昼休み。キャパ六百人の氷帝の学生食堂(食堂という名前がまったく似合ないが)は今日も大盛況だった。
「ねぇねぇねぇ、コレ超格好よくない?」
はスマートフォンで動画を再生して、向かいに座るに向けた。
今十代女子に一番人気のアイドルグループの新曲ミュージックビデオだ。
初日にも関わらず再生数はすでに五千回を超えている。
「ほら! 今のとことか! 超最高!」
のとなりに座るがそれをひょいっと覗き込み、「えー亮ちゃんの方が三百倍格好いい」という主観でしかない感想を言った。
そもそもがこういうものにまったく興味ないことは知っていたから、はに話を振ったのに。
そんなは半ば無視して、はに「ね?」と期待を込めて同意を求めた。
は渡されたスマートフォンを大きな瞳で真剣に見つめていたが、程なくして「眼がチカチカした」と言ってスマートフォンをに返す。
はガクッと肩を落とした。
なんだそのおばあちゃんみたいな感想は。
薄々わかっていた。そもそもダメ元だった。
終始テンションの低いが、アイドル相手にキャアキャアと黄色い悲鳴をあげる姿などまったく想像できない。
おそらくこのアイドルがの目の前で渾身のファンサービスを決めたところで、はおそらく真顔のままで、逆にアイドルの笑顔を引きつらせることだろう。
戦力拡大失敗。
残念ながらも同様こういったものには興味がないようだ。
「ちぇ、興味あったら一緒にコンサートとか行けると思ったのにぃ」
返ってきたスマートフォンをしまいながら唇を尖らすを「いいじゃない。ライバルが減って」とは揶揄う。
「好きな男が被らない方が友情は長持ちするでしょ?」
そう笑うは丁度一年くらい前から同じ部活の宍戸と付き合っていた。
それまでずっと年上とばかり付き合っていたが同級生の宍戸を好きになったことにも驚いたが、なによりその熱烈なアピールには当時宍戸を含めた周りも相当驚いた。
元より自分の意見をはっきりと言うことができる気の強いタイプのだ。
一度決めたことは絶対に曲げないし、欲しいものがあればそれを得るために全力を尽くす。そして、それが出来るだけの能力と魅力もある。結果、は見事宍戸の彼女のポジションを手に入れた。
中一の頃から同じ部活でマネージャーをしていると。経験年数でいえば同等な二人だが、の方がより圧倒的に優秀なことは、誰に言われるでもなくが一番わかっていた。
が「ねぇ」と同意を求めるようにに声をかけると、が食べていた艶々のチョコレートケーキから顔を上げた。
氷帝学園の学食にはなんでも専属のパティシエもいるとかで、常時数十種類以上のケーキやデザートが並べられている。アフタヌーンティーも楽しめるのだから、さすが
とはいえそれはあくまで普通の食事の+αという存在なのだが、はよくそれを主食にしていた。
訊けば朝も夜も食べたり食べなかったりで、食べたとしてもチョコレートやアイスや菓子パンが多いらしく、なぜそんな無茶苦茶な食生活でもの体型はこんなにも華奢なのかがは不思議で不思議でしょうがなかった。と、同時にの家庭環境が割と変わっていることを悟った。というか、そもそも本人が変わっているのだけれども。
「私には亮ちゃん。には忍足。にはえっと、誰だっけ? ジオン様?」
「シオン! シオン様! いい加減覚えて!」
「いやだって一ミリの興味ないし」
「こんなにがんばって歌って踊ってるのに! って、ええーーーーーーっ!!」
騒がしい昼休みの食堂といえどの叫び声は注目を集めた。
「えっ? えっ?? どういうこと??? 忍足????」
詰め寄るにはきょとん顔だ。
は高等部から氷帝に入った外進生だ。入学してまだ半年も経っていない。
忍足とはクラスが違うし、テニス部でもない。接点が見当たらない。
いや待てよ。
はふと思い返した。
そういえば以前、あまり他人に関心を示さないが「あの人どんな人?」と忍足のことを訊ねてきたことがあった。
確かに忍足は男にして髪が長い所為か、胡散臭い眼鏡をかけている所為か、一見不審な人物に見えなくもない。気にかかるのも仕方ない。
が「映画をダシに女子を誘うセコい男。それからあの丸眼鏡は伊達」と適当な紹介をしていたっけ。
あれはそういう意味だったの?
「どういうことっていうか……。彼氏?」
「いつから?」
「夏?」
「ざっくりすぎる! もっと具体的に言って!」
「具体的に? えっと、八月……?」
「夏休みじゃん! なんで?」
「なんで? ウチに来たから?」
「ウチ? 家? 家に来たの? 入れたの? てゆーか、なんでそもそもそうなったのかを知りたいんですけど!」
なんでだったけ? と首を傾げるにはやきもきする。
付き合うって普通はもっと片想いの時期があって、紆余曲折というか、浮いたり沈んだり、ドキドキしたりされたりして……そういうことじゃないの?
