持って帰ったはずの資料がないと白石が気づいたのは金曜日の夜、家に帰ってからのことだった。
用事といったってどうせジムに行くことくらいなので、土曜日の早朝に休日出勤をすると、他に誰もいないオフィスでを見つける。
なにやらコピー機のそばでしゃがみこんでいるに声をかけると案の定驚かれた。傷つくくらいに。

「……おはようさん。どないしてん、休みの日にこんな朝早うから会社来て」
「あ、お、おはようございます。ちょっと、その、一件報告書あげなきゃなのがあって……」

「白石さんの方こそ、どうしたんですか?」と訊くは白石の目を見ない。
コピー機の中で紙詰まりが起きてしまったらしく、しきりにガチャガチャと音を立てながらつまっている紙を無理に引き抜こうとするを見かねて、白石は手伝おうと一緒にしゃがみこむ。
 そこで突然バタンと扉が開き、慌てた様子の丸井が入ってきた。丸井は片手に持っているスーツケースを派手にデスクにぶつけたのも気にせず、を見つけるなりこちらへ向かってくる。
そういえば、丸井は昨日本社に出張だったはずだ。その足で会社まで戻ってきたのだろうか。でも何故こんな早朝に? と白石の頭の中に疑問が浮かぶ。

「お前、なんで電話出ねぇんだよ!」

 ドカドカと歩いてくる丸井は白石なんてまったく見えていない様子でを怒鳴った。
 驚いたは慌てて自分の携帯を取り出して「あ、え? あ、電池切れてる……」と呟く。

「どんだけ心配したと思ってんだよ!」
「すいません! ごめんなさい! あ、でも、こっちのミスじゃないこともわかってもらいましたし、データの復旧もちゃんと——」

 と、言いかけたの声に被って「そんなのどうだっていいんだよ!」と丸井の声が響く。
白石が「ちょ、どないしてん」と二人のあいだに割って入ったが、丸井はなおも白石を無視した。

「なんもされてねぇよな」

 そう訊かれたが「されてません。大丈夫です」と答えると丸井はその場にしゃがみこんだまま、脱力したように大きなため息を吐いた。

「心配してこんな朝早くに東京から帰ってきてくれたんですか?」
「仕方ねぇだろい。昨日赤也から連絡もらったときにはもう新幹線走ってなくて……。あー、つーか、それより仁王! あいつちゃんと来たか?」
「はい。ちゃんと来てくれましたよ。さっきまで一緒でした」

 その言葉に丸井が顔を上げる。白石もをまじまじと見た。
「さっきまで」。それは一晩一緒にいたということだろうか。
言葉の意味に遅れて気づいたが慌てて訂正をした。

「違います違います! 朝まで向こうの事務所で仕事!!」

「なんにもないですよ」と言い切ったが白石を見た。今日初めて目が合ったが、すぐにまた逸らされた。

「……つーか、朝まで仕事してた奴がこんなとこで何やってんだよ」
「あ、えっと、報告書を——」

 またもの言葉を遮り、丸井が「帰れ」と命令した。

「いいからお前もう帰れ。報告書なんかあとでいいんだよ」

「でも、」と食い下がるに丸井が怖い顔で「か、え、れ」と再度凄んだ。
折れたが「すいません」と言って丸井に頭を下げる。

「なんでお前が謝んだよ。謝んのは俺の方だろい。……ほんとごめんな」

 はそんなことないとばかりにしきりに首を横に振った。
 丸井はの肩を労うように軽く叩いてから、デザイン部から去っていく。
はそれを見届けると、ほんの小さく息を吐いた。
安堵とも、憂いとも、とれるため息だった。

「大変やったみたいやな、お疲れさん」
「あ、いえ。大したことしたわけじゃないんで」

 再びコピー機から用紙を引き抜くことに取り掛かったを、白石は静かに見下ろしていた。

「ほんまに仁王クンとなんもなかったん?」

 丸井のように怒鳴っているわけでもないのに、白石の声はふたりっきりのオフィスで妙に響いた。
 が顔上げて、信じられない、といった表情で白石を見る。は油をさしていないブリキのおもちゃのようなぎこちなさで、表情も動かさずに「なんにもないですよ」とさっきと同じ台詞を口にしたあと沈黙が続いた。
「あ!」とが叫ぶまで。

