「入らないんスか」と突然背後から声をかけられては飛び上がるほど驚いた。

「え、な、え?」
「そろそろ不審者扱いされて通報されても文句言えへんレベルっスよ」
「不審者!? ていうか、財前くんなんでここに!?」

 財前は向かいのビルの二階を指差した。窓ガラスにはカフェの名前が書かれている。
ばっちりこの通りが見えるであろう窓際にはいくつも椅子が並んでるのがここからでもよく見えた。

「……もしかしてずっと見てた?」
「ずっとかどうかは知らんけど、ここ三十分くらいでアンタがこの通り十五往復くらいしてるんは知ってます」

 はぎゃあと叫びたくなった。
 金色との女子会の次の日。はさっそく行動を起こした。
というのも時間を置けば、きっとまた自分は動かなくなりそうだということを自身が一番よくわかっていたからだ。
とにかく自分がしたいこと、楽しめることを手近なところから試してみよう。
凝り固まってしまっている心を解放する練習みたいなものだ。
そう思っていろいろ思案した結果、コレ、、を思いついたのだが——と今日もう何度も通りかかっているカラオケ店の入口をもう一度見た。

「いや、あの、なんかね、こう久しぶりに大声出したり、歌ったりしたら、ストレス発散になるかなーって、それで……」
「でもいざ独りで入ろ思たら、恥かしなったっつーところっスか」

 は「……ハイ」と素直に認めた。
 目の前で財前がはぁ、と思いっきりため息を吐いた。
かと思ったら、の目の前でそのカラオケ店に入っていく。
「早よしてください」と急かされて、は状況を把握できぬまま財前のあとを慌てて追った。


 財前は部屋に入るなりすぐに曲を入れた。
なんだ財前くんもカラオケしたかったのか、とが納得していると聞き覚えのあるイントロが流れ、マイクを渡された。

「え? 私?」
「アンタ以外誰が歌うねん」
「だって財前くんが入れたじゃん!」
「ほら、もう曲始まっとりますよ」

 財前に促されてはもごもごっと歌い出す。歌唱力に特段自信があるわけでもないので人前で歌うのは気がひけた。
は歌いながら横目で財前の反応をみるが、財前はの歌を聴いてるんだか聴いていないんだかわからない様子で、次々と曲を入れ続けていた。
気がつけばひとりで十曲以上歌わされていた。

「財前くんもなんか歌ってよ」

 そう言ってはマイクを財前に押し付ける。
てっきり拒絶されるかと思ったが、案外すんなり財前は一曲歌ってくれた。
気だるげに歌われた曲はの知らない洋楽だったが、一曲聴き終わるとすぐに「あとでこの曲名教えて」とお願いするほどはその曲を気に入っていた。
 こんな風に打ち解けられたのは、二人の好みが似ているからというのがにとっては大きな理由だった。
音楽の好みだけじゃなく、味の好みや休日の過ごし方、仕事に対する姿勢など、あらゆる点では財前に対して勝手にシンパシーを感じていたし、と違って周りの目を気にすることなくそれを表に示している財前に対して憧れも抱いていた。
 はその外見からか大人しい優等生にみられがちだった。
がなにかを主張するより前に、「ああ、君はそういう子だよね」とカテゴライズされてしまうことを窮屈に感じても、はなにも言うことができなかった。
周りが勝手に抱いたイメージでも壊すのが怖かったし、本当の自分を知ってがっかりされるのも嫌だったからだ。
嫌われるような強い個性なんか自分にはないとわかりつつも、それでもやはり己を出すことはにとって、いつなんどきでも躊躇われることだった。
 けれど、財前のまえではそれが少し違った。
自分の好きなものを否定されないという安心感がを素直にさせていた。
財前といるときのは愛想笑いをする回数がぐんっと減っていた。
 十七時までのフリータイム二時間まるまる歌いきり、財前とはカラオケ店を後にした。

「ん〜〜なんかさすがにちょっと喉痛いかも」
「まぁあんだけ歌えばそうなるんちゃいます」
「付き合わせてごめんね?」

 財前はそれに「別に」とそっぽを向いて応えた。「暇つぶしやし。それにアンタの声、嫌いちゃうんで」
ふと呟かれた財前らしからぬ台詞に動揺してしまったことを悟られぬように咄嗟にはふと目に止まった店を指差して話題を逸らした。

「抹茶だって。あんこだって」
「……そうみたいっスね」
「ドーナツなのに白玉も入ってるって。どういうことだろうね?」
「……食いたいんやったら食いたいって普通に言えばええんちゃいます?」