すべてマンガや雑誌の受け売りだけど、の中にある漠然とした“恋”のカタチと、の恋もそしての恋もかけ離れていた。
「ま、とりあえず、これで彼氏がいないのはだけってこと」
の言葉が剣になって胸に刺さり、がうっと呻く。
「いい加減アイドルの追っかけなんてやめて、現実と向かい合って、ちゃんと恋しなさい」
ううっ。
一気に二千のダメージ。早くヒットポイントを回復しなくては。
「い、いいのっ! 私はアイドルに片想いしてるのが幸せなんですぅ」
幸せの形はひとそれぞれ。いいじゃないか。他人に迷惑をかけてるでもないし。
「アイドル相手に片想いってイタすぎでしょ。それに、そもそも片想いは恋じゃありません」
「……じゃあ、なんだって言うの?」
「妄想」
「ひ、ひどい! 暴論だ!」
「恋は二人以上でするものよ。ただ独りで想ってるだけなんて非生産的なこと恋じゃありません。以上」
ハイ頑張って、とに背を叩かれて、は恨めしげにを睨んだがは何処吹く風で効果はない。
はとっくこの話題に飽きていてケーキの続きを黙々と食べていた。
私だって——
その主張は喉でつまってしまって苦しくなった。
◇◆◇
「似合いませんよ。影で隠れてコソコソ泣くなんて」
背後から急に声をかけられはハッとした。
ここはテニス部の部室だ。部員なら自由に出入りができる。
「……泣いてませんー。忘れ物取りに来ただけですぅー」
声がした方を振り向けば、部活の後輩・日吉がそこに立っていた。
「こんな日にまで忘れ物をするなんて先輩らしいですね」
あーハイハイ。どうせ、私はそういう奴ですよーっだ。
でも、こんな日にまでわざわざ皮肉を言いにくるキミも十分キミらしいですね。
そんな風に反撃したところで泥試合になるだけだ。
さすがのも五年経てば少しは学習する。
「忘れ物、見つからないんですか?」
ロッカーを開けたままのを見て日吉は察したのだろう。
「……ロッカーに入れてたはずなの」
「探し物はなんですか?」
忘れ物から探し物へ。ランクアップかランクダウンか。
「……なんか、これくらいのサイズの横線入ってるピンクのノート」
「B5サイズの大学ノートですね」
そう言った日吉は辺りにある資料棚を開けはじめた。
驚いたことに一緒に探してくれるらしい。
今更もういい、と言える雰囲気ではなくなってしまった。
は何も言えず、とりあえず自分も手を動かした。
「大事なものなんですか?」
「……うん。まぁ」
はこの後輩のことがよくわからなかった。
前々から、何故か自分にだけ特に当たりが強いとは感じていた。
気づかぬうちに彼に何かしてしまったんだろうか。
心配になって、本人に直接問いただしたことさえあるが、「別に特に理由はありません」と冷たくあしらわれただけだった。
日吉にとって自分は生理的に受け付けないタイプなのだろう。悲しいけどそういうことかもしれない。
ならば、関わらなければいいのに、とも同時に思う。
幸い学年は違うし、同じ部活とはいえマネージャーと選手。マネージャーだって自分の他にたくさんいる。
無理に関わる必要性はどこにもない。
なのに、日吉はネチネチとに皮肉を言うことが多かった。
効率的じゃない、要領が悪すぎる、何年同じ仕事してるんですか?、脳細胞が死滅していません?、等々。
その度、べーっと舌を出して子供染みたことをしていただが、今日は生憎そんな元気はない。
「もういいよ、日吉。あとは一人で探すし……」
「遠慮するなんて高等技術持ちあわせていたんですね」
が黙ったままなので、「今日は反撃してこないんですね」という日吉の声だけが静かな部室に響いた。
今日は卒業式。
部室へ来る物好きなんて自分以外誰もいないと思っていたのに、の想定はものの数分で打ち砕かれてしまった。
忘れ物をしたなんて真っ赤な嘘だ。
ただ、最後に独りでここに来たかっただけ。
思い出が詰まったこの場所で感傷に浸って思う存分泣いてスッキリ。そのはずだったのに。
なんで邪魔をするんだ、と日吉を恨みたいが、日吉がなにも悪くないこともわかっている。
「片想いってね、恋じゃないんだって」
は日吉に背を向けたままロッカーに向かって話した。
一年生のとき、に言われた言葉は未だの胸に転がっていた。
そのうち氷のように溶けてなくなってくれるかと思いきや、棘が生えたイガグリのようになってチクリチクリとの心の柔らかい肉を徒らに傷つけた。
が自分を心配して言ってくれたということはわかっている。
けれど、それを受け入れてしまっては、今自分が抱えている想いは一体なんなのか——その答えを永遠に失う気がして嫌だった。
「片想いは非生産的で何の意味もなくて無意味でイタい妄想なんだって」
にだって想い人はいた。
画面の中の偶像ではない。ちゃんと生身の人間だ。
けれど、遥か遠い場所にいるのは同じだった。
跡部景吾。
この学園の生徒会長にして、テニス部の部長。我らが
