車から降りて白石に手早くお礼を言ったは謙也との待ち合わせ場所へ走った。
遠目に謙也の派手な金髪を見つけてさらに全力疾走。謙也の前に着く頃にはは激しく息を切らしていた。
「おうおうおうおう、そんな走ってどないしてん?」
「すいません。遅れそうで」
「寝坊でもしたんか?」と笑う謙也にまさか忘れていたとは言えない。
本当は言うつもりはなかったのに、「実は会社でいろいろあって」との口から言い訳めいた言葉がついてでた。
「会社でって今日休みちゃうん?」
と、驚いた謙也に「あ、実はトラブル自体は昨日で……」と、かいつまんで事情を説明することになる。
「——で、始発までの時間マックでコーヒー。今思えば、普通にタクシー乗って領収書貰えばよかったんですよね。もう、ダメですね。この歳になると徹夜は。脳みそ正常に働かない」
が自分の失態を明るく語っておどけてみせると、それまでずっと「うんうん」と相槌を打ちながら聞いていた謙也がごくごく当たり前に「大変やったなぁ。よぉがんばったやん」との腕を軽くとんとん、と労うように叩いてくれた。
それは“仕事なんだから”、“大人なんだから”、そう自分に言い聞かせて無理矢理ゴミ箱に捨ててしまった感情をそっと拾いあげてもらえたようなものだった。
幼い頃、は独りで過ごすことが多かった。
年の離れた妹が病気がちで、母はその看病に追われていたからだ。
多い時は年に数回、一月以上入院をする幼い妹面倒を見ることは、小学生のから見ても大変だとわかる。
家にいる母はいつも疲れていたし、また次いつ妹の発作が起こるかとピリピリもしていた。
だから、は率先して家事の手伝いもこなしたし、一生懸命勉強もした。手のかからない“良い子”になろうと子どもながらに懸命に努力したのだ。
母がそばにいてくれなくて寂しくて、でも「ひとりでだいじょうぶ」と嘘がつけたときのことが急に蘇った。
母は「そう」としか言ってくれなかったそのときの悲しみをたぶんは大人になった今でも忘れることができずにいる。
その孤独はおそらく一生癒されることはないだろう。
でも、その孤独を抱えていても、こうしてまた違うかたちで違う優しさと出会うこともあるのだと、謙也はは優しく示してくれた。
反射的にじわりと熱くなった目元を誤魔化しながら、「せやけど呼んでくれたら迎えてにいったで」と冗談を言う謙也に「え? 明け方ですよ?」とも笑って応えた。
でも、それもすぐに「せやから困っとったんやろ?」と返されて、謙也は本気で言っているらしいことを悟り、は今度こそ黙ってしまった。
「……でも明け方ですよ?」とがなんとか言葉を絞り出すと、そんなの戸惑いを丸ごと包み込むような笑顔で「次なんかあったときは俺呼んでや。全速力で助けに行ったるで」と謙也は容易く請負ってしまった。
徹夜明けにはまぶしすぎるまっすぐな優しさ。
の中で約束を忘れていた罪悪感が膨らみ、思わず口から「ごめんなさい」と謝罪の言葉が溢れそうになったのをなんとか飲み込んだ。
それは決して謙也のためではなく、許されたいと思う自分のためのものだったからだ。
「やっぱり今日仕切り直してもいいですか?」
「ん?」
「よくよく考えたら私、こんな格好だし、クマひどいし」
待ち合わせに遅れないようにすることに必死で思い至らなかったが、乱れた髪、崩れた化粧、ここに鏡がないことをある意味感謝すべきかもしれない。
さっき白石に「デートか?」と聞かれて「違います」と思わず否定してしまったが、おそらく謙也が“そういうつもり”でいてくれてることはにもわかっていた。
だからこそ、こんな格好で謙也のとなりに並びたくなかった。
「そんなん気にせぇへんで」という謙也には「私が気にするんです。すみません。この埋め合わせは必ずします」と頭を下げた。
謙也に駅のホームまで見送ってもらい、は丸一日ぶりに自宅へ帰った。
眠気はすでに遠のいていたが、いかんせん虚脱感で身体を重かった。
導かれるように床に置かれたマットレスに身体を沈めて目を瞑る。
