ええ子やな。素直にそう思った。

 せやから、言わずにはおれんかった。

「もしもし、俺や。そう。ちゃんとはさっき別れて今自分の駅着いたところや」

 学校にいるであろう千歳に歩きながら電話をかけた。たぶん今なら出てくれるだろうという俺の勘は当たる。

「おまえ、スマホなくすの何回目やねん。ほんまええ加減にせえよ」といつもの愚痴を挟んでから、「……薬、ちゃんと飲んどるんか」と尋ねた。そもそも今日俺が千歳の家に行ったのはそれを確認するのが目的だった。「飲んどる飲んどる」と適当に返されて頭が痛い。

 でも、なにより今言いたいのは……

ちゃん、ええ子やな」

 真面目そうっちゅうか、しっかりしてそうっちゅうか……。おまえとは真逆のタイプや。

「……あの子、なんも知らんのやろ?」

 千歳は俺とちゃんが一緒に帰るのを嫌がっているようにみえた。俺が余計なことをちゃんに話すんじゃないか。それが心配だったんやろ?

「おまえが話す気ないのもわかるし、話したないなら話さんでもええとは思う。せやけど、あの子は──ってちょ、待て、もしもし? もしもし?」

 おいっ! 話の途中や! ってほんまに切りやがった!

 ツーッ、ツーッ、ツーッと通話の切れた無機質な音を聞きながら特大のため息が溢れた。

 俺かてなぁ、ほんまはこんなうるさいこと言いたないねん。言いたないけど、こんなんおまえに言えるの今俺だけやろ?

 なぁ、千歳。おまえ一体何考えとるん?

 はぁ、っと盛大なため息をつきながら歩いていたら、アスファルトの段差に蹴躓いて派手に転んだ。

◇◆◇

 学校へ行けばなんだかんだと偶然にも千里に会えていたのに、この三日間は一度も遭遇していなかった。だから、たかが三日間でもこんなにも不安が募る。何度か千里のスマホに連絡を入れてみようかと悩んだが、時間がたてばたつほど勇気が萎んでいった。「会いたい」。そのシンプルな一言がどうしても打てない。あ、い、た、い。たった四文字なのに。なんでこんなに萎縮してしまうのだろう。恋人相手に。え、あ、待って。わたしたち結局恋人なのか? 器用に誤魔化されたような気もするんだよな。

 正直にいえば、わたしはまだ心のどこかで千里を信じきれていないのだと思う。

 本当にわたしのこと好き?

 いや、本当に好きってそもそもなに?

 「セ」ではじまって「レ」で終わるいやぁな単語がずっと頭をかすめていた。そういうことしたかっただけなのかな。それで、そういうことが済んだからもういいやってなったのかな。

 自分ばかりが彼のことを想っているのだと認めたくなくてそれ以上の思考を脳が勝手にストップさせてしまう。

「え、あれ? 白石くん?」

 学校からの帰り道、ばったり駅前で白石くんと会ったのはさらにその二日後だ。

「あ、えっと、ごめんね。あのね……」
「……千歳と連絡とれてへんのやろ?」
「……うん、そうなの。それで、」
「俺も知らんねん、なんも」

 そっか……とあからさまに沈んでしまったわたしを不憫に思ったのか、白石くんがお茶に誘ってくれた。

 すぐそこの駅ビルの中のドーナッツ屋さん。店内はガラス張りでちょうど学校行きのバス停が見えた。

「あいつ、こういうのしょっちゅうやねん。気にせんでも大丈夫やで」

 オールドファッションとブレンドコーヒーを二つずつ乗せたトレーを白石くんがテーブルまで運んでくれた。さっとわたしの分まで電子マネーで払ってくれてしまったから返そうとしたけど、「ええって。ここは俺のおごり。ちゅうても威張れるほどの額ちゃうけどな」とどこまでもスマートだ。

「白石くんって……下に兄弟いそう」
「おるで、妹。姉ちゃんもおるけどな」
「わぁ、女子に挟まれてる男の子か……大変そう」
「いや、ほんっま大変やで」
「今の『ほんっま』めちゃくちゃ実感こもってた」

 向かい合って笑い合いドーナツを食べた。妹と姉にまつわる彼の苦労話はなかなか面白い。それで若干女性不審でこんなにイケメンなのに彼女がなかなかできないとか。

 いつのまにかコーヒーもなくなって、おかわり自由だったので、二杯目を白石くんが頼んでくれた。

「千歳も妹おるで」

 へぇ……、とわたしが素っ気ない相槌をうったあと、白石くんが「ちゃん頑固やな」と眉尻を下げた。

「え、急になに?」
「ほんまは俺に千歳のこと聞きたくてたまらんって顔しとるで」

 図星を突かれてうっと黙る。そうなのだ。本当は喉から手が出るほどいろいろ聞きだしたい。主に異性関係。中高一緒で仲がよかったなら、今までどんな子とどんな風に付き合っていたとか、どんな風に別れたとか、そういうことを知ってる可能性は高い。そんなの聞きたいに決まってる。でも──

「……白石くん、案外意地悪なんだね」
「すまん。せやけど、こないだから千歳の話すると微妙にスルーするやん?」

 そこまでバレていたのか、ともう苦笑い。なら、もう正直に話そうと観念する。

「本当は知りたいよ。いろいろ知りたい。知って、判断材料にしたい。信じられるかどうか。だって信じて裏切られたらやっぱり悲しいしから、信じて本当に大丈夫なのか安心してから信じたい」
「まあ、せやな」
「でもね、例えば、前にこういう子と付き合っててこういうことしてたとか、してなかったとか、そういう過去を聞いて、それで判断するのってどうなんだろうって。他の子にしなかったからわたしにもしないって保障もないし、逆にしてたからってわたしにもするとは限らないし」

 過去を探って、なにもやましいことがなければ信じられるのか。そして、それはこれからもなにもないと言いきれる確固たる証明になるのか。たぶん無理だ。なら、直視しなければならないのは、過去の彼が他人に対して行ったことじゃない。

「千里ね、わたしの話聞くとき、わたしことずっとちゃんと見ててくれる。いまどきさ、悪気なくてもスマホいじりながらとか、テレビ見ながらとか、しちゃうこともあるでしょ。そういうの全然ないの。たかが、かもしれないけど、日常だからこそそういうところ見逃したくないなって。大事にしたいなってわたしは思ってる」

 わたしは千歳千里という男がどういう人間であるかをきっとまだ全然知らない。生まれ育った環境、家族や友達のこと、好きなもの嫌いなもの、どこでどんな風にこれまでがんばって生きてきたのか。知らないから信じられるか不安になるけど、知ったところでそれはもうわたしが絶対に触れることのできない過去なのだ。

 なら、わたしはわたしのできることをしたい。いま目の前にいる彼を自分自身の眼で見つめていきたいと思った。

「なんて偉そうに言ったけど、本当は“そうありたい”ってだけの理想論。そもそも『信じる』って言葉って、疑ってるときじゃないと出てこないしね。だから、わたしはまだ千里のこと信じられてないんだと思う。信じられてないんだけど、信じたいっていう自分と気持ちと向き合ってみようかなって」

 そうだ。相手は自分の都合で変えることはできない。でも、自分自身なら自分の意思で変わっていくことはできる。

 肩の力を抜いて、リラックスして、まずは、「会いたい」と素直に伝えてみるところからはじめようか。

 その矢先にテーブルに置いてあったわたしのスマホが震えて、ハッとなる。

「あいつのこと頼むな、ちゃん。応援しとるわ」

 画面には彼の名前と〈会いたか〉というシンプルなメッセージが映し出されていた。