問題が発生したのはその週の金曜日だ。しかも、すでに二十二時を過ぎ、会社にはほとんど人が残っていないタイミング。
そろそろ帰ろうとしていたのところに慌てた様子の切原が駆け込んでくる。
「例のアダルトのやつ! なんかデータが消えたとか言ってクレーム入りました!」
「うそ?!」
「詳細聞こうにも『担当出せ!』の一点張りで」
「丸井さんは?」
「今日出張なんス」
重いため息を吐いたあと、はすぐにクライアントに電話をいれた。
しかし、そこでも『いいからこっちへ来てくれ』と繰り返される。
たまたま残っていた課長にお伺いをたてると、「じゃあとりあえず行くしかないな」という指示を受けた。
「これからっスか!」と悲鳴をあげる切原に「私が行くよ」とは肩を叩いた。
「丸井さんに連絡入れた方がいいっスよね?」
「うん、そうだね。そっちはお願いできる?」
ダメ元で技術開発部を覗いてみたが仁王はやっぱり捕まらなかった。
しかし、とやかく言ってる場合じゃない。システムエラーだったらデザイナーのにはお手上げだが、状況を確認することくらいならできるかもしれない。
はもう一度クライアントへ電話して「今から向かいます」と告げて会社を出た。
◇◆◇
深呼吸をしてチャイムを鳴らす。この前と同じ男性社員が「あーどうもどうも」とを事務所の中に通した。
他に四人の男性社員が事務所に残っているようだった。というより、彼らはここで寝泊まりをしているんじゃないか、と思う。
その昔、一度だけ入ったことのある野球部の部室ような臭いがしては俯いたまま彼らの横を足早にすり抜けた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「こっちもリリース直後これだと信用問題だからさ」
「さっそくですが状況を確認したいので見せていただけますか?」
デスクとパソコンを借りてCMSにアクセスさせてもらうと、確かに入力していたはずのデータがごっそりと抜けていた。
大方バックアップを取るときにでもミスをしたに違いない。
原因はわかった。治し方もわかる。もう一度入力をすればいいだけの話だ。
ただそのデータ量が半端ではない。今夜中に終わるかどうか……。
状況を説明して、こちらのミスではないことはわかってもらえたが、至急復旧させてほしいと頼まれる。
ここで断れば印象も悪いし、今後このクライアントはウチを使わなくなるかもしれない。
デザイナーのに交渉術などない。
丸井の顔に泥塗るわけにもいかないので、はフゥと小さく息を吐いてから、腕捲りをして作業に取り掛かった。
一階の精肉店はシャッターを下ろしていたし、三階は空きテナント。バッグの中には防犯ベルが入っているが、この状況でそれがどれほど役に立つか。
周りを警戒しつつ作業をしていると神経が驚くほど磨り減った。
出されたお茶はいっさい口にしていない。チラチラと注がれる視線には気づかないフリをした。
早く帰りたい一心では必死にデータを入力し続ける。
突然、背後で出入口が開く音がしては身体を飛び上がらせた。
「スタンドヘヴンです」と言って頭を下げながら事務所に入ってきたのは——
「仁王さん!」
「状況説明しんしゃい」
「コンテンツのデータがごっそり消えてます」
仁王はのとなりの椅子に腰を下ろし、自前のノートパソコンで作業を始めた。
仁王が来たことでさっきまでの向かいに座っていた男性社員二人が帰って、もう一人が奥の部屋に引っ込んだ。
漏れ聞こえていたゲームの音が止み、と仁王のタイピング音だけが静かに響く。
は一瞬緩んだ気を引き締めて作業を再開した。
合間に仁王がくれたペットボトルのお茶に少しだけ口をつけた。
すべての作業が終了したのは午前四時の少し前だった。
当たり前だが電車もバスも動いていない。ここから自宅までタクシーで帰ったとして、その料金を頭の中で見積もるとゾッとした。
「どうします?」と後ろの仁王を振り返ると、「あっちで休憩でもするか?」と誘われたのはラブホテル。
は白けた視線を送って仁王の冗談をかわし、近くのマクドナルドでコーヒーを二つ注文した。
あと少し待てば始発も走る。
ぼんやりと外を眺めなら二人で夜明けのコーヒーをすすった。
「お疲れさまです」と言ったあとはどちらとも特に何も話さなかった。
ふと、仁王の視線が不自然に動いたのに気づいて、はその視線の先を追う。
さっきのラブホテルから一組の男女が出てきたところだった。
にも見覚えのある顔にハッとして、それからいつかの休憩室での出来事が蘇る。
そのときも仁王が見つめる先には同じ女がいた。
人事部の
そして、一緒に出てきた男は総務部長の岩城だ。太ってもいなければ髪も抜けていない外見面はその年齢にしては合格点だが、いかんせん所帯持ちである。
そう珍しいことではないとは思いつつも、はその状況にかすかに顔をしかめた。
仁王は執拗に視線で二人を追っていた。だが、二人はそんな仁王にも、もちろんにも気づくことなく、まだ静かな駅前のロータリーの方へ消えていく。
完全にその姿が見えなくなってから「まだ続いとったんか」と仁王が鼻で笑った。
「お前さんも俺の噂いろいろ聞いたことあるじゃろ」
は曖昧にうなづいた。
「セレブの女に飼われてるだとか、付き合った女飽きたら風俗に売るだとか、上司の女に手を出して飛ばされただとかな」
は遠慮がちに「出したんですか? 手」と訊いた。
「出してない。出してきたのは向こうじゃ。それがいつの間にかそういうことになっとった」
つまり佐々原と付き合っていたのは仁王で、後から横槍を入れてきたのが岩城ということか、と推測する。
もしくは佐々原の浮気相手が岩城だったということかもしれないが、どにらにしても仁王にとってみれば結果に大差ない。
が黙ったままでいると、仁王は「なーんてな」とおどけて空になったコーヒーの紙コップを握り潰した。
周りで座っていた数名が動いた。時計を見るとそろそろ始発が走りだす頃だな、と思う。
「行くか」と言って仁王も立ち上がった。
は仁王の手から潰れた紙コップを抜き取って自分の分と一緒に捨てにいった。
「仁王さん、今日はありがとうございました」
「なんじゃ、俺に惚れたか」
仁王がを揶揄った。
仁王はいつも通りだ。そのことがなんだかとても悲しく思えた。
「本当に嬉しかったんです。今日来てくれたこと。噂が嘘でも本当でも、私は仁王さんのこと好きですよ」
どちらか一方ではなく、双方の話を聞けばまた違った見解になるかもしれない。
けれど、今は目の前で傷ついている人間に否定的な言葉をかけたくなかった。
朝の鈍い光に照らされてこのままふらふらといなくなってしまってもおかしくないような背中をなんとか現世に繋ぎ止めておきたかった。
それはいつかの自分が誰かにしてほしかったことだったとが気付いたのは仁王と分かれて乗った電車に揺られているときだった。
窓の外を流れていく街並みは半年以上過ごしてもにとっては物語の景色みたいに現実味がない。
は突然自分がどうしてここにいるのかわからなくなるような目眩がした。
——帰りたい。
——でも、帰りたい場所がない。
強烈な思いがの冷たい胸の中に熱さをもって溢れ出す。
駆けよって甘えたい膝も、抱きしめてもらいたい腕もない。
ただどうしようもなく、己がここに立っている、それだけだ。誰とも繋がっていない。
そのことに安心していたはずなのに、それは自分をも偽る大きな嘘だった。
は見渡す限りの真っ暗な宇宙をたった独りで彷徨う孤独な宇宙飛行士にでもなったような気になった。