「さ、最近変わったよね」
どきり、としてパソコンから視線を上げると、友人たちの眼がわたしに向けられていた。
今日の通常授業はすべて終わり、今は放課後。でも、予定がなければ、デザイン棟に残ってこうして自主制作を進めることができる。機材や資料がそろっているから、わたしも最近はひとりで部屋にこもって制作するより学校に残ることが多かった。
「肌艶がいいというか……」
「妙に上機嫌というか……」
詰め寄られて「そ、そうかな?」と白を切る。自覚があったわけではないが、それが事実だとして、思い当たることは一つだけだ。
「例の人とうまくいってるんだね」
にこにことズバリ指摘され、わたしは早々に観念して、「……ハイ」と正直に認めた。散々心配をかけたので、この友人たちにはうそをつきたくなかったというのもある。
先日のけんか(というか一方的にわたしが爆発しただけという節も……)を乗り越え、わたしたちはいわゆる恋人同士という関係に落ち着いていた。結局は、文字通り膝を突き合わせて「付き合ってるってことでいいんだよね?」なんて色気のない確かめ方をしてしまったが、返事はちゃんとイエスだった。あっけないくらい簡単に「良かよ」と返されて面食らったくらいだ。言質を取ったからなんだという話だけど、とりあえずの区切りとしてわたしには大切なことだった。千里もそれを汲み取ってくれたのだろう。わたしが大切にしていることを大切にしてくれた……と都合よく解釈しよう。ちなみにこのやりとりはアット学校の近くのラーメン屋だ。わたしもだいぶ肩の力を抜くのがうまくなってきたということかもしれない。
「めっちゃニヤニヤしてる〜。なに思い出してるの? えっちなことだな〜?」
「ち、違いますーっ!」
「でも、もちろんえっちなこともしてるんでしょう?」
このこの〜っと左右から肘でぐりぐりされていじられる。
思い出していたことはほんとにそういうことじゃない。
「えっと、なんか、このまえ、『一緒に住まない?』的なこと言われて……」
えーっ! っとその場が一気にまた盛り上がった。
千里に「一緒に住まんね?」と言われたのは、ほんの数日前のことだった。
「も、もちろん断ったよ!」
「え、なんで?」
「だってわたし独り暮らしすら反対されて、今女子寮なんだよ? 親が許すわけないし。いや、それでね、わたしそのときも馬鹿正直に『親が許さないから無理だと思う』とか答えちゃって……。たぶん、向こうはノリというかそこまで真面目に訊いたわけじゃなくて、『そうだね〜』みたいな返事でよかったのになんか墓穴を掘っちゃったなって……」
今思い出しても恥ずかしい。ひとりで浮かれて舞い上がってテンパって……。そんなわたしを眺めている千里はなんだか満足そうに微笑んでるところまでセットで恥ずかしい。恥ずかしいけど、嬉しかった。幸せだなって実感したんだ。
「なんだ、愚痴とみせかけてただの惚気か!」
「そんな……こともないか。うん、惚気です」
友達が「素直でよろしい」と笑う。
「わたし、このまえ工芸の友達に聞いたんだけどさ、の彼氏最近めっちゃ学校にいるんだって。いや、今までがいなさすぎたってことらしいんだけど。あ、それでね、教授も驚いてて、彼女がいるから学校に来るんだったら、その彼女とは卒業まで絶対に別れるなとまで言ってるらしいよ」
「なにそれウケる。、責任重大じゃん。てか、彼氏、に会いに学校来てるのか。意外とかわいいとこあるね」
「いやいや、さすがにそれはないでしょ」と今度は私が笑った。
「でも、彼氏、確実にに会いにきてるよね? 食堂とか売店とか、が行きそうなとこによくいるし」
「たまたまでしょ?」
「え、たまたまじゃないでしょ? だって売店とかで会ってさ、と話すだけで、なにも買わずに出てくとかあったじゃん」
「あるけど、それはたまたまでしょ? たまたま通りかかって見えたから、話しかけただけ、みたいな」
「そんなたまたまそんなにないよ。あれは確実に狙って会いにきてたって。だって、思い出してごらんよ。よく顔合わすようになったのって、今年の夏休み前くらいから急にって感じじゃない? ほんとに偶然生活パターンが似てて学校で顔合わすならもっと前からよく会ってるでしょ」
「いや、知り合いじゃなかったから今までは気づかなかっただけかなって……」
