ねぇだろ。てめぇはてめぇの出来ることをするしかねぇんだよ」
「何の話?」
「頑張ることが出来る自分をもうちょっと認めてやれって話だ」
迎えのリムジンが来た。
樺地がリムジンの後部座席の扉を開ける。けれど、跡部は乗り込まない。
「さっさと乗れ。早くしろ」とに言った。
初めて乗るリムジンは驚くほど静かだった。
輪郭を失った夜の街が窓の外に流れていく。
「」
「……何?」
「全員が同じように全部出来る必要ねぇんだよ」
は家に着くまで「うん」としかしゃべれなかった。
「跡部、見て見て!」
数学のテストが返ってきてすぐに跡部の教室へは走った。
誇らしげに掲げたのは返却されたばかりの数学の答案用紙だ。
「六十八点!」
跡部からすればそんな点数と失笑されてもおかしくない点数だが、万年赤点のからすれば大快挙だった。
「ま、よくやったんじゃねぇの。俺様の教え方のおかげだろうがな」
「そうだけど、そうなんだけど、それだけじゃないよ? 私、頑張ったもん!」
跡部がフッと可笑しそうに笑う。
そういうことにしといてやるか、とでも言いたげだった。
も笑う。
そういうことにしておいてよ、と心の中で言った。
自分のいいところ、カケラだけど見つけられたような気がしたから、と。