身体は疲れていても頭は冴えているせいか、の意思とは関係なく無秩序に感情や記憶の断片がぽつぽつと雨粒でアスファルトにできるシミのように浮かんできた。
仁王の遠のく背中、丸井の額の汗、謙也の笑顔、それから白石の冷たい声。
「ほんまに仁王クンとなんもなかったん?」
ふたりっきりのフロアで静かに響いたそれはたやすくを凍らせた。
率直にいえば、嫌われたのだろう、と思う。
まぁ、無理もない。白石から見れば、は酔って好きでもない男と簡単に寝る女だ。
白石は大人だから普段職場では変わらない態度でに接してくれているが、内心ではそんなを軽蔑しているに違いなかった。
「なんにもないですよ」とが答えたところで白石にとっては信憑性ゼロだ。因果応報。自業自得。自分を責める言葉ならいくらでも思いつける。
好きになってほしいなんておこがましいことは考えていなかったけれど、嫌われたくはなかった。
あの日の夜の白石の熱はの身体の表面で今まさに蒸発しかけているところだった。忘れたいことは忘れられず、忘れたくなかったことは案外簡単に忘れてしまう。
は目を閉じて白石が触れた部分に自分の指を這わせた。
湿り気を帯びた吐息が鼻から抜ける。こんなことをしている自分が惨めでしたないのに止まらなかった。
欲望はモグラ叩きによく似ている。
ひょっこりと顔を出した欲望を叩いて解消しても、また次から次へと新しい欲望が顔を出す。永遠に終わらない。満たされることはない。
白石さん、とは妄想の中で白石に呼びかけた。白石さん、白石さん、と。
ハンマーでモグラの頭を叩くように、妄想の中の白石の先端がの奥を突く。
その度、白石さん、白石さん、とは呼びかけ続けるが、妄想の白石は記憶の中の白石と同じくが望んでいることには応えてくれなかった。
カーテンのない部屋はすっぽり闇に覆われていた。
くぐもった携帯のバイブレーションの音が微かに響いている。
誰の声も聞きたくないし、自分が声を出すのも億劫だった。
なのに、はどうしようもない寂しさから、それに手を伸ばしていた。
◇◆◇
「ちゃん、こっちやで〜」
金色に呼び出された店は洒落たビストロだった。肉が焼ける香ばしい匂いを嗅ぎながら、すでに席についている金色の元へ向かう。
「とりあえずシャンパンでも飲みまひょか♡」
「今日ってなんかのお祝い?」
「お祝いやなくてもシャンパンくらいええやん。それともワインにする?」
「ううん、シャンパンでいいよ」
「ほな、カンパ〜イ!」と小さな泡がキラキラと弾ける液体に口をつける。
少し離れた席から「結婚おめでと〜」と聞こえてきて、自然と視線を向けると、より確実に若い女の子が花束やプレゼントを渡されて祝われているところだった。
「ありがとう」と受け取っている女の子の表情はどんな嫉妬や妬みも跳ね返してしまえるほど輝きを放っていた。
金色が「ええわね」と微笑む。もそれに合わせてにっこりと笑った。
相手に倣って同じ表情をすることでその場がなんとなく流れる。がよく使う処世術だった。
前菜に頼んだサラダやパテが運ばれてくる。
各々が好きにそれを自分の皿に移した。前に金色が言ったのだ。「取り分けなんてせんでも自分で好きに食べるから自分もそうしいや」と。
気を使わない、ということが金色に対するの気の使い方だった。
は「今日、一氏さんは?」と話題を振りながら、鮮やかな赤紅色の硬いキャベツを頬張った。
「お笑いライブ行く〜言うとったで」
「一緒に行かなくて一氏さん拗ねたりしないの?」
「同じ家、同じ会社、たまには息抜きくらいさせてちょうだいって話よ」
「確かに」とは笑う。
「それにこういうところはちゃんと来た方が絶対楽しめるやろ。ユウくんやとほら、こういうカラフルなサラダとかにすぐケチ付け出すから恥ずかしいのよ」
「わかる、わかる」とはまた笑った。
金色といる時間は素直に楽める。それは金色がを好きであるということをことあるごとにこうやって言葉や態度ではっきりと示してくれるからだ。
