朝、が目を覚ますと白石は何故か半裸のままベッドの下で妙なポーズをとっていた。
「え!? 何してるんですか!?」とがギョッとすると「ハトのポーズやで」ととびきりな笑顔が返ってくる。
は白石のことを理解することを諦め、そそくさとシャワーを浴びにいった。
「今日どないするん?」
「まだ時間あるんで一回帰って着替えてきます」
「ほうか。俺はこのまま会社行くことにするわ」
「じゃあ」と言ってと白石はホテルの前で別れた。
は駅へ。白石は会社へ。それぞれ反対方向に歩き出す。
始発が走りだしてまだ間もない時間の駅のホームは閑散としていた。
次の電車を待っているあいだ、一緒に会社へ行けばよかったかな、とはふと思った。二日連続で同じ服を着ていたとしても誰がそんなことに気づくだろうか。いや、塚本あたりに感づかれる可能性もあるかと思い直す。
しかしそんなことより、会社で白石が変な態度を取らないかどうかの方が心配だった。
みんなの前でにぎこちなく話しかける白石を想像して、はげんなりした。
一夜限りのことだ。お互いに特別な感情があったわけじゃない。その場の勢いではじまり、終わった行為。後腐れなく。
と、割り切れたらどんなにいいか。
女は身体の関係を持つとどうしてもそこに感情が湧いてしまう。
自分のことを好きでもない男に自分を抱かせてしまったという惨めさに蓋をしたいがために、少なくとも自分は相手の男を特別に想っていたと勝手に脳が錯覚させようとする。ある種の防衛本能といってもいい。
はふるふると首を横に振って、自分の中から厄介な幻想を振り払おうとした。
気を抜くとありありと蘇る白石の手や舌の感触もすべてちゃんと忘れよう。そう自分に言い聞かせるたびに逆に思い出していることに気づいて、深いため息を吐いて項垂れた。
着替えと化粧を済ませたはいつもより少し早い時間に出社した。
下手に家でぐずぐずしていると眠くて仕方がなかったからだ。
朝一のメールチェックを終えて、コーヒーを買いに席を立った。
その帰りに廊下で丸井につかまった。
「おはよ」
「おはようございます」
「今日早くね? つーか、お前その目の下のクマどうした?」
鋭い丸井には肝を冷やす。
「ちょ、ちょっと昨日持ち帰りの仕事をしてて」と咄嗟についた嘘は自分でもわかるくらいにぎこちなかった。
しかも、このタイミングで白石が向こうからたちの方へ歩いてくるのが見えた。
こっちに来ないで、こっちに来ないで——の念も虚しく白石はごく自然にに声をかけてきた。
「おはようさん。この間、塚本に頼んどった資料なんやけど、念のためも目通しとってな」
「あ、ハイ。来週までですよね?」
「来週まで待ったらイベント間に合わへんで」
「どないしてん。しっかり頼むで」と軽く肩を叩かれて、は密かに身を硬くした。
一部始終をとなりで見ていた丸井に「お前顔赤いぞ」と指摘されて、「丸井さん方こそ顔ちょっと赤いですよ。風邪じゃないですか?」と無理やり誤魔化した。
なにが、会社で白石が変な態度を取らないか心配だ、だ。自分の方がよほどちゃんとできないではないか、とは頭を抱えたくなる。
なんて馬鹿なことをしたんだろう、と反省しても後の祭りだ。
粛々と通常業をこなしていたが、どうしても今日中に丸井に確認したいことが出てきてしまった。
外回りなどで人もまばらな時間を狙っては営業部に顔を出す。白石がいないことを真っ先に確認してほっと息を吐いた。
とりあえず、たまたま出入口付近にいた丸井の後輩を捕まえて「ねぇ、丸井さんいるかな?」と尋ねた。
「丸井さんならなんか今日はこのまま直帰するってもう出ましたよ。急ぎっスか?」
「できれば今日中がいいんだよね。わかった。ありがとう。自分で電話してみる」
最初からこうすればよかったと思いつつ、丸井に電話をかけた。二コールで繋がる。
簡単な業務確認だったので要件はすぐ済んだ。
「——ありがとうございました。じゃあこのまま進めますね」
「おう、シクヨロ」
「じゃあ」と電話を切ろうとした丸井が急に咳き込んだので、「大丈夫ですか?」とは慌てて電話を耳元に戻した。
「大丈夫、大丈夫」
「やっぱり風邪じゃないですか?」
「たぶんな」
「薬飲みました?」
「大丈夫だって。今日はもうこのまま帰るから寝てりゃあ治るだろぃ。なんかわかんないことあったら適当に俺のデスク漁っていいからな」
ここで粘ってもしかたないので「お大事に」とは素直に電話を切った。
でも、やはり気がかりだったので、
〈代わりにできることがあれば言ってください。できる限りフォローします〉
と、メッセージを送ることにした。
返信はしばらくなかったが、帰り際になって〈米、プリンゼリー〉という謎の返信が入っていることに気づいて、は再び営業部へ向かった。今度も白石の姿は見当たらなかった。
「あ、切原くん」
「お疲れさまっス」
「お疲れさま。切原くんって丸井さんの家わかる?」
「わかりますよ。どうかしたんスか?」
「なんか風邪引いてるみたいで。差し入れ持っていきたくて」
これなんだけど、と言ってさっきのメッセージ画面を切原に見せた。
「米?」
「いや、たぶん『ごめん』って打とうとしたのかなって。もしくはお粥のことじゃないかなって思ってるんだけど……どう思う?」
