駅の改札前で「今日はすいませんでした」と塚本が頭を軽く下げた。
「先輩に無理言ったの私なんです」
そうだろうな、と財前は思う。
は積極的に他人に関わろうするタイプではない。
ましてや、貴重な休日に〈じゃあピクニック!〉なんて浮かれた発想には絶対に至らない。
敷物、弁当、飲み物、……その他あれやこれを準備してと想像しただけで億劫になり、結局そのまま部屋から一歩も出ることのないタイプ——自分と同じだと財前はよく知っていた。
「私、協力しますね」
塚本が髪を耳にかけながら、財前に笑顔を見せた。
財前が容赦なく睨みつけても、その笑顔は意外にも怯まない。
塚本は「それじゃあ」とだけ残し、休日の夕方で賑わう駅のホームへあっさりと消えていった。
自分もこのまま帰ってしまおうかと過ぎりはするが、脚はもと来た道をすでになぞっていた。
ピクニックの間中心許なげな表情をしていたを思い出すと自然と脚が早くなる。案の定、財前が戻るとほっとしたような顔つきになったのは気のせいだろうか。
その女がどんな恋をするか、持っている鞄をみればよくわかる——と持論を展開したのは金色だ。
大きい鞄は嫉妬深く、派手な鞄は情熱的、重い鞄は文字通りで、一見綺麗なのに中身がごちゃごちゃしている鞄は浮気性。
「お前の鞄ちょっと見せろや」と一氏がの鞄を問答無用でひったくった。
ポイ、ポイ、と次々に中身をテーブルの上に並べていく。小さな鞄から出てきたのは財布、鍵、パスケース、スマホ、口紅一本、目薬三つ。
「なんでこのライナップの中に目薬が三つも入っとんねん!」
「いや、いつもの癖で……」
「どうでもええけど、今日一日中外におったのよ? 日焼け止め持ってへんことの方がどうかと思うわ」
二人に責められたが「財前くん助けて!」と財前の二の腕に無遠慮に触れた。冷たい指先の感触にどきりとするが、それを悟らせないようにわざとらしいため息を吐いてあしらった。
的外れな信頼が財前のプライドを傷つけていることなどは夢にも思っていないのだろう。
◇◆◇
財前が初めてと顔を合わせたのはもちろん会社でだ。
が
「はじめまして」と言った標準的なイントネーション。短く整えられただけの爪。カラーリングをしていないダメージのない髪。背筋がよく伸びたまっすぐな姿勢。財前は心の中でに生徒会長とあだ名をつけていた。
だから、定時であがってるのを見つかったときはめんどくさい人間に見つかったと思ったのだ。
「早いね」と嫌味を言われたので、「今日の自分の分は終わったんで」と返す。
「そうだよね、明日の分は明日でいいよねぇ。明日の分、今日やっても、明日は明後日の分やるんじゃ意味ないもんねぇ」
「お疲れさま」と挨拶するは普通に笑っていた。「早いね」も嫌味じゃなかったのかもしれない。
あだ名は生徒会長から学級委員長に変更した。
とひょんなことで親しくなったのは、それからすぐのことだ。
ある週末、専門学校の先輩で現在の職場も偶然同じになってしまった一氏に会社帰りにライブハウスに誘われた。
それ自体なんら珍しいことでもなかったが、一氏のとなりには所在なさげにが立っていた。
がお笑いライブに興味があるとは思えない以上に、一氏と親しいことに疑問が湧く。
案の定、はお笑いライブではぎこちなく拍手しているだけだし、一氏に対してもどう接していいのかわからず怯えているようでさえあった。
「嫌やったら嫌ってはっきり言うた方がええですよ」
帰り道。一氏とはそもそも電車の路線も違うので早々に別れたあと、財前とは偶然自宅の最寄駅が同じだということで夜道を連れ立って歩いていた。
ビルの合間に小さな三日月が浮かんでいる以外夜空を飾るものはない。
財前のとなりを歩くはやっぱりどこかまだ不安そうなままだった。
「財前くんもお笑い好きなの?」
と、訊かれて「普通っスわ」と財前は答えた。財前が今日のイベントで興味がったのはお笑いライブの合間にあったバンド演奏だ。
しばらく活動を停止いていたが、ここ最近復活してちょこちょことアングラで活動しているという情報を事前に入手していた。お笑いと一氏はそのオマケにすぎない。
だから、「まぁ、正直お笑いはよくわかんなかったけど、合間にやってたバンドは良かったなぁ」とが溢したのを財前は無視できなかった。
自分もそのバンドのことが嫌いじゃないと控えめに伝えると、今度はが驚く番だった。
「え、でも世代違くない?」
「六つ上に兄貴おるんスわ」
「そういうことか!」
「じゃあこのバンドは知ってる?」というの質問にはほとんどイエスで答えることができた。あれやこれと話すうちに音楽の趣味自体が似てることもわかる。
強張りが解けたの表情は明らかに会社にいるときとは違って見えた。
肌寒さのせいか、少し飲んだアルコールのせいか、思いがけず意気投合した興奮のせいか、の頬には微かに赤味がさしている。
「今日ね、びっくりしたけど来てよかった」
別れ際にが「財前くんと話せて楽しかった、ありがとう」とはにかんだ。
そんな社交辞令を真に受けたわけではないが、身体の空いた週末に一氏とと三人でライブハウスに行ったり、酒を飲み交わすことが当たり前になって、気がつけばすでに半年以上が経っていた。
◇◆◇
その日の分の仕事をあらかた終えて、イヤフォンを耳に突っ込みながら歩いていると、一階のエントランスホールで白石と出くわした。
「おお、財前今帰りか」
「っス」
「飯でもどうや?」
