あれから千里とは逢っていない。
就活が忙しくて、卒制が忙しくて、バイトが忙しくて……全部言い訳だ。早く謝らなきゃ。「ごめんね」って。そしたら、きっと千里は「良かよ」って笑って許してくれる。……だといいな。時間がたてばたつほどこわくなって、気がつけばあれから三日が過ぎていた。もう夏休みで偶然学校で会うこともない。やっとの思いでかけた電話も繋がらなかった。時間をおいて、日をおいて、かけなおしてみたけど、繋がらない。ダメもとで〈会いたい〉、そう送ってみたけど既読もつかない。またどこか異国の地でスマホをなくしたのだろうか。わたしがあげた鈴は役に立たなかったのかもしれない。きっとそうだ。絶対そう。自分に言い聞かせているうちに夏休みが明けた。
新学期がはじまって就活は落ち着いていた。このタイミングまで決まっていない組はもういったん諦めて、卒制に集中しようという流れだ。不思議なもので二月や三月卒業ギリギリに就職が決まるひとも少なくないらしい。もしそこでもダメなら院へ行くか、なんて半分冗談、半分強がりで言っているひともいる。たしかに企業の募集はあらかた締め切られていた。あとは小規模な個人事務所かベンチャー系に切り捨て覚悟で飛び込んでいくしかない。気が重い。でも、最後まで足掻こう。格好悪くても、みっともなくても、これからを自分の脚で歩いていくために。
卒業制作展の集まりでいつものように四年生ブースに集まっていると、友人がひとり暗い顔で現れた。わたしの顔を見て、「ちょっと」と手招きし、みんなから距離をとった。
「あのさ、落ち着いてきいてほしいんだけど」
「え、なに?」
「、まだあの人と付き合ってるよね?」
一呼吸置いてから「……うん」と弱々しく返した。友人ははぁ、と息をはく。
「じゃあさ、学校辞めたのは知ってる?」
ガツンッと石膏像で頭を殴られたような衝撃が走った。理解が追いつかない。気がつくとわたしはぎゅっと痛いくらい手を握りしめ、息を止めていた。
「さっき、工芸科の子から聞いたの。ちゃんと学生課で確かめたって言ってたからうそじゃないと思う。工芸科でも騒ぎになってるみたい」
ごめん、そう断ってから走った。吹き抜けの階段を降りて、外へ出て、そのまま門を抜けて、坂を駆け降りる。いつもはふたりで手を繋いでいた道を独りで走った。まだ外は夏の名残を残していて蒸し暑い。吹き出す汗もそのままで、とにかく走った。
千里の家にはすぐついた。
相変わらずとなりの建物の影に入りっぱなしのアパートは薄暗い。
一番左の角部屋の表札もなにもない薄い扉のドアノブを掴み引いた。すんなり開く。あいかわらず千里は鍵をかけていないのか、と思ったけど、そうじゃなかった。
「……な、んで」
敷きっぱなしの煎餅布団、部屋のあちこちに積まれた分厚い本、ちゃぶ台、冷蔵庫、この部屋にあったはずのものがなにもなくなっていた。
あるのはカーテンレースに置き去りにされたように残っている風鈴だけ。
へなへな、とその場に崩れ落ちる。なんで、なんで、なんで。泣きながら電話をかけた。
◇◆◇
その名前をディスプレイで見たときから嫌な予感がした。彼女から電話がかかってきたのははじめてだ。おそるおそる「もしもし」と通話に出ると受話器越しに聞こえたのはしゃくりあげる声。
「し、しらいしくん……」
永遠に来なければいいと願っていたときが来てしまったのだと悟った。
俺が千歳の秘密を知ったのは、三年前の冬、千歳が何の前触れもなくふらりと俺の前に現れて、「酒でも一緒に呑まんね」と誘ってきた日がきっかけだ。真冬だというのに相変わらず足元は素足に下駄。見てるこっちが寒いちゅうねん。
「ほんで? ほんまの理由はなんや?」
おまえの魂胆なんてお見通しやでと睨みを利かせると、観念したらしい千歳が「金ば貸してほしか」とへらりと笑った。そんなことだろうと思った。
「おまえ、財布落とすの何回目やねん!」
GPSでも付けとけと思ったが、それを追うことのできるスマホすら千歳はすぐなくすので無意味な提案だった。
財布から千円札を数枚出しかけてやめた。「今日はしゃあないから奢ったるわ」と定食屋に連行する。どうせ碌なもん食うてないんやろ? ここの定食屋、安くてうまいんやで、と。
「ハ? おまえ、今年も休学しとったん? 去年もしとったやろ?」
千歳の放浪癖は相変わらず、というかスケールを増していて、いまやワールドワイドになっていた。マレーシアやインドネシア、それからタイにトルコにスペインに? おまえどんだけ自由やねんって居酒屋でビール片手に土産話を聞く。行くつもりだった定食屋は定休日だった。あー……と項垂れる俺をよそに「どこでもよかよ」と千歳が笑い、「こっちゃんでよかばい」と俺の意見も聞かずどう考えても居酒屋の暖簾をくぐった。そして、今に至る。
「おまえ、卒業する気あるんか?」
