白石くんに見送られて、ちょうどバス停に停まっていた学校行きのバスに飛び乗った。

 ガラガラに空いたバスに揺られながら、握っていたスマホの画面を親指で光らせる。新しいメッセージの受信はなかった。わたしが送った〈いまどこ?〉という短いメッセージにはまだ既読マークすらついていない。

 〈会いたか〉なんてメッセージをしてくるくらいだ。おそらく学校か家にいるんだと踏んで、だったらもう駅まで来てしまっているからバスに乗った方が早く戻れるととっさにバスに乗ったけど、勇足だったかもと不安になってくる。そもそもメッセージは〈会いたか〉であって、〈会おう〉ではないのだ。

 バスが学校に着いても千里からの返信はなかった。しかたなく、彼がいそうなところをしらみつぶしに探し歩く。食堂、広場、工芸棟、デザイン棟、もう授業はすべて終わってる時間でも制作で残っている生徒は多い。運悪く、さっきバイバイと別れた友人とも会ってしまい、「忘れ物しちゃった! アハハ!」なんて下手なうそまでついてしまった。そんなことまでしてるのに、見つからないどころか返信もない。家まで行こうか。いや、さすがにアポなし突撃はなし? というかこれはアポなしに含まれるのか? 混乱しかけたところで、ふぅ、と息をついて気持ちを沈めた。いったん、落ち着こう。今日は久しぶりに涼しくて、風が気持ちいい。もっとゆっくり校内を散歩するような気持ちで歩いてみると意外と見つかるかも? コーヒー片手にどこかでのんびり彼からの返信を待ってもいい。

 勝手に期待してからまわって落胆したくなかった。それはきっと向こうも望んでいないと思う。

 のんびりできそうなところと考えてふと、丘の上のはずれにある池を思いだした。そこは大きなすり鉢状の地形になっていて、鉢の底の部分にあたいする場所に池がある。そのまわりは芝生や庭木に囲まれていてほどよく目隠しになっていた。絶好の日向ぼっこスペースである。千里がパンフレット用の画像をわたしに渡しに来たとき、そういえば枯れ草を髪につけていたことを思い出し、直感に導かれるままそこへ向かうと千里は本当にそこにいた。

 大きい図体を芝生に投げ出して呑気に昼寝中。どうりで返信がこないわけだ。

 勘が当たったことで、千里を少しは理解しているような気分になり沈んでいた気持ちが少しだけ軽くなる。

「おはよう」

 千里は上体を起こし、よく寝たとばかりに大きなあくびひとつ、伸びをした。

 彼の顎や口のまわりにはここ数日で生えたらしい無精髭が顔を出していたが、それは全然嫌な感じではなく、むしろ彼の野生的とも言える魅力をより一層引き出してさえいた。ずるいな。文句の一つでも言ってやろうと意気込んでいたのに。“好き”はわたしから簡単に言葉を奪ってしまう。

「はぁ、良か目覚めばい」
「それはそれは」
「ここがよおわかったとね」

 偶然だよ、と答える前に「運命んごたる」と目を細めて微笑む千里に片手で引き寄せられてキスされた。野外な上にここは学校だからと抗議しようかと思ったが、見ているとすれば池の岩でのんきに甲羅を干している亀たちくらいなので、まあいいか、と諦めた。運命。本当にそうならいいのに。

「なにかあった?」
「ん?」
「〈会いたか〉って」

 ああ、と思い出したように千里が自分のポケットを探りだした。なにか取り出して、わたしにくれる。くしゃくしゃになった千円札二枚。あ、なんだ。会いたいって、本当にちゃんと用事があったのか。勝手に期待して勝手に落ち込まないと決めた矢先に湧いた本音がこれで自分が情けない。

「いいよ、千円で。残りは……今後のために下駄の底にでも貼っておきな」
「それ良かね」

 寝そべってる千里のとなりには押し入れに押し込んであった大きなバックパックが投げ出されていた。

 今度の旅ではどうやら財布とスマホは死守できたらしい。

 本当に自由だな、と思う。きっと千里にとってこんなことは日常茶飯事で、気が向いたときに、足が進む先に向かっただけのことなんだろう。いままで通り、これまで通り。わたしだけが変えられていく。わたしの日常にはこんなにも千里の存在が浸透しているのに、千里の世界のどこにもわたしはいないみたいだ。そう思ったら、「……白石くんも心配してたよ」なんて嫌味ったらしい言葉がついて出た。

「あんまり心配かけたらかわいそうだよ」
「あれはああいう性格ばい」

 軽くあしらう感じが気に入らなくて、「千里が心配かけるようなことばっかりしてきたってことでしょ」とキツめの口調で返してしまった。

「なんね。は白石の味方と?」
「味方とかそういうことじゃないけど……」
「よかよか。白石、むしゃんよかけん、しょんなか」
「むしゃ?」
「かっこよかってこつばい」

 千里が大きな手をヒラヒラと動かす。「しょんなか」って。ねぇ、なにがしょうがないの?

