ここ最近白石がやつれている。
無理もない。相変わらず金ちゃんや千歳クンは自由人で、ことあるごとに問題を起こしている。
そのうち胃薬でも飲み出すんじゃないだろうか。
それにもうすぐ府大会が始まる。
去年勝てたからといって今年も勝てる保証はどこにもない。トーナメント戦だから一つでも取りこぼせば、もう上へは行けない。
プレッシャーに思わないわけない。
ここしばらくはそれを感じさせないが、元来白石はあまりそういったものに強いタイプの人間ではないはずだ。
それでもみんなを率いて、懸命に突き進むその後姿はこの人に付いて行きたいと思わせる何かがあった。
普段は部活中心の生活だが、もちろん部活じゃない普通の学校生活もある。
私たちは三年生だ。修学旅行がある。行き先は東京だ。
せっかくの機会だから白石が、束の間でも日頃部活で感じる部長としての重圧を降ろせたらいいなと思う。
しばしの間、金ちゃんバイバイ。
そんなことを考えながら行きの新幹線が新大阪を出る。
「お、千歳!そのお菓子、ワイにくれ!」
「おう、ええよー」
あまりにもはっきり聞こえる空耳に、思わず後ろの座席を振り向く。
そんなはずない、そんなはず…もう一度見る。しかしやはり状況はかわらなかった。
「なんで、金ちゃんおるんー!」
私の声が車内に響き渡った。
新幹線の車両と車両の間の連絡通路で、正座させられている金ちゃん。そしてそれを取り囲むようにして立つ学年主任とうちのクラスの担任と白石と私。
「どういうことや」
「ワイもみんなと東京行きたかったんや…」
「お前は一年生やろが!再来年や!」
「せやかて再来年は白石も千歳ももおらんのやろ!」
「…お前んとこの一年どうなってんのや…」
「…すいません…」
白石は全く悪くないのに謝る。このままじゃ本当に白石の胃に穴が空いてしまうんじゃないだろうか。
せっかく少しでも責任感から解放してあげられると思ったのに。
「ついてきてしもうたんはもうしゃあないから、私が一緒におるんでもう許してもらえませんか?」
私が担任らに提案する。ここは私がどうにかしよう。
「まぁ、一人で帰すよりこのまま誰かが面倒見た方がええかもな。じゃあ、頼んだで」
「はい」
話がまとまり、自分の車両に帰ろうとする私たちを白石が慌ててとめる。
「な、面倒なら俺がみよるわ!せやから、はー」
「ええねん。私、東京は興味あらへんし。うちの班は千歳クンも一緒やから大丈夫やろ」
「…それ二倍で大丈夫なんか?」
「……たぶん。とにかく白石は旅行楽しみ」
まだ納得していない様子の白石を残して、金ちゃんを連れて自分のクラスの号車に戻った。
金ちゃんは先ほどまで怒られていたのが嘘のようにはしゃぎ始める。
本当に大変な修学旅行になりそうだ。けれど私には丁度いいかもしれない。
東京に行くと嫌なことを思い出しそうで少し怖かった。
だからそんなことを考えないで済むように、金ちゃんたちを心配している方がよっぽどいい。
東京に着く。一日目はクラス毎の行動だ。
何箇所かの観光スポットをクラス毎にガイドをつけて回る。
クラス毎だけど、結局はみんな同じ場所を回っているから、隣のクラスの白石とはよく会った。
気遣わしげな目でこちらを見ている。
白石の性格上、気にするなという方が無理なのかもしれないが、もう苦笑するしかなかった。
一日目の観光が終わり、宿に着く。
ここからは基本男女別行動なので、金ちゃんは千歳クンに任せることにした。
目を離したら駄目だと口を酸っぱくしていったつもりだけど、二人揃ってどこか行ったら意味がないことを千歳クンが理解してることを切に願う。
部屋割りは同じクラスの女子と四人部屋だ。
喜ばしいことに三年生になり、私にもそれなり仲良くしてくれる子ができた。
特にこの一緒の部屋の中の一人は、何かと私に声をかけてくれる。
その子はサッカー部のマネージャーなので、同じくマネージャーの私に親近感を感じてくれているのかもしれない。
部