だから、は金色となら安心して向かい合って座ることができた。
パテに手をつけようとしたときに、パァンと風船が割れる音がした。さっきのテーブルだ。
「すみません」と謝る女の子たちに店のウェイター。それをがぼんやりと眺めていると、金色が「ちゃんなんかあった?」と優しい口調だがをすでになにか感じ取っているような口ぶりで問いただしてきた。
「思い悩んどる顔しとるで〜」
「そうかな? 歳かな? やだなぁ」
「まだ二十七やろ」
「そうだね、まだ二十七だね。この先あと何年働かなきゃならないんだろうって考えると酔いも醒めるね」
「結婚して仕事辞めるって時代でもあらへんしね」
「そうだね」とやっぱりは笑ってみせる。
さっきのテーブルではすでに風船が割れたことなんて忘れて楽しく食事やおしゃべりを再開していた。
祝われていた女の子は果たしてこの結婚を期に仕事を辞めるのだろうか。
はそんなことを意味もなく考えてみる。
「ちゃん、誰か好きなひとできた?」
「できない、できない」
「好きなひとおったら楽しいで」
また「そうだね」と笑おうとしたが、は笑えなかった。その代わりに「そうかな?」と呟いていた。
は自分に好きな相手がいたときのことをいくつか思い返してみたが、そのどこにも「そうだね」と心から言える自分は見当たらなかった。
「なんでそう思うん?」
「なんでだろう」
「よお考えてみて」
「今日の小春ちゃん、ちょっといじわる」とが誤魔化そうとすると、「ほら、ちゃんと考えて」と窘められた。
ちゃんと考えて、答えを出すことができたなら、もう少し生きやすくなるのだろうか。
「ちゃん、好きになった瞬間、不幸になることがわかってしまうような恋、したことある?」
「燃えるような恋はしたことないけど、燃やしたくなるような恋ならしたことあるよ」とはおどけてみせる。
「そんなん言うて、どうせ今まで追われる恋ばっかりしてきたんやろ〜」
は苦笑いした。
の恋は金色の言う通り大抵相手から言い寄られて、それをが承諾するパターンばかりだった。
アプローチをされる段階では相手を好きになる。自分を好きな相手を好きになる方が遥かに気持ち的に楽だったからだ。
「最近のちゃん、女の顔になってんで」
は口に入れていたパテをごくりと飲み込んだ。
かつて婚約者につけられた傷は確かに鮮やかな血を流していたはずだ。
その痛みはから思考するこを奪った。それはある意味で自己防衛の本能だった。
けれど、それもずっとは続かない。
傷はいつしか乾き、赤黒い瘡蓋に覆われたのちに、の意思とは関係なく淵から癒えていく。時とは残酷だ。
痛みから解放された健康な細胞は再び性懲りもなく愛という未知なるものを求めはじめた。
いつまでもひとり湖の底で眠るように静かに生きていきたいのに、誰かに愛されたいという欲が細胞分裂するように飛躍的に増えていく。
生きてる限りその繰り返しなのかもしれない。
希望に満ちた絶望だ。
「女ってタフよね」
は黙ってうなづいた。
「ほんまはちゃん、ずっと独りになりたいと思おとったやろ?」
確かにそう思っていた。そう思い込んでいた。でも違った。
「独りになりたいときって独りになったらあかんときやと思うのよ。せやから、荒療治でもユウくんにちゃんのこと頼んだんやけど、正解だったかしら?」
新しい土地で、誰も自分を知らない場所で、金色や一氏、それに財前がいなければ、は癒えていく傷に自ら爪を立ててその痛みに縋って生きていたかもしれない。
自分はまだ傷ついている、血を流している、また新しい恋なんてできっこない。そうやって自分の殻に閉じこもり続けていたに違いない。
は「お肉、食べようっか」とメニューを広げた。
「ほな、今日はじゃんじゃんお肉食べて恋バナしましょ♡ 赤みのお肉はお肌にもええんやで〜♡」
金色がウエイターを呼ぶ。にとってはほとんど丸一日ぶりの食事だ。はいくらでも食べられそうな気がしてくる。
「自分を大切にする権利は誰にでもあるんやで」と金色が教えてくれたことをは忘れずにいたいと思った。