 が立ち止まった店はドーナツのチェーン店だ。
丁度夏季限定で抹茶を使ったドーナツが出ているらしい。
 は「よし!」と言って財前を連れて店に入った。

「まだ悩んどるんスか」
「待って、すぐ! すぐ決めるから!」
「……どれとどれで迷っとんねん」

 はコレとコレと言って二種類のドーナツを持っていたトングで指さした。
勇んで入っただが、なかなか注文が決められなかった。
どっちも期間限定品。価格はともに百九十八円とこの店では高い方だが、二つ買ってもたかだが五百円以下だ。
二つとも買って食べるという選択肢もあるだろうが、には食べきれる自信がなかった。食べ物を残すという行為も好きじゃない。
は「う〜ん」と頭を悩ませていた。けれど、それはきっと財前とだったからだ。
きっと他の人間とだったら気を使って小ぶりで食べやすいものをさっと選んでいただろう。
 財前がからトングとトレーを奪って、悩んでいた二つともをトレーに乗せた。
そして、「半分こしたらええやろ」と、有無を言わさずレジに並んだ。

「抹茶絶対人気あるのに通常メニューにならないのかなぁ」
「期間限定言うとった方が、客が食いつくんちゃいます?」

「そういうもんかなぁ」と首を傾げながらはドーナツを頬張った。
サクサクの生地の間から生クリームとあんこが顔を出す。口を端からそれが溢れそうになっては慌てて紙ナプキンで拭った。
は財前の視線に気づき、「美味しいよ。たぶん、財前くんも好きな味だと思う」と半分食べたそれを手渡した。
財前が顔に似合わず甘い物、特に和菓子、さらに言えばあんこが入ってる物に目がないことをは知っていた。
「まぁまぁっスね」という財前語をは「美味しい」と訳すことにしている。
 カラオケ店から出てすでに一時間以上過ぎていた。
十八時二十三分。今思えばこんな中途半端な時間にドーナツを食べたいなどというわがままに財前はよく付き合ってくれたなとしみじみ思う。

「今日はありがとうございました」

 別れ際、は財前に改めて丁寧に礼を言った。

「楽しかった。なんか高校生の頃したデートみたいで」

 は今日一日を思い出して気分良くふふふっと笑う。
そんなを見ても財前は仏頂面のままだったが、それはいつものことなのでもことさら気にならなかった。
だから、「じゃあ、また明日ね」と手を振って財前に背を向けた途端、左手首を強く掴まれ、体制を崩したと同時にキスされたということに気づくのに時間をかなり有した。
人通りも多い駅前だったから周囲の視線もある。その証拠に「ヒューヒュー」みたいな下品な野次も飛んできた。
けれど、の耳にも、おそらく財前の耳にもそんなものは届いていなかった。

デート、、、お疲れさまでした」

 財前はそれだけ言うと、ひらりと身を翻しさっさとひとり雑踏の中に紛れていく。
あとに残されたはしばらく呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。そして一足遅れて心臓が早鐘を打った。
 一瞬だけ見えた財前の瞳に映っていたのは強烈な“怒り”の感情だった。
 考えてみれば当然だ。
 は予てから財前に対して——四つも年下だから——と予防線を張っていた。それは、そうでもしなければ自分と財前との距離感を計り間違えそうだったので、自分に対する戒めみたいなものだった。
一緒にいる時間も多くて、好きな音楽や食べ物も似ていて、そばにいて安心できる数少ない相手。
財前はにとってそういう存在だった。
けれどそれはにとっては、だ。
以前一氏が言っていたように、独り身は独り身でも二十三の男の財前と二十七の女のとでは状況がまったく違う。
財前は愛想こそ悪いが、それを補って余りがでるほど、端整な顔立ちをしているし、ああ見えて慣れた相手には優しい。
黙っていても塚本のように若くて可愛らしい子がこれからもいくらでも寄ってくるだろう。
はそんな女の子たちと競い合う自信がなかった。
 “デートみたい”ということは“デートじゃない”ということだ。
私はあなたを恋愛対象と見ていません——としては単なる意思表示のつもりだったが、財前の立場からすればなんとも想っていない相手からわざわざ恋愛対象外宣言をされているなど納得のいかない屈辱を一方的に味わわされてることに近い。
財前の男としてのプライドをはそんなつもりはなくとも傷つけてしまったのかもしれない。
自分のことばかりで相手の気持ちに無関心だった報いだ、とは思った。
 普段、必要以上に周りの顔をうかがっているくせに、肝心なところで取りこぼす。
それは他人の気持ちがうまく想像できていないこと以上に他人そのものに興味がないことがそもそもの原因だった。
「私なんか」、「私なんて」。一見謙遜しているようにみえて、それはベクトルは違えど、精神構造は自己愛ナルシズムそのものだ。
の心がいつも孤独なのは当然の結果だった。
 なのにその一方で、同時にもしかして——と期待してしまっている自分もいることが、さらにの“自分嫌い”に拍車をかけていた。
 今日少しだけ積めた幸せのジェンガは呆気ないくらい簡単に音を立てて崩れた。