「できたら良かね」
親御さんが聞いたら泣くかもしれないと危ぶんだが、もう諦めてる可能性の方が高いなと思った。社会の枠組みに囚われない自由な発想が千歳の創造を支えているのなら、もう俺がとやかく言う筋合いもない。どうやったって俺にはそんな生き方は無理だが、たまにこうしてその瑞々しい感性に触れるのは純粋に楽しかった。それに大阪から上京して三年。やっぱり昔馴染みの友人と会えるのは、今でも嬉しいのだ。それは千歳も同じなのか、俺以上にグラスの減りが早い。
「あー……すまん、水くれ……」
しかし、結果的に見事に潰れたのは俺だけだった。
ザルを越えて枠の千歳に付き合って調子に乗って飲んだ俺が悪かった。気がつくと、「白石もまだまだお子様ごたる」なんて笑われながら千歳の部屋で介抱されていた。はぁ、隙間風が冷たいが、酔って熱った身体には気持ちがいい。畳の上に転がされて、目をつぶる。しばらくそうしていると、出汁とスパイスの混ざった香りが漂ってきた。起き上がってキッチンまでのそのそ歩く。案の定千歳は即席ラーメンを作っていた。
「おまえ、ほんまそればっかりやな。身体壊すで」
「白石は食わん?」
「食うけど!」
呑んだ後でほどよく腹は空いていた。〆のラーメンは背徳の味やな、と思いつつ千歳に言われた通り、シンク下の戸棚から丼皿を探す。ふと、そのとき自分にとってはよく見知ったものが調味料の奥にいくつか押し込まれているのが目についた。普段の俺なら勝手にそんなことしないだろうけど、このときはまだ酔いが残っていたし、好奇心というか勘みたいなものが勝手に俺の身体を動かしていた。千歳が気づいていないであろううちにそのもの──白い紙袋──に書かれている文字をさっと読む。
「皿ば、早う」
「あ、すまんすまん」
いや、俺の勘違いかもしれない。きっとそうだ。そうであってほしい。
そう願いながら、俺は後日そのとき読んで覚えた文字の羅列を大学の研究室で調べた。コルチコステロイド、ホマトロピン、これのほかに確か免疫の働きを抑える薬もあった。そうやって何種類か薬の薬効と千歳の過去を照らし合わせるとどうしても一つの結論に辿りつく。
「なぁ、千歳。おまえ、もしかして眼悪くなってるんとちゃうか?」
貸した金を返してもらうという口実で千歳に会いに行ったときに問い詰めた。
「なんね今更」
「今更ちゃうねん、昔の話やなくて、今現在進行形で悪くなってるんとちゃうかって聞いとんねん」
しらを切ろうとする千歳に薬のこと調べたと突きつける。伊達に薬学部ちゃうねんぞって。言い逃れできないと悟った千歳が「面倒な奴にバレたばい」と苦笑いしながら頭を掻いた。なんやねん、その態度。おまえ自身の身体のことなんやで! と怒りがわく。最悪将来失明のおそれもあるというのになんでそんなに飄々としていられるのかわからない。「しょんなか」っておまえのその諦めの良さはなんなん?
そこでハッとなった。千歳が世界を見て歩く理由。いまのうちに、ってそういうことなん?
「……頼むから処方された薬はちゃんと飲んでくれ」
あのとき見た白い紙袋に入っていた薬はゴムで束ねられたまま手を付けた様子がなかった。
もう自分の運命を受け入れてしまっているらしい千歳に俺はそれ以上の言葉をかけられなかった。
ちゃんと初めて会った数日後、俺は千歳の部屋を訪ねた。ドアノブを捻ると、いつも通り軽い手応えのうちすんなり開く。鍵がかかっていたことの方がイレギュラーなのだ。
無人とわかりつつ、「入るで」とひと声かけてから靴を揃えて部屋に上がった。あたりを見回して、いつも開けっぱなしの押し入れにつっこまれていた小汚いバックパックがないことにすぐに気がつく。それから、すぐにキッチン上の天袋の一番上の段に手を伸ばした。紙袋の端に手が触れ、バラバラっと中身が降ってくる。それはほとんど飲まれた形跡のない処方されたままの薬だった。
「あんのアホ……っ!」
またも嫌な予感が的中して、天を仰いだ。
ダメ元でしばらく家主を待ったが、五時を知らせるメロディが鳴っても下駄の音は聞こえてこなかった。
こんなとき、誰かに愚痴を吐き出せれば楽なのかもしれないがそうもいかなかった。千歳の病気のことを知っているのはおそらく自分しかいない。橘とは今でも変わらず仲がいいようだが、原因が原因だけに彼に打ち明けているとは考えづらかった。
なぁ、千歳。おまえもほんまはつらいんちゃう? 自分ひとりで抱え切るには重すぎるで、その運命。せやから、誰かに癒してほしくて、つい手が伸びたんやろ? それは別にいい。けど、あの子はダメなんちゃうか。
ちゃんは良くも悪くも普通の子に見えた。そんな子が千歳と付き合ってどうなるか。怒るか、泣くか、その両方か。適当にその場しのぎで付き合うってタイプの女の子には見えなかった。そんな子傷つけて、結局はおまえも傷つくんちゃうか?