「白石の方がには合うとるかもしれんばいね」

 あんまりな発言に理解が追いつかなくて、意味もなく瞬きが増える。

 それからなだめようのない怒りがカッと湧いて、千里を視線でまっすぐ突き刺したつもりだが、千里は気にもとめていない様子でのんびり空を眺めていた。

 だめだ。どんな彼も受け止めたいと思ったのはうそじゃないけど、わたしにはやっぱり無理かもしれない。

 そんなことははじめっからわかっていただろうと言われそうだし、わかっていたつもりだけどたりなかった。わかってる。しょうがない。大人のフリして自分に言い聞かせるつもりだったのに、実際のわたしはまだまだ子供で、自分の感情にうそをつけない。

 突然に立ち上がったわたしを千里が見上げた。なんでも見透かせそうな大きな黒い瞳にやっとわたしが映る。

「ひどい! なんでそんなこと言うの! って言うと思った? 言うよ! なんでそんなひどいこと言うの!」

 わたしの気持ち知ってるくせに! って、ひどい、最悪、最低、きらい、大きらい、ぐちゃぐちゃに溢れてくる感情が涙になってこぼれ出す。

「白石んとこ行くと?」
「行かないよ! 行くわけないでしょ! わたし、そんなに簡単じゃない! 千里を好きになるのすごく勇気がいったのに! だけど、好きでいたいって思ったのに! ひどい! 最悪! 最低! 大きらっ──」

 言い終わる前に千里の大きな手がわたしの腕を掴んで引き寄せた。遠慮のない力に負けて倒れ込む。倒れこんだ拍子に抱きすくめられた。抵抗したが、もちろん力で敵うはずがない。本気で嫌がってるのに、腕の中から抜け出せなくて、自分が力の弱い女であることが嫌になった。これじゃあまるで千里の気持ちを試しただけの駆け引きみたいだ。涙で気を引きたかったわけじゃない。本当にもう無理だって心から思ったんだ。なのに、こうやって抱きしめられて、「泣かんで」と囁かれたら、やっぱり好きだと実感させられて、黙るしかなくなる。惚れた者の負け。わたしは千里に敵わない。

「……わたしが本当に白石くんのとこに行ってもいいって思った?」

 千里の「良かよ」という穏やかな応えが落ちてくる。

「ばってん、俺がのこと好きなんは変わらんばい」

 自分のすきにしろ。俺もすきにする。たぶんそんなシンプルなメッセージ。

 突き放されたと感じなくもない。でも、わたしは許された、と思った。千里はわたしのどんな感情も受け止めようとしてくれている。その無骨な手で、逞しい身体で、大らかな心で。

 涙がまた溢れ出した。うれしくて。しがみついた手に力がこもり、千里の服にシワをつくる。

 千里はわたしが泣き止むまでずっと頭を撫でてくれていた。

 本音を言おうすると涙が溢れそうになるのは以前からだったが、その姿をとりつくろうことなく他者に見せたのはたぶんこれがはじめてだ。

「千里、わたしのこと好きだったんだ」

 感情の波が引いて涙も枯れた頃、さすがに気恥ずかしくなってふざけた口調でそう言えば、「そっこから疑ってたとね? ひどかぁ」って非難されたが、そんな筋合いない。だって、今初めて聞いたし。行動で示していたつもりだったらしいけど、それでも不安になるのが恋愛だと思うから。……違うか。勝手に疑心暗鬼になって追い込まれていただけだ。彼がしてくれたことより、してくれなかったことに目を奪われていた。だめだ。だめだ。リラックス。肩の力を抜いて。わたし、どうしたいんだっけ?

「〈会いたか〉ってメッセージ、すごくうれしかった。わたしも会いたいとき、送ってもいい?」

 勇気を出してわたしがそう言うと、千里は「もうスマホ失くせんばい」と笑ってくれた。