「あんな目立つひと? わたし、一年のときからと一緒にいること多いけど、最近まであのひと学校で見たことほとんどなかったよ」
えーっと、それはつまりなんだ? わたしばっかり好きで、勝手に空回っていたと思っていた頃から、案外わりと積極的に想われていたの? 「え、、本気で気づいてなかったんだ」って、気づいてなかったよ。というか、それはたぶん本当に違うと思う。千里の気持ちをもう疑っているわけじゃないけど、そんな一生懸命女の子を追いかけるようなタイプじゃないんだって。わたしとは……そう! タイミングなんだと思う。恋に大切なのはフィーリング、タイミング、ハプニング、だっけ? 要はわたしと彼が恋人同士になれたのは運に近い。神様ありがとう! いや、面白半分で恋の矢を放った天使を恨むべきか。
「そんなラブラブカップルは、明日からの連休どこ行くの?」
へ? と返す。すると、そのわたしの返し自体が意外だったようで彼女たちもみんなそろって「へ?」という反応をする。
「……えっと、わたしはバイトですね」
「え? 三日とも?」
「うん」
「あ、でも、夜は会うとか?」
「いや、そんな約束もとくに……。あ! でも、聞いてみようかな! せっかくだし!」
待って待って! とその場で連絡を取ろうとしたわたしにみんなが待ったをかける。
「さ、普段どういうデートしてるの?」
え、と言葉が詰まった。どういうって……。
「一緒に学校から帰ったりしてるよね?」
「うん」
「それで? 彼の家に一緒に行って?」
それでって……。それで、なんとなくご飯を食べたり食べなかったり、お酒を呑んだり呑まなかったり……。そうしてるうちに、距離が近くなって、自然と……。って、そんなにおかしいことじゃないよね?
「いや、おかしくはない。おかしくはないけど、それだけ?」
「あ、小川行ったり、豆よしに行くこともあるよ!」
全部この辺じゃん、と指摘され言葉に詰まる。
ちなみに小川はここの学生御用達のラーメン屋でわたしが千里に交際を確認した場所だ。細麺の豚骨博多ラーメン。味玉が美味しい。豆よしは学校最寄駅のすぐ近くの居酒屋で、こちらは揚げ出し豆腐が絶品で、お酒がすすむ肴も多い。でも、たしかに言われてみればすべて学校ないし彼の家から徒歩圏内。お気楽というかお手軽だ。だからデート感は確かに薄い。
彼女たちが言わんとすることはわかる。「ねぇ、それっていわゆる都合のいい女になってない? 大事にしてもらってる?」って。側からみて心配になるのかもしれない。
「いや、わかるよ? 付き合いたてだとどうしてもそういう風になるの。だってそういうのってわかりやすくカップルになった醍醐味っていうかさ。でも、そればっかりだとねえ?」
「ねぇ?」
「飽きるじゃん。やっぱ。あ、がどうのって話じゃないからね? マンネリ防止とかいってシチュエーションとか変えたりいろいろしてもさ、結局やることは一緒だから飽きちゃうっていうのがどのカップルもいずれは行きつく先じゃない? だから、みんな工夫して飽きないように他のこともするのかなって思ってたんだけど……あれ? これ、わたしだけ?」
わたしに釣られて不安になった友人を別の友人が「わたしもそう思うよ」と肯定する。
「要は打ち上げ花火と線香花火の違いかな? それぞれ違った趣があるから、どっちがいいとは断言できないけど」
それをふむふむと聞いて一番最初に浮かんだ感想は、「どちらにせよ結局いつかは終わるのか」ということだ。はじまることにすら苦労したばかりだから、うっかり見落としていたが、たしかに気持ちを燃やし続けるには“恋”という燃料だけではいささか心許ないのかもしれない。
いままでそれこそ世界中をあれこれ旅してきた彼だ。ひと所に留まるようなタイプじゃないのは明白である。自分の探究心のまま行動できる彼だからこそ、季節が移り変わるのと同じくらいごく自然にわたしのもとから離れていく姿が想像できてしまった。わたしはそのとき──……そんなことを考えていると、タイミングよくスマホが光った。