そんなことをぐるぐる考えながら駅まで歩いた。地味に遠い。やっと最寄駅まで着き、改札口を通ろうとしたときに声をかけられた。こんなときにまた逆ナンか。勘弁してくれ。俺は今それどころやないねん。
「え、あれ? 白石くん?」
肩を叩かれれても無視しようと思ったのに、名前を呼ばれたから思わず振り返ってしまった。
そこにいたのはちゃんだった。
「あ、えっと、ごめんね。あのね……」
千歳と連絡とれてへんのやろ? とズバリ当てると、ちゃんは心細そうな声で、「そうなの」とうつむいた。
あのとき、ちゃんと話していればこのふたりの結末はなにか変化はあったのだろうか。
◇◆◇
駅から走って家に着く頃にはもう陽が傾きかけていた。日陰は肌寒い。
ちゃんがアパートの扉の前でうずくまってるのを見つけて慌てて駆け寄ると、ちゃんも俺に気付き、立ち上がって俺にしがみついた。
「千里どこ行ったかわかった?」
泣き腫らしていたちゃんに申し訳ないが、うそもつけないので、首を横に振った。
「さっきあいつの実家にも電話したんやけど、なんも知らんって」
そんな、と呟いてちゃんはその場にへたりこむ。
薄手の半袖しか着ていなかった彼女は寒そうで、かばんにしまっていたカーディガンを引っ張り出して肩にかけてあげた。
待っても待っても千歳は帰ってこない。わかっていた。たぶんちゃんも。でもちゃんはしばらくしても決してそこから動こうとしなかった。
「ちゃん、帰ろう」
「いやだ」
「いやでも、いったん」
「白石くんは帰っていいよ」
ホンマに頑固やな。そして結構自分勝手だ。はぁとため息をついて俺は立ち上がった。
そして、コンビニで食べ物を買って戻ってくる。おにぎりにサラダチキンにバナナと牛乳。無茶苦茶なチョイスだけど栄養のことはちゃんと考えた。ちゃんは前に会ったときより痩せていて、とにかくなにか食べさせてあげなきゃと思ったのだ。
「……帰ったのかと思った」
「女の子一人残して帰らんで。ほら、食べ」
いらない、と言いかけたちゃんの腹の虫が鳴いた。ちゃんが黙り込む。
「前にもあったなこんなこと。千里、吹き出して頭机に打つけてた」
それどんな状況やねんってツッコミが喉まで出かかったが飲み込んだ。ただ黙って二人で静かに冷たいご飯を胃に詰めた。
他の部屋から聞こえてくる空々しいテレビの笑い声、何か落ちて割れた音、子供の泣き声と大人の叱る声、いくつもの生活音が不協和音になって耳に届く。
「ちゃん」
聞こえているはずなのにちゃんは反応をしない。
「ちゃんっ!」
辛抱強く呼び続けると、「うるさい」と怒られた。
「ほっといて」
「ほっとけるわけないやろこの状況で」
ちゃんの腕を取って強引に引き上げた。ちゃんは泣きながらいやだいやだと子供のように駄々をこねる。「うるせーっ警察呼ぶぞっ!」とどこかから叫ばれた。ほどなくして本当に警察を呼ばれて、二人そろって注意を受ける。こんな遅くにこんなところで痴話喧嘩はやめなさい。痴話喧嘩ちゃいますと喉まで出かかったが、さすがに飲み込んだのに、となりのちゃんが「彼氏、このひとじゃない」と泣き出したせいで、「え? どういうこと?」と俺が怪しまれるしまつ。ほんま勘弁してくれ。
誤解を解き終わる頃にはちゃんもだいぶ落ち着いたようで、駅の近くの交番へ帰るというおまわりさんと一緒に三人で駅へ向かって歩いた。交番前でおまわりさんと分かれ、ちゃんと駅のホームへ向かう。まだ終電前でよかった。先に来た俺が乗る方の電車を一本見送り、ちゃんの乗る方の電車を待つ。
「ちゃんと乗るところまできっちり見送るで」
じゃないとちゃんはまたあのアパートに戻るような気がした。
「……白石くんって意地悪だね」
それみたことか。戻る気マンマンやないかい。
ちゃんが乗る方の電車がホームに滑り込む。案外すんなりちゃんは電車に乗ってくれた。
「また」と言いかけて黙って見送った。
俺が最後まで千歳の秘密を言わなかったことにたぶん彼女は気づいていながら責めなかった。本当に頑固な子だ。頑固で自分勝手で、でも優しい。千歳にはもったいないくらいいい子だった。