掴んでいた、掴みかけていた、そう思っていたものが簡単に指の隙間から砂のように溢れ落ちていく。

 暗い診察室で医者が俺の眼球にさっと光を当てた。もう結果は出ていてそれを念の為確認するような形式的な診察だった。

「外傷を受けたのは五年前で間違いありませんね」
「はい」
「今回症状が出ているはそのときとは逆の眼」
「はい」
「稀に外傷を受けてから時間を置いて反対の眼球が炎症を起こすことがあります。自己免疫反応で……」

 先生、と呼びかけて話を遮った。

「治ると?」

 医者がかけていた眼鏡を直す仕草で視線を俺から外す。

「治療しましょう」

 ずいぶん素直な医者だな、と笑えた。

 桔平のことはもちろん恨んでいない。そもそも桔平がいなければテニスをしていたかすらあやしいのだから、感謝こそすれそこに遺恨はなかった。むしろあのときどんなことをしてでも俺に勝ちたいと思って闘ってくれたことに誇りすら感じる。それにあの怪我がなければ、俺はここまで深くテニスに向き合うことはなかっただろう。確かに右目の視力を失いはしたが、それを補うためした試行錯誤は俺のテニスをさらに高みへと昇らせた。だから、もう大丈夫。そう親友に伝えることもできた。

 自然と息をつく。ほっとしている自分に気づき、静かに驚いた。俺は知らず知らずのうちに重い荷物を背負いこんでいたらしい。らしくない。この先はもっと自由に、こだわらず生きていこう。なのに、再びテニスバッグを担ぎなおしていたのは、いつの間にかこの重みが俺の一部になっていたからだ。

 高校三年間。こうるさい白石のもと、俺はテニスに明け暮れた。もっと、もっと、もっとその先が知りたい。対戦選手をすり抜けて、いつも自分自身の限界と闘っていた。

 新しい扉を開けるたびに得られる興奮は麻薬に等しい。

 才気煥発が外れるようになったのは、高校最後の年に入ってしばらくしてからのことだった。小さな違和感が確かなものになってひたひたと俺に忍び寄る。

 ここまでか、と進む脚が自然と止まった。

 もう目の前の扉を開けることができないのなら、別の道を歩もう。

 そう思ったとき、なんとなく子どもの頃触れた土の感触を思い出した。陶芸家だった父が気まぐれに触らせてくれたひんやりとした粘土の感触。父がぼそっと呟いた「うまいな」という言葉。父に褒められたのはあれが最初で最後だった。

 テニスラケットしか握ってこなかった手は肉刺のせいでゴツゴツと固い。けれど、ぐっと力をいれて指を伸ばすとあらかたのものは掴みとれそうなほど大きかった。父親譲りの逞しい手だ。

 芸術の世界はそれなりに面白く、探究のしがいがあった。ただ、大学は退屈で、ときどき無性にどこか遠くへ行きたくなる。衝動のままに飛行機に飛び乗った。それでも案外どうにかなるもので、それが癖になり、欠席が増え、当然留年となり、電話越しに妹に叱られた。

 と出逢ったのもそういう日々のうちだった。

 最初に顔を合わせたときの印象は……正直覚えていない。ただ、しっかり眼を見て話した日なら覚えている。いつのまにか決められていた有志の展覧会出品に必要だからと頼まれていた過去の作品の写真やプロフィールデータやらを届けに行った夜のことだ。

 間に合わない間に合わないと一人必死な姿はまるで回し車をガラガラと一心に駆けるハムスター。かわいらしい見た目とは裏腹にそのあまりの鬼気迫る様子に話しかけるのも躊躇われるほど。実際、作業中は俺が話しかけても返事はなかった。一つのことにこんなに注力できることを純粋に尊敬する。

 パソコン画面相手に百面相する彼女は見ていて飽きなかった。緊張が解けて緩んだ笑顔の彼女が言った「いいな。わたし、千歳くんの眼になりたい」という言葉が妙に心に残って、それから珍しく時間をかけて彼女との距離を自分から詰めた。

 俺に興味を示す女は経験上大きく分けて二パターン。最初から俺を疑い必要以上に距離を取ろうとするタイプと俺を理解している気になって同類を装って自ら近づいてくるタイプ。

 はそのどちらとも違っていた。

 一つずつ丁寧に慎重に積み木を積んでいくかのごとく関係を構築していくタイプ。一つ一つ確かめるようにそっと積み上げられていく信頼という名の積み木がとても新鮮だった。

 疑う心も信じる心もの中に等しく存在する。そのどちらの心の声にもじっと耳をすませて聞くことができるは強い。

 向けられる笑顔が増えるたび、彼女に惹きつけられる。心が彼女で埋め尽くされていった。胸の中に花が咲く。だが、美しい光景なのに侘しくなるのは、花がいつか枯れるものだと知っているからだ。

 こんなはずじゃなかった。

 なんて女々しい言葉だろう。

 だけど、それが素直な感想だ。

 いや、違う。こんなはずじゃなかったとは、未来を想定して動いていた場合に出る言葉だ。じゃあ、何も考えず“今だけ”を生きていた自分には当てはまらない。

 踏みとどまるタイミングならいくらでもあった。

 あのとき、あのとき、あのとき。

 ──『好き』って言って?

 疑いの果てに出た悲鳴じゃない。期待に満ちて潤んだ双眸が暗闇の中で輝いて俺をまっすぐ貫いた。

 愛しているなんて言葉が自分の口から溢れたことに驚いた。自分の中にもそんなものがあったのか。すっかり信頼されているというのはこんなにも心地よいものなのか。

 手放したくない、と本気で思った。

 変わらぬものなどありはしないのに。自分を縛るものなどいらないと思って生きてきたのに。

 ──千里の未来にわたしはいる?

 俺に未来はない。あるのは今だけ。そういう生き方しかできない。

 潮時だった。

 本当はずっと一緒にいたかったけど、これ以上の未来に侵食したらバチが当たる。

 、──

 白い紙に突き立てた鉛筆を置く。結局なんの言葉も残せなかった。

 今いなくなれば、俺はなんの前触れもなく突然姿をくらました勝手な男になれる。それでいい。思う存分恨むなり、怒るなりして、あんな男と別れて正解だったと思って……ほしくはないが、しかたない。