そんなことがあってから、早数年。
もうすっかり謙也はそんなことは忘れていた。と、本人は思っていた。実際は思い出したくない、という気持ちが強いだけかもしれないが。
「謙也クンがあっそびに来たったで〜!」
と、早朝から意気揚々と侑士が一人暮らしをするマンションのチャイムを鳴らす。
しかし、ガチャリとしぶしぶ開いたドアの奥にはあのときの彼女——もいて、謙也は言葉を失った。
しかも、気だるげな彼女はとんでもなく薄着でその白い肌を惜しげも無く晒していた。
「お前、こんな朝早よから何の連絡もなしに何しに来てん?」
侑士は謙也を面倒くさそうにあしらいながら、さりげなく無防備なを謙也の視線から庇う。
「お、おお! せっかくの夏休みやからな! 東京観光や!」
「東京観光なら、もう何べんもしとるやろ」
大学生になってからの初めての夏休み。
本当はアルバイトにでも精を出そうかとも思ったが、それももったいない気がして、こうして従兄弟のいる東京へ遊びにきた。
実家から通えるくせに贅沢にも一人暮らしを始めたという部屋も一度見てみたかったし丁度いい。
相手も夏休み中なんだから、突然押しかけても大丈夫だろう。むしろ、サプライズだ! 考えなしに謙也は勝手に浮かれていた。
シックなインテリアに囲まれた大学生が一人で暮らすには広すぎるように思えるリビングで、謙也は落ち着かないまま侑士と向かい合わせでダイニングテーブルに座っていた。
キッチンからは豆を挽いているであろう音がするので、おそらく彼女がコーヒーを淹れてくれようとしているのであろう。謙也からはその後ろ姿しか見えないが、随分手慣れた様子だ。
「……一緒に住んどるんか?」
意味もなく声を潜めて訊いてみた。
「ま、そういうことや」
せやから泊まるのは無理やで。と、冷たく返される。
「はい、どうぞ」
夏らしいラフなティシャツに着替えた彼女が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれた。
「砂糖とミルクはいる?」と訊かれ、謙也は大げさに首を横に振る。
彼女が淹れてくれたコーヒーを飲み終わると、「ほなな」と謙也は部屋からあっさり追い出された。
さて。これからどうしよう。
すでに太陽光が惜しみなく降り注ぎ茹だるような暑さになったコンクリートジャングル東京。
行くあてもなく彷徨うにはかなりの体力が必要だが、それより先に精神力の方がポッキリと折れかけていた。
「あっ」
偶然というのは、自分の気持ち次第で、運命とも奇跡とも言い換えることができる。
おそらく日本一人が行き交う交差点で、謙也はとその日のうちに再会した。
「えー! 謙也くんだ!」
そう叫ばれてギョッとする。と一緒にいたのは侑士ではなかった。
「謙也くん」と名前で呼ばれて驚いたが、すぐそれがテニス部の元マネージャーとだということに気づく。
ジャージや制服姿の彼女らのイメージが強いせいで気づくのが遅れたのだ。
それにしても、私服だと印象がかなり変わることに驚いた。
もさっき見たティシャツ姿ではない。
三人とも好みは三者三様のようだが、それぞれが自分に似合う服を自分なりに着こなしていた。さすが、生粋の
「いつこっち来たの?」
「今朝やで。着いて速攻侑士ん家突っ込んだらコーヒー一杯で追い返されてん」
「ごめんね?」
「あーちゃうちゃう! 自分のせいちゃうで!」
「謙也くん、と忍足が一緒に住んでるの知らなかったんだ?」
「せやねん」
「てゆーか、謙也くん何しに
「何しにっつーか、遊びに?」
「そうなんだ! てゆーか、今一人で何してんの?」
あれよあれよと言うまに気づけば四人で居酒屋へ。
三人の目の前にはそれぞれが頼んだアルコールが運ばれるが、のみソフトドリンクだ。
「酒飲めへんの?」
謙也がに訊くとが答える前にが「忍足に自分が一緒にいないときは外で飲んだらダメって言われてるんだよね〜」と代わりに答えた。
「お酒弱いもんね」とが笑う。
大学のこと、それぞれの他のメンバーのこと、話題は尽きることなく盛り上がった。