手の繋ぎ方が変わったのはいつからだろう。ただ単に手のひらを合わせるんじゃなくて、指と指を絡ませて合う恋人繋ぎ。千里は手も大きいから、指と指の間が少し痛いのだけど、それも含めて彼を感じられてわたしは彼と手を繋ぐのが好きだった。だけど、今夜はそれすらも居心地が悪い。変に意識すると顔や態度に出る自覚があるので、極力気にしないように努めるが、案の定部屋に着く頃に「気分じゃなか?」と言い当てられた。千里はこういう勘がものすごく鋭い。でも、「ううん。そんなことないよ」と笑ってごまかして千里の部屋の軽い扉を率先して開けた。
わたしのバイトはレストランのホールで、明日のバイトは夜からだ。それまでどこか行くこともできる。思い切って誘ってみようか。でも、どこに? と初歩的な問題にすぐにぶち当たる。あぁ、なんだかお腹が痛くなってきた。嫌だな、と思いながらトイレを借りると──。
「ごめん、やっぱり今日は帰るね」
買ってきた乾物のおつまみと彼の実家から送られてきた一升瓶を開けてしばし楽しんで、いい頃合いを見はからって、自然にそう告げた。自然に。眼は見れなかったけど。
「どぎゃんしたと?」
「えっと、やらなきゃいけない課題残ってたの忘れてたなって」
「珍しかね。ここでしても良かよ」
「でも、資料とか、材料が家だから」
千里の視線がわたしのつむじあたりに注がれているのがわかるから顔を上げられない。耐えられなくなって、結局わたしは、「生理になっちゃって……」と蚊が鳴くような声でつぶやいた。こんなことならサラッと最初から言えばよかったと後悔してももう遅い。
「具合悪か?」
「ううん。いや、ちょっとお腹いたいかな。だから、今日は……」
言いかけたわたしに一度立ち上がった千里が毛布をかけてくれた。
「そんなら泊まってけば良か」
ぽんぽん、と頭の上に置かれた手のひらの重さが優しい。
だからついつい甘えてしまう。
カランコロンと耳に優しい下駄の音を聞きながら、手を繋いで暗い坂道を下る。歩くひとはわたしたちの他誰もいなくて、ときどき車とすれ違うのみ。金木犀の香りが風に運ばれてどこからともなくやってきて、あたりを見回したけど、オレンジ色のかわいい花はどこにも見当たらなかった。
彼の家から一番近いコンビニまでは歩いて十分弱。夜のさんぽ。必要なものを買いに行きたいと言い出さなくても、千里の方から「酔い覚ましに歩かん?」と連れ出してくれた。手慣れすぎてるともとれる優しさを今日は素直に受け取る自信がない。
「千里、当たり前だけど、今日はそういうことしないからね」
前を向いたまま宣言する。しない、というか、できない。いや、わたしの都合と意思なので、やっぱりしないが正しいか。
「は俺のことなんだと思っとっと?」
う〜ん……。答えられずいると、はぁとため息をつかれて「ひどかあ」と責められる。
千里にとってわたしとのセックスってなんなんだろう? わたしの意思を尊重してくれるのはもちろんうれしいけど、しないでも平気と言われるとちょっと傷つく。あ、今わたし最高にめんどくさい女だな。
「友だちがね、こういうとき、彼氏に『口でして』って言われたんだって」
そう言われた友人は目の前にあった目覚まし時計でその彼氏を容赦なく殴ったらしい。武闘派だ。
その話を聞いたとき、怒って当然だと思った。殴るのはよくないけど。なんならそんな身勝手な男、早く別れた方がいいよとさえ思った。
でも、いま目の前で千里に同じことを求められたら、断れるか自信がない。
「……千里はしてほしい?」
「はしたか?」
逆に聞き返されて答えがでない。答えなんてないから当然か。答えは自分が決めないと決まらない。
「ね、コンビニ、近くのじゃなくて駅の方まで行ってもいい?」
「ん?」
「てゆーかこのままもう少し歩いてもいい?」
並んで歩くわたしたちをバスが追い抜いた。
バスに乗ればあっという間に終わってしまうこの時間を惜しむように手を繋いで一緒に歩くことをわたしは愛だと思うのだ。“恋”が必ず終わるものなら、それを“愛”に変えればいい。そういうことにならないだろうか。
「寒くなか?」
大丈夫、と応えたわたしに、不意に立ち止まった千里が大きな身体を折って軽くキスをした。切れ長な眼がわたしを捉えたまま緩やかな弧を描き、愛おしいと語りかけてくる。
また、来年も、再来年も、その先も、ずっとふたりで一緒に歩き続けられますように。
願いを込めて大きな手をぎゅっと握り返した。