すっかり氷帝学園のブルジョアな空気に飲まれて謙也は廊下の曲がり角で誰かとうっかりぶつかってしまった。
「きゃ」という小さな悲鳴で我に返る。
相手が謙也に比べて相当軽かったらしく、弾き飛ばされたように後ろへ倒れそうになったのを謙也は咄嗟に抱きとめた。
「すまん! 大丈夫やったか?」と謙也が慌てて自分の腕の中に声をかけると、氷帝学園の制服を着た女子が顔を上げた。
その瞬間、全身の熱がカッと顔一点に集まり、謙也の思考は停止した。
「謙也? どないしてん?」
離れたところにいた白石たちが謙也のところまで小走りで駆けつける。
それに焦って急に彼女の身体を放してしまったせいで、バランスを崩した彼女は結局その場に尻餅をついてしまった。
今度はとっさに手が差し出せず、やってきた白石が先に「大丈夫か?」と彼女に手を貸してしまう。
「怪我とかしてへんか?」
彼女は白石の問いにスカートについた埃を軽く払いながら、こくん、と小さく頷いた。
「大丈夫」と応える声は、舌先で一瞬のうち溶けてしまう綿菓子のような儚い響きだった。
「なにやっとんねん。ほら、早よ謝り。職員室の場所わかったから行くで」と白石に促され、謝ろうと再びその子と向き合ったところで、謙也は何故か自分の声が出ないことに気づく。
パクパクと金魚のように口が開閉するだけだ。
そんな謙也を不思議そうに見つめる彼女の瞳は宝石のように輝いていて眩しい。
様子のおかしい謙也の代わりに白石や小春らが彼女と二言三言言葉を交わし、「じゃあ」と言った彼女は軽い会釈をしてあっさりと行ってしまった。
「謙也、行くで」
返事はしたが、生返事。遠ざかる華奢な背中が完全に見えなくなってからも、謙也しばらく放心状態だった。
「謙也クンさっきの子のこと考えとるんちゃう?」
ムフフッと笑った小春が謙也を肘で小突く。
「っんな! ちゃ、ちゃうわっ!」
と、全力で否定したところで顔は真っ赤だ。説得力ゼロである。
今日は跡部の計らいで謙也を含めた大阪組が氷帝学園に招待されていた。
今年の全国大会も終わり、夏休みも残すところあと数日。
高校二年生の夏休みといえば、実質遊べる最後の夏休みだ。
こっちに従兄弟のいる謙也はそもそも遊びに来る予定になっていたのだが、それに財前が便乗し、さらに小春&一氏が加わることになり、だったらと白石も、となったところで、「さすにがにそんな人数泊まらすスペースないわ」と侑士にキレられ、急遽ホストが跡部に変わったのである。
本日の宿泊先は跡部の自宅。通称アトベッキンガム。部屋なら腐る程あるらしい。
今日は生徒会の用事がある跡部を部室でしばし待ってから、夜は氷帝メンバーも揃ってみんなでバーベーキューの予定だ。
「でもぉ、さっきっからずーっとそんな感じでぼ〜っとしとるで?」
コノぉ、コノぉ、といじってくる小春を「やめぇや」とかわす。
そんなことをしてるうちにと滝が「何々?」と面白そうに寄ってきた。
「それがねぇ、謙也クンったらさっき、」
「ちゃうっ! ちゃうねんっ! そういうんちゃうっ!」
「もう往生際が悪いわねぇ。“そういうん”ちゃうかったらさっきのは一体なんやったの?」
「それは、……アレや。そのなんちゅうか、その……、」
歯切れの悪い謙也をハイハイ、とあしらい小春が話の続きを勝手に進めた。
確かに。可愛い、とは思ったけれど。思ったけれど、ただそれだけだ。ただそれだけのはずなのに、うがぁ、と叫び今にも走り出したくなるこの気持ちは何なんだろう。
謙也がそんなジレンマと闘っている隙に、「へぇ〜誰だろう? ちょっと特徴教えてくれる?」と意外にもノリのよい滝の手によってさっきぶつかった女子の似顔絵がホワイトボードに描かれていく。
WANTED! と書き添えられたその似顔絵はかなりいい線をついていた。
「あれ? なんでの似顔絵なんか描いて遊んでるの?」
と、そこにもう一人の氷帝マネージャーが不思議顔で部室へ入ってきた。
「アラ、貴女この子のこと知ってはるん?」と小春がすぐさま食いつく。
「え? 知ってるもなにも……あ! そっか、そうだよね! そういうことか!」