主にとがしゃべり、謙也がツッコミを入れる。はもっぱら聞き役だった。
しかし、こくんこくんと頷きながら話を聞いていたはずのが次の瞬間、なんの前触れもなく思いっきり額をテーブルに打ち付けたのは驚いた。
「っえ! 何事??」
「あ、コレ、ウーロン茶じゃなくてウーロンハイ」
が飲んでいたすでにほとんど空のグラスにが鼻を寄せた。
驚く謙也とをよそにがてきぱきとに水を飲ます。
は顔だけではなく耳や首筋まで薄っすらと赤く染まっていた。酒に弱いというのは本当だったらしい。
普段はほとんど見えない白い頸が髪の隙間から覗き、妙に色っぽい。そんなことを考えてしまった謙也は邪念を振り払うかのように自分のコークハイの残りを一気に飲み干した。
どうやらそのまま眠ってしまったはそのまま寝かせることになる。
「飲むとほんとすぐ寝ちゃうの」とが笑うのでそこまで心配することはないのだろう。
「それにしても今日は特に早かったね」とも笑った。
「なんか昨日遅くまで学校の課題してたって言ってたよ。って意外と学校忙しいそうだよね」
「グループ課題、独りでしたりしてるらしいからね」
の発言にが「ハ?」と大きく返し、「どうゆうこと?」と訝しむ。謙也の眉間にも皺が寄っていた。
「知り合いにと同じ学部の先輩がいるんだけど、そのひとから聞いた話ね。ほら、の学部九割男子らしいじゃん?」
「うん。だからてっきりお姫様扱いみたいなの想像してたんだけど……」
「逆。“女のくせに”、“金持ちのくせに”、“美人なんだしこんなところでわざわざ勉強しなくても人生楽勝だろ?”って。そんでもってグループ課題とか独りに押し付けたり地味な嫌がらせしたりする連中がいるんだって」
と謙也の「はぁ???」という批難の声が重なった。がもぞっと動いたので、起こしてしまったかと思ったが、寝返りを打つように顔を今までとは反対側に向けただけだった。
「女なのも、家がお金持ちなのも、美人なのも、が悪いわけじゃないじゃん!」
「ほんとにね。でも、そういう簡単なことがわからない馬鹿もいるよ、実際。わからないっていうか、わかりたくないっていうか。むしろ妬まずにいられるみたいな方が特殊なのかもよ」
「そんなことない! その人たちおかしいよ! 最悪! 最低!」
「まぁ、でもは気にせず黙々とこなしてるみたいだし、大丈夫なんじゃない?」
「えぇー……忍足は知ってるのかな……?」
「知らないかもね。、言いそうにないし」
は「えぇー……」と自分の事のように落ち込んだ。
は頬杖をつきながらオリーブをつまみ、それを謙也にも「いる?」とにこやかに薦めた。
「はさ、学校でしっかり勉強して、ちゃんと職にも就いて、それで自分もしっかり稼ぐ、みたいになろうとしてるんじゃないかな」
「うん? あ、えっとつまりそれは医者になるつもりの忍足に釣り合うように的な?」
違う違うとが首を横に振った。
「医者の仕事なんてさ、華やかそうに見えても実際は想像するよりきっと過酷でしょ。どんなにお給料が良くても、先生先生って崇められても、毎日毎日人の生き死に直面する仕事なんか精神的にも肉体的にもキツイだろうし」
ねぇ? と話を振られて、謙也は「お、おう」とだけ慌てて相槌を打った。何故かはクスリと笑ってから話に戻る。
「立派な仕事だし、誰かがやらなくちゃいけない仕事だけど、その誰かは別に忍足じゃなくてもいい。できることなら、医者になんかなってほしくない。傷ついてほしくない。そんなのもっと心の強い人間がやればいい。
だけど、忍足がなりたいっていうならそれは止めない。だってそれは忍足の人生だもん。
ただ、もし医者をやめたくなったときがきたら、そのときに自分が経済的にだけでも支えてあげられるくらい稼いでいれば忍足の不安を一つでも減らせるかもしれないっていう話。稼ぐって生きることに直結してるじゃない? 生きていこうっていう意思の表れっていうかさ。は忍足と一緒に生きていこうってもう決めてるんだよ」
「それって結婚ってこと? 、そんな先のことまで考えてるの?」
「てゆーか、別れるとか、離れるっていう選択肢がないんでしょ」