「飲みにケーションとかほんま無理なんで」
「そんなん言うてお前も一人暮らしなんやろ? 晩飯とかどないしてるん?」
「いやコンビニとかで適当に」
面倒なひとに捕まったと思っていると、ちょうどそこにも降りてきた。
「お疲れ様です」
「もどや? 今から飯でも行かへん?」
も、ってなんや、と財前は心中ですでに自分がカウントされてることにツッコむ。
急に話を振られたは「あー……」と完全に困っていた。「助けて財前くん」と目が語っている。
財前は仕方がないので、「この人もこんな時間に飯なんか食いませんよ」と助け舟を出してやった。
「こないだは食うとったやん」
「えー……いや、だってあれは
「こないだから薄々思っとったんやけど、もしかして結構ものぐさか?」
「ちゃんと食わなあかんで」と引き下がらない白石にうんざり顔の財前と。
「お前らなんやそっくりで姉弟みたいやな」と白石が呆れた。
そんな風にエントランスでもたもたしているとエレベーターからまた人が降りてくる。
それに気づいた白石がすかさず声をかけた。
「おお、柳くん! 今年の研修の担当、柳くんやったやんな。お疲れ!」
となりにいるが身を固くしたのがわかった。
財前は改めて柳を見やる。百八十越えの長身に細身のシルエットのスーツが嫌味なくらいよく似合っている。落ち着いた物腰に涼しげな目元。財前が持ち合わせていない類の余裕が色気を作り出していた。
柳は白石の相手もそこそこにに「どこか夕食を食べれる店を知らないか」と尋ねていた。
「あー……、えっと『ぎん』ってお店なんですけど、居酒屋さんで、あ、でも料理も出汁が効いてて薄味で美味しいからきっと柳さんの口にも合うと思いますよ」
「それはいいな。案内がてら一緒にどうだ?」
は「えっ」と戸惑っていた。しかし、それは先ほど白石に誘われたときとは明らかに様子が違っていた。
「独りで食事するのは味気ない。付き合ってくれないか?」
それが駄目押しの一手となり、「……あ、はい。それじゃあ」とはにかんだが財前のとなりをスッと離れて、柳とともに歩き出す。
恨めしく睨んでもの背中は遠ざかる。
同じく取り残された白石に「あの二人なんかあったらしいっスよ」と教えたのは財前なりのに対するわずかな反抗だった。
「ええ!」と騒ぐ白石を置いて、財前はさっさとたちとは反対に駅の方へ歩きはじめた。
夜空を眺める余裕もなく、いつの間にか駅に着いていた。
「財前くーん! 飲んでるかーい!」
だいぶ出来上がっている状態のに後ろからタックルされて意識が過去から現在に戻ってくる。
が柳と消えた日の次の日、財前は真っ先にが昨日と同じ服を着ていないか確かめた。……阿呆らしい。
の片手にはライムがささったスミノフが握られていた。今夜のは特に上機嫌だ。その理由が今フロアに流れている曲がの好きなアーティストの新譜であるからだと財前は自分に言い聞かせる。
当初のイメージだった生徒会長の姿はどこにもない。へらへらと赤い顔で「踊ろ」と誘うはだらしがなくて隙だらけで危なっかしくてとても色っぽい。
「ちゃん、なんかええことでもあったのかしらね」と呟く金色の声は聞こえなかったフリをした。
最終的に自力で歩けないほど酔ったを送る羽目になったのは家が近い財前だ。
部屋の前まで着いてもはほとんど寝ている状態だったので、しょうがなく財前はの鞄から勝手に鍵を取り出した。相変わらず鞄の中身は驚くほど少なかったので、鍵をすぐに見つかる。
態度にも表情にも出さないが財前の心拍数は確実に普段より上がっていた。密着した肌から伝わる熱が今にも理性の糸を焼き焦がしそうだ。
財前はこのまま部屋に入って何もせずに帰るつもりはなかった。
たとえ年下が恋愛対象外であっても、異性である相手にあまりにも無防備な姿を晒すことがどうなることに繋がるか、自覚させるいい
財前はの身体を抱えて部屋に入った。明かりを点けようとしたがあいにく手探りではスイッチにいきつかなかった。
しかし、すぐに部屋が仄明るいことに財前は気づいた。リビングに面した窓のカーテンが閉まっていなかったからだ。いや、よく見るとカーテン自体がかけられていなかった。
フローリングの床がうっすらと外光を拾って部屋中に乱反射させていた。
やっとそこで財前はこの部屋に違和感を覚えた。
部屋中見渡しても家具という家具が見当たらない。あるのは床に置かれた折りたたみ式の簡易マットレスと寝具だけ。
その他に生活を感じさせるような物は一切存在しなかった。
急に酔いから醒めたように財前の身体からは熱が引いていく。
この部屋はの心情そのものだ。
にとって所詮
いつかまた、そう遠くない未来なんの未練もなしにあっさりと
にとっては自分だちはいつでも切り離せるそういう存在なのだということをこの部屋がありありと語っていた。
「……阿呆くさ」
財前はずっと自分との間にある問題は年齢差のことだけだとどこかで楽観視していた。
それさえ乗り越えれば希望はある。そんな風に思っていた自分がいかにおめでたいかよくわかる。
財前はの身体をマットレスに転がして部屋を出た。
鍵なんかかけずにそのまま帰ってやろうかと思って一旦は外へ出たが、思い直して再びドアを開けて鍵を掴み、外側から部屋に鍵をかた。
もこの鍵のように簡単に自分の所有物にできてしまえたらいいのに——財前は自分の考えが虚しいとわかりながらその鍵を自分のポケットにねじ込んだ。