「えー、俺にもわかんないっスよ。つーか、このさんの『代わりにできることがあれば』って仕事のことじゃないんスか?」
「いや、そのつもりだったんだけど、調子かなり悪そうだし、今日はもうあがれるから差し入れくらいならって」
「へぇ」と感心している切原に「丸井さんって彼女いないんだよね?」とは確認した。
こんな連絡を同僚のにするくらいだ。おそらくいないだろうが念のため。
「あ、もしかしてこのチャンスに的な」
「違います。家行って彼女と鉢合わせしたりなんかしたら逆に迷惑になるでしょう」
「なーんだ」とつまらなそうにした切原をは軽く小突いた。
そして、何故かそのまま見舞いについてくるという切原を連れて一緒に丸井の家へ向かう。
丸井の家は会社からほどほどに離れたごく普通のマンションの三階だった。
チャイムを鳴らすとインターフォン越しに丸井が咳き込んだのがわかった。
「大丈夫ですか?」
「な、……?」
「なんでそんなに驚いてるんですか? だって連絡くれたでしょう?」
「あ?」
「もしかして無意識ですか? ま、いいや。とりあえずいろいろ買ってきたんで、ドアノブにかけておきますね」
「お大事に」と帰ろうとすると慌ただしく玄関のドアが開き、上下スウェット姿でおでこに冷えピタを貼った丸井が顔を出した。
「いえーい、丸井さん! 元気っスか?」
「……元気なわけねぇだろぃ。つーか、なんでお前までいんだよ」
「マジで風邪だったんスね。あ、薬とか栄養ドリンクとかも買ってきましたよ。飲みます?」
「買ったのどうせお前じゃなくてだろぃ」
買ってきた物をビニル袋から出し、仕分けながら、「薬はお粥のあと。今、食べられますか?」とは丸井に声をかけた。
丸井が「おう」と言ったのを確認して、はレトルトのお粥を温めにキッチンに立つ。
キッチンは男の一人暮らしには珍しくきちんと調味料や道具が揃っていた。
「あ、さん、俺にもお湯くださーい。さっき買ったカップ麺食う」
「お前なにしに来たんだよ!」
もまったく同じことを思いながら、鍋を火にかけた。
あまり長居しても悪いので、お粥の支度を終えたはすぐに帰り支度をする。このまま切原を置いて帰るのはどう考えても丸井の病状を悪化させそうなので、切原がカップ麺を食べ終わるとすぐに切原にも帰り支度をさせた。
「この近くの病院とか、もしものために救急病院とかの場所調べておいたんで」とメモを薬と一緒にテーブルに乗せて、切原と玄関へ向かう。
「サンキュ」と立ちあがって見送ろうとする丸井をとめて、「鍵、新聞受けから落としておきますから、あとで拾ってください」と付け加えた。
帰りの道のりを疎らな街灯に照らされながら切原とは並んで歩く。最初はなんで付いてきたのかわからなかったが、切原は切原なりに先輩である丸井のことを心配していた。
きっと丸井は面倒見がよさそうだから、こうやって後輩にも慕われているのだろう。
自分とは大違いだ、とは思う。
「さんっていいお母さんになりそうっスね」
「奥さんを通り越してお母さんかぁ。複雑」
「さん結婚とかしないんっスか?」
「なかなかエグい質問サラッとしますねぇ」
「さぁせーん」
切原の発言はデリカシーがないが、その分深い意味もなさそうなので、も怒る気にはならない。
「結婚はねぇ……。実は一回失敗してるんだよねぇ、私」とがボソッとぼやくと、「え! さんバツ一!? マジっスか!!」と切原が想像以上の反応をみせてくれたので、もなんだか楽しくなって笑いながら話を続けられた。
「いや、籍は入れてなかったからギリギリセーフ。なんだけど、結婚式の一週間前に当然向こうから『別れてくれ』って」
「うわっ、ひっでー」
もう一年以上前の話だ。
相手は以前勤めていた会社の二つ上の先輩だった。
上手くいっていたと思う。三年付き合って、当然のように結婚の話になって、婚約指輪も買って、お互いの両親にも挨拶をした。
少なくとも、いよいよ結婚式という段階になって「別れてくれ」と頭を下げられるとは思っていなかった。
「他に好きなひとができたんだって」
「そういうのマジであるんスね」
「ねぇ」と他人事のように笑って切原に同意する。
「後悔したくないんだ」と言われて、はただ黙ってそれを受け入れた。
縋りついて引き止める根性も愛情もの中にはそのときすでに存在していなかったから、せめてこれはもらってくれと言われて渡された慰謝料のような三百万円も遠慮なく受け取っていた。
結婚がダメになり、会社にも居づらくなったは転職する他なくなった。しかし、案外転職先はすんなり決まり、半年の研修を終え、大阪支店に正式に配属されたことはにとってもいい機会になった。
全部なかったことにして、自分のことを誰も知らない、どこか遠くへ。
漠然とした願いが思わぬかたちで叶ったのだ。
「まだそいつのこと好きなんスか?」と切原に訊かれて、は首を横に振った。
まさか、と答えようとして、「どうだろうなぁ」と言うにとどめた。
もう他人を心から信用することはできないかもしれない。つまりそれは誰のことももう好きにはなれないということと同じだ。
将来を不安に思う気持ちはかたちを変えて常ににまとわりついていた。
全部なかったことにして、自分のことを誰も知らない、どこか遠くへ来ても、それは変わらないことだった。