一人で納得している様子のを不審に思いつつ、「そりゃ謙也くんは気になるよね! ならさっき会ったからまだ学校にいると思うよ。呼んであげようか?」という申し出に謙也は勢い良く飛びついていた。
「あ、待って。私がする」
そう言ってがの代わりに携帯を操作し始めた。
謙也からすればどちらだっていい。もう一度あの子に会えるなら。
どれくらいの時間が経っただろう。待ち時間は苦手だ。
途中入ってきた跡部に「なんやお前かぁ〜……」と思いっきり落胆してしまい、「あーん?」と青筋を立てられたが、そこはなんとか白石が宥めてくれた。
ガチャリと回ったドアノブに今度こそ、と息を飲む。
控えめに開いた部室の扉の隙間から待ち焦がれた彼女の姿が見えて、謙也の体温は一気に上昇した。
「合ってる? 合ってる?」「合うてる! 合うてる!」と盛り上がるメンバーに拍手で迎えられた彼女はこのおかしな状況に警戒しているのかなかなか部室に入ってこようとしない。
それを「大丈夫だから!」と言ってが中に強引に引きずりいれた。
ホラホラぁ、と小春に背中を押せれ、謙也は彼女の前に立つ。
ごくんっと唾を飲み込んだところで、「さっきは、その、大丈夫やったか?」と何の面白みのないことを言ってしまって初っ端から頭を抱えるほど後悔した。
「あ……さっきの」
彼女はどうやらさっきぶつかったのが謙也であることに今気づいたらしい。
「大丈夫。そっちも大丈夫?」という声はやはり可愛らしかった。
「お、おう! この通り、全然大丈夫やで! ほら!」と、その場で腕立て伏せを始めた謙也を彼女が見下ろした。ぱちくりと繰り返される瞬き。沈黙が辛い。
「ねぇ、“忍足”は?」
ふと、彼女が思い出したように部室を見回した。
え? と聞き返す間も無く、と滝が「ハ〜イ! 忍足“謙也”くんで〜す」と謙也のことを紹介する。
彼女の眉根がほんのわずかばかり動く。
と、それと同時にガチャリと音がして、開いたドアから謙也の従兄弟・忍足侑士が顔を出した。
「何しとんねん」
彼女が振り返ったので、謙也は彼女の背中と侑士を交互に見上げた。
「なんでこっちおんねん。図書館おる言うたから、俺向こうおってんで?」
「に“忍足部室にいるよ”って騙された」
は悪びれもせずペロっと舌を出して惚けた。
「これから謙也くんたちとみんなでバーベーキューするんだよ。も一緒に食べようよ」というの誘いに「んー……いいや、眠いから今日はもう帰る」と首を横に振った彼女はいつのまにか側にいた侑士の制服のシャツの裾をさりげなく握っていた。
「忍足も帰るの?」
「いや、こいつ送ってから戻ってくるわ。ほな、後でな」
そう言って一緒に部室を出て行く二人を「じゃあね〜」と見送る氷帝組と謙也意外の大阪組。
「ほんっと忍足ってに過保護だよね〜」と扉が閉まってから笑い出す彼らに向かって、謙也は未だ開いた口が塞がらない。
フリーズしている謙也にが「どうしたの??」と声をかけるとと滝が揃って吹き出した。
「え? なになに? どういうこと?」
謙也同様未だ現状を把握できずにいるに滝が解説をはじめる。
つまるところ——。
「謙也クンが一目惚れした子は侑士クンの彼女やったってこと」
「小春! お前、いつから気づいててん!」
「ん〜? わり最初のほうかしらん? ちゃんと滝クンの様子見とったらねぇ?」
小春が視線を大阪メンバーに向けると哀れむような視線と馬鹿にするような視線が謙也に向けられていることに今更気づく。
「ごめんね、謙也くん。私てっきり従兄弟の彼女が見たいとか、そういうことかと……。てゆーか、何? あの子忍足家惑わすフェロモンでも出してるの!?」と、とりあえず謝ってくれた(?)のはだけだ。
「謙也サンまたこのパターンっスね」
「う、うっさいわ、ボケッ!」
「そういえば、この間ええ感じ言うてた子は白石のこと好きやったんやんな」
「うっ……」
「しゃーないっスわ。謙也サンそういう星の下に生まれたんちゃいます?」
みんな言いたい放題だ。
唯一白石だけが、項垂れている謙也の肩を励ますように叩いてくれるも、謙也は釈然としない。
「あ゛あ゛あ゛〜〜〜っ!!!」という謙也の雄叫びが虚しく部室にこだまするなか、他のメンバーはこれからの楽しい予定のことで頭がいっぱいだった。