パッと、が身体を離す。
「あ、一応入国してから十四日間はホテルに滞在してたから感染はしてないと思う」と申告してくるところがまた真面目ならしい。
「鍵、かけてるんだね」
さすがに外国だもんね、とがうつむいたまま独り言のように呟いた。手を洗いたいから洗面を貸してくれと言われ案内する。
「そんドア建て付け悪うて開かんだけばい」
え? と驚いたが笑った。なのに、眼が合うとすぐまた固い表情に戻る。
「この部屋なにもないね」と沈黙を埋めるように言葉を選んでいるのがわかった。
「ちょっといろいろあって経緯は省くけど、千里のお母さんにここにいるって聞いた」
だろうな、と頷く。
「明日の飛行機で日本に帰るから今日はここに泊めてほしいんだけど、いいかな?」
良かよ、と返せば、「よかった」と小さく安堵する声が聞こえた。
また沈黙が訪れる。
まだ陽が出ているのに、世界中が眠りについたような静けさだった。
「どうして急に学校やめたの?」
が今度は眼をそらさず俺に訊いた。
「どうして急にいなくなったの?」
答えるより先に次の質問が降ってくる。
「どうして──」
「特に意味はなかとよ」
「理由がないってこと?」
「そう」
「わかんない」
「ばってん俺はいつもこうばい」
「うそ」
「うそじゃなか」
こわい顔で立ち上がったが、「お手洗い貸して」と言う。
戻ってきたは眼の淵が赤かったが、それについては触れるなと言わんばかりの態度だったので触れなかった。
「わたし、『付き合ってるってことでいいんだよね?』って千里に確かめたことあったよね? 千里そのとき『良かよ』って答えたよね?」
覚えてる? と睨まれたので、「そぎゃんこつもあったとね」と返したらもっとこわい顔で睨まれた。
「……わたし、別れたって思ってないから。別れようって言った覚えもないし、言われた覚えもない」
そうきたか、と内心驚いたが、らしいとも思った。
彼女はいつでも言葉をほしがる。心にくっきりと輪郭があると信じて疑わない幼さがあった。
「わたしのこと好きじゃなくなったなら『もう好きじゃない』ってそう言って。別れたいなら、『別れたい』ってそう言って。ちゃんと千里の口から気持ち聞けるまでわたし納得しないから」
言いたいことは言い切ったとばかりには「はぁ〜お腹空いた!」と自分が持ってきたスーツケースを開けた。バカッと音を立てて跳ね開いた中からは溢れんばかりのカップ麺が大量に出てくる。
「一つあげる」とがその一つを拾い上げて俺に差し出した。お湯を沸かして、いつもより早い夕食にする。それから順番にシャワーを浴び、各々の時間を過ごした。はかばんからクロッキー帳とペンを取り出して絵を描いていた。俺は、畑を手伝っている老夫婦に頼まれた椅子の修理を再開する。
が「へぇ、木工もできるんだね」とペンを忙しなく走らせながら口にした。
「……部屋にあった荷物ってどうしたの?」
「まとめて捨てたばい」
「……そっか。あの器は?」
「器?」
「ほら、丼皿! 金継ぎで直してあった」
「あぁ、あれもたぶん捨てたばい」
「えー!」
「あれがどぎゃんしたと?」
「直して使うくらいだから大事な物なのかと思ってた」
がクロッキー帳を俺に向ける。そこにはヤスリで椅子の高さを調整する作業中の俺が描かれていた。
は見せるだけで満足なのか俺に感想を聞くこともなく、また別のものを描き始める。
「あれは親父が作ったと」
「え、お父さん陶芸家なの?」
「そう」
「へぇ! すごいね! じゃあ千里の才能はお父さん譲り?」
「そげなことなかよ。俺と親父はちーとも似とらん」
父親は朝から晩まで自分の工房に籠り陶芸を続けていた。腰を据えて一つのことに向き合う真摯な背中。そんな背中を見ていたはずなのに。姿形は似ていても魂が違えばまったくの別人だということだ。少しでもその気質が自分の中にあれば、ともっと一緒にいられただろうか。考えても意味のないことが頭を過ぎる。
「ベッド、使って良かよ」
俺はどこかそこらへんで適当に横になれればいい。タイの三月の夜はもう十分暑くて毛布も必要ない。
なのにがそっと俺の手を引いた。
「一緒に寝よう」
断る理由はないので一緒に同じベッドに寝転んで手を繋いだまま仰向けになる。
この家には天窓がついていて本来なら美しい夜空が楽しめるはずだが、窓が曇っているせいでぼんやりとした歪な月が遠くにあるだけだった。いつものことなのに今夜はそれがとても残念に思えて、その行き場のない感情をどうにかしたくてに覆い被さろうとしたら、ぐいっと身体を押し戻された。
「まだ恋人だから一緒に寝るけど、今日は気分じゃないからしません」
「勝手な女ばい」
が天窓を見上げたまま、「うん、自覚はしてる」と頷いた。
「月、まんまるだ」
ああ、見えなかったのはガラスが汚れていたからではないらしい。
けれど、の言葉で今夜の月が美しいことが俺にもわかる。それでいいのかもしれない。
自分の中にあった恐れや不安が形になって現れた。ああ、俺はこれがこわかったのだとわかる。こわいからこわいと思うことすら拒もうとした。
「、俺の眼になってほしか」
欠けた皿を継ぐように、裂けた布を覆うように、傾いた椅子を直すように、ふたりの関係を修復することはできるだろうか。
一緒に生きてほしいと愛を乞うこわさに足が竦んだが、自分の大きな左手は新しい扉のドアノブをすでに強く握りしめていた。