「なんや急に。どないしてん?」
「今日土曜日!」
「それがどないしたん?」
「今何時ですか?」
「八時過ぎやで。せやからどないしてん?」

「ぎゃあ」と悲鳴をあげたが慌てて自分の携帯を取り出すも、電池が切れているのを忘れていたらしく、「ぎゃあ」と再び色気のなく叫んだ。

「連絡……はできないか。あ、白石さん!」

「謙也さんの連絡先わかりますよね?」と縋られ白石は目を瞬かせる。

「わかるけど」
「今、電話してもらえますか? 私、今日謙也さんと約束してて……このままだと遅刻しちゃう」

「お願いします」と必死に頼むを見て、白石は自分の感情を飲み込み、「わかった」と返す。
しかし、白石が謙也にいくら電話をかけても通じなかった。
それを伝えると、は「あーもう、どうしよう」とおろおろとした。

「待ち合わせ何時にどこなん?」

 白石がそう訊くと、が確かに歩いていけば確実に遅刻するであろう時間と場所を言う。
「俺、車で来てるから送ろうか」と白石が申し出ると、が「お願いします!」と勢いよくうなづいた。
 二人で白石の車に乗り込み、会社の駐車場を出た。やっと冷静になり、この状況の気まずさを気づいたらしいは黙ったまま助手席で窓の外を眺め続けた。
訊きたいこと、言いたいこと、そのどちらも飲み込んで白石も黙って車を走らせた。
 なんとか約束の時間ギリギリに待ち合わせ場所に到着して、は「ありがとうございました」と車を降りる。
その瞬間、咄嗟にその腕を掴んでしまいそうになったことを思い出して白石は独り残された車内でハンドルに突っ伏した。そのせいでクラクションが鳴り、慌てて車を路肩から発進させるという間抜けまでやらかしてしまった。

 思い返せばどういうわけか白石の恋はいつもうまくいかなかった。
過去の恋愛を振り返っても、あまりいい思い出はない。気がつくといつもフラれているのは白石だった。
好きになった相手も、好きになってくれた相手も、最後は決まって白石から離れていった。
理由はさまざまだったが、要約すると「あなたのことがわからない」ということらしい。
ならば、じっくり話そう。そのための時間なら惜しまない。白石がそう訴えても相手は悲しい顔で首を横に振るだけだった。
 本音を言えば「わからない」ということがどうマイナスに働くのか白石には理解できなかった。
「わからない」からこそ相手に興味を持つし、もっと知りたいと求める。
例えばもし、相手の気持ちや行動をすべて把握できたところで、所詮それは付き合うのが楽になるというだけで、そうしたいと思うこと自体相手に対して失礼にあたいするのではないか、とすら白石は思っていた。
 それでも彼女たちの根源にあるのは不安だということはわかるので、白石はできるだけ自分の気持ちを言葉にしたし、行動にもしてきたつもりだ。
でも、それでも駄目だった。
 恋が終わっても、それで自分が全否定されたわけではない。
恋なんて突き詰めればひととひととの関係性であり相性だ。失恋で必要以上に落ち込む必要はない。
白石はそう自分に言い聞かせてここまでやってきたが、新しい恋へ向かって一歩踏み出す足が年々重くなっているのは確かだった。
 そんな日々の中で白石はを見つけた。
この子のことをもっとよく知りたい——だからあの夜白石はの誘いにのった。
 おそらくは欲を満たしてくれるなら相手が白石でなくてもよかったに違いない。
白石もそれを重々承知した上でを抱いた。なんなら、そこに漬け込んだといってもいい。
始まり方より始まるか始まらないか。そこが重要だと考えた。
だから、白石はあの夜のことをなんら後悔していなかった。
 ただ、のその後の態度は白石も予想外だった。
もっとそつなくかわすだろうと思っていたのに、次の日の朝、会社で白石の顔を見るなり顔を赤くしたは正直とても可愛くて困ったほどだった。
白石はの新たな一面が見れたことを単純に喜んだ。
しかしそれを白石が楽しめていたのは一瞬だ。
頑なに拒絶の態度を崩さず、あったことをなかったことにしようとするの身勝手さにだんだん腹が立ってくるからタチが悪い。それこそ身勝手な話なのだが、湧いてくる感情はどうしようもなかった。
 男は好きでもない女でも平気で抱ける。
確かにそういう男もいるが、そうではない男もいる。にはそれを知ってほしい。
あの夜、白石は相手がでなければあんな場所には行かなかっただろうし、そもそも追いかけてもいなかったはずだ。
 がベッドの上で本当は何を求めていたのか。その答えを自身が持ち合わせていないように思えた。
もしそのことに不安を感じて怯えているのなら、見つかるまでいくらでも一緒にいてやるのに——
 白石はそれくらい強い想いでに焦がれていたが、その想いはには残念ながらまったく届いてはいないようだった。
 うまくいかへんなぁ。
 白石のぼやきは煙のように空気に溶けて跡形もなく消え失せた。