ソメイヨシノが春の嵐で無慈悲に一掃されたあと、丘の上の八重桜は控えめな色合いのふっくらとした花を咲かせはじめた。
この桜を見るのも今年が最後かと思えば感慨深い。四年間あっという間だった。そんなセンチメンタルな気分でデザイン棟の玄関をくぐる。
微妙に薄暗い四年生ブースにはいつものメンバー。卒業制作展実行委員の集まりと称したそれは今はほとんどお遊びのお茶会だ。だって、そもそもまずそこに置く卒業制作自体まだ影も形もなく頭の中にすらないのだ。今決められることといえば、会場をどこにするかとかそんなことくらいである。
集まった子の中にリクルートスーツの子がいた。面接後そのまま学校へ来たらしい。「手応えなし!」とはんばヤケになってテーブルに突っ伏しているその手にはパック酒が握られていた。チョイスだけがベテラン社会人だ。というかおじさん。
ここに集まった子のほとんどは就職先が決まっていない。だってまだ四月である。決まっているのはよっぽど大手企業に決まった子のみ。
「コーヒー飲む?」とさりげなく声をかけてみんなの弛緩した脳をさりげなく切り替えようとしてくれる議長は、その大手に就職を決めた数少ない一人だ。優秀なのは周知。しっかり者で、きっちりした性格も企業向きだと思う。同じ会社をわたしも受けていたが、実技課題で落ちていた。ただそんなことはここでは関係ない。気を使わせないためにも、自分の心の平和のためにも、その事実はいったん忘れて席に座ってコーヒーをもらった。
「それで会場候補なんだけど……」
議長が話しはじめたかと思ったら、不自然に固まった。え? なに? とみんなが彼女の視線の先を振り返ると、ぎょっとする。大男、もとい千里がひらひらと手を振りながらこちらに向かって歩いてきてるところだった。あわてて駆け寄る。
その科その科で学生たちには特色がある。だから別の科の人間が自分たちのテリトリーに入ると一発でわかるのだ。千里はデザイン棟でものすごく浮いていた。
「え、どうしたの? またお財布でも落とした? それともスマホ?」
「どっちもあるとよ」
じゃあなぜ、と口を開く前に「うち来んねって誘いにきたばい」と笑みを向けられた。
「それこそLINEでいいのに」
「直接の方が早くて良か」
そうか? と疑問に思いつつ、あとで会う約束をして早々に千里をデザイン棟から追い出した。
みんなのところに戻ると好奇の視線がわたしに一点集中。それを適当に流し、本来の議題に力づくで戻した。
「なぁ、俺のことなんか言った?」
それでもめげなかったとなりの男子がわたしにこそっと声かけてくる。意味がわからない。
ただ、「なんかさっきすっげぇおっかねぇ顔で睨まれてた気がする」と震え上がっているので、それはちゃんと誤解を解いておいた。
勘違いさせやすい見た目をしているが、今は(昔は知らない)特段ヤンキーではないので、理由がなければ突然ひとを殴ったりはしないよ、と。「いや、理由があってもダメだろ」と言われてごもっとも。おしゃべりついでに「あ、そういえばこの前のソフトクリームの写真消しておいてよね」と付け加えておいた。
慣れないことはするもんじゃない。でも、なにもしなければずっと慣れないままだ。練習は大切。わたしに足りないのはシンプルに練習量である。
「ごめんね……」と項垂れると、「よかよか」と本当に気にしていない様子でカラッとした返事が返ってきた。
いつも即席麺じゃ味気ないし、健康面も心配。わたしなりに気を効かせたつもりだった手料理は、もちゃもちゃとした不快な食感の脂っこくて所々が焦げた肉野菜炒めもどきになった。ギリギリ食べられないこともないが、確実においしくない。「千里は食べなくてもいいからね」と責任をすべて自分で引き受けようとしたが、肉野菜炒めが乗った皿はふたりの真ん中に置かれ、千里はそれを平然とパクパク口に運んだ。そういえばはじめてこの家に来たとき出してくれたラーメンもかなり伸びていてお世辞にもおいしいとは言えないしろものだったが、千里は気にしてる様子はなかった。酒のつまみにはそれなりにこだわりというか好みはあるようだけど、それ以外はほとんど興味がないのかもしれない。
だとしても、うれしかった。千里の優しさは肩に力が入っていないから、とても自然で、それがわたしをとても安心させる。
また一口肉野菜もどきを口にいれた千里と眼が合った。にこっと笑われる。
「……千里ってさ、ひとのことじっと見る癖あるよね。それで眼が合うとにこって笑うよね」
「それがどぎゃんしたと?」
「あんまり誰彼構わずしない方がいいと思う」
昼間千里がデザイン棟にやってきたとき、わたしのとなりにいた男子は睨まれたと怯えたが、一方で一番最初に千里に気づいた議長は恥ずかしそうに頬を染めた。千里の視線は見る角度によってその作用が微妙に異なるのかもしれない。
「特に女の子相手」と付け加えると、千里はわたしの本音を見透かしたようにニヤッと笑ってから「別に他意はなかよ」とわたしの方に寄ってくる。
「は逸らさんね」
切れ長の眼がいとも容易くわたしを捕まえた。
恥ずかしい、どうしよう、いまだに戸惑う。わたしだってその視線から逃げたくなるけど、ぐっとこらえて受けて立った。全部千里のいいように負かされるのは面白くない。なけなしの意地を張り、精一杯虚勢を保つ。でも、同時にそのハリボテを早く剥がしてほしいと願ってもいた。矛盾。
ふと、はじめてこの部屋に来た夜のことを思い出した。
至近距離で眼が合って死ぬほどドキドキしていたのに、それを笑ってごまかした幼稚なわたし。聡い千里はそんな私の心の内を話すまでもなく視線だけで理解して、無理には踏み込んではこなかった。そういうところが焦ったくて癖になる。
「最初、千里はわたしに全然興味ないのかと思った」
「そぎゃんこつなかよ?」
「でも、全然手出してこなかったよね」
「出してもよかったと?」と問われ改めて考える。そして、「……ダメかも。初手でいきなり距離詰められたら怖すぎて逃げてたかも」と正直に答えると、「俺の見立ては正しかったばい」と大きな口で笑われた。愉快そうにしなった目元がうっすら開いてギラッと濡れた瞳がまたわたしを捕まえる。
「今はもっと触ってほしかて思うとるやろ?」
千里の手がわたしの頬に触れ、甘い痺れが全身に伝わった。
もう目の前には千里の形のいい唇があった。
「ご、ごはん食べ終わったら!」
あぶないあぶない。あやうくまた千里のペースに呑まれるところだった。
なんとか理性を取り戻して千里を押し返すと、「は厳しか」と千里が子供のように口を尖らせながらも自分の元いた場所に戻った。
一緒に暮らしはじめたら、毎日こんな幸せが続くのだろうか。そんなわけないか。いつか色褪せて日常になっていくに違いない。
でも、その日常もきっと愛おしいと思う。五年先も、十年先もずっとこうしていたい。千里といたい。夢だ。夢みたいに幸せだから、夢にしないためにも早く就職を決めたいと改めて思った。
肉野菜炒めもどきの皿はちゃんと空になった。次こそはもっとおいしく作ろうと決意する。
また日中部屋の窓を開けっぱなしにしていたのだろう。布団のうえに薄紅色の花弁がひとひら迷い込んでいるのを見つけた。
それをパクッと口に入れて、わたしは千里に自分からキスをした。
出逢って一年。
「さっきの続き、してもいいよ」
わたしたちの関係は変わった。同じ春は二度と来ない。だから大切にしたいと思った。