同じ学校に通っていても、同じ学年でも、同じ部活でも、同じ空間で同じ空気を吸っていても、どんなに一緒のときを過ごそうとも、と跡部はまるで違う世界の住人だった。
決して謙遜や卑下ではない。
生まれや育ちの違いが大きいが、それ以上にこれから歩んでいく道が違いすぎるのだ。
はどうしても跡部のとなりいる自分が想像できなかった。
それでも、一緒に過ごした六年もの月日はにとってはかけがえのないものになった。
決してとなりではない。ふたりでもない。
それでも十分楽しくて、幸せだった。
この想いのおかげで、たくさんのことを頑張れた気がする。
なのにこの想いを恋じゃないとするならば、じゃあなんと呼べばよいのだろう。は独りで途方に暮れていた。
突然なんの話をするんだろうと日吉は訝しんでるに違いない。
さっきから物の見事に黙ったままだ。
自分の目論見を潰された腹いせでもあったが、それ以上に自身が自分の想いをこれ以上押し込めてはいられなかった。
どんな形であれ吐き出してしまいたかった。
泣く準備は整えてあった。ハンカチだって握ってる。
なのに、開くはずのない扉が開き日吉が現れ、の涙を流すチャンスを奪った。
六年間。誰にも話したことはない想い。
親友のやにすら相談できなかったのに、自分を嫌っている後輩に語ってしまうなんて皮肉だ。
「俺は——」
馬鹿馬鹿しい話を聞かされてると思い無視を決め込んでるのかと思いきや、日吉が静かに口を開いた。
すでに日吉もも手の動きは止まっている。何も探していない。
「たとえ、気持ちが通い合わなくても、一方的なものでも、相手の存在を大切だと思う気持ちが自分の内にあるなら、それが“恋”だと思います」
俯き加減で目を伏せている日吉の横顔をはまじまじと見つめて、そうだったのかと納得した。
以前、日吉が後輩に告白されたと聞いたとき、「可愛かったんでしょ? 付き合ったらよかったのに。もったいない」とが言ったら、「アンタには関係ない」とひどく怒らせてしまったことがあったけれど、もしかしたらあのときからすでに日吉は誰かを想っていたのかもしれない、とは今になってようやく気がついた。
その想いも自分と同じく密かな片想いだったのかもしれない。なのに「可愛ければ付き合ってしまえ」は無神経過ぎた。
人の気も知らないで、と日吉が怒るのも無理ない。
「別にいいんじゃないですか。みんな同じ恋じゃなくても。恋に正しいも間違ってるもないでしょう」
思いがけない日吉の答えに今度はが黙る番だった。
黙ったまま日吉の方に向かけていた身体を戻し、自分のロッカーに向かって必死に唇を噛みしめる。
でも、もう限界は近かった。
「貴女はそのままでいてください」
狡いなぁ。そんな呟きとともに堪えきれなかった涙がの瞳から溢れ落ちていった。
なんで今日に限ってそんな優しいのかなあ。
もしやこの日のためにずっと自分に意地悪をしていたんじゃないかという考えが浮かんでは可笑しくなった。そして、またポロポロと涙を流した。
笑い声が嗚咽に変わり、もう誤魔化せない。
は握りしめていたハンカチの存在も忘れて、そのまま顔をくしゃくしゃにして泣きだした。
「……ない、でね」
言わないでね。
私が泣いたこと、私が恋をしていたこと、言わないでね。
今、ここで泣いて全部終わりにするから。
きちんと言葉に出来ずとも伝わったのか、日吉はに背を向けたまま「はい」とだけ応えてくれた。
「ありが、と……」
日吉はまた「はい」とだけ言って黙った。
そして、静かに部室を出ていく。
本当は泣き止むまで誰かにそばにいてほしい思いもあったが、さすがにそこまでの我儘は日吉には言えない。
出ていったことも含めて日吉の優しさだと思うことにして、はそれに甘えるようにより一層盛大に泣き続けた。
泣いてスッキリ。そう簡単にはいくはずもない。けれど、最後に自分の想いを恋だと認められてよかった。は日吉に言われた「貴女はそのままでいてください」という言葉を噛み締めた。
どれくらい泣いただろうか。
体感時間では丸三日くらい泣き続けた気分だが、時計の針はさほど進んでない。
これなら謝恩会にも間に合う。
よーしっ急ごう!
——と、部室を扉を思いっきり開けると、鈍い音を立てて何かにぶつかった感触がした。
開けた扉の隙間からそろりそろりと外を窺えば、後頭部を手で抑えてこちらを睨んでる日吉と目が合う。
「なんでいるのっ!?」
すでに怒りで震えていた日吉はのその返しにもさらに腹が立ったようで容赦のない舌打ちをしてから、を置いて歩き出した。
それを「待って〜」と慌ててが追いかける。
「ひとがせっかく……」とごにょごにょ溢す日吉に、「今なんて言った?」と付き纏う。
「なんでもありませんよっ!」
「そんな怒んなくたっていいじゃんっ!」
「怒ってませんっ!」
「怒ってない人はこんな早足で歩かないっ!」
「これは俺の通常歩行速度です」
「嘘だぁっ!」
言い合う二人の影は寄り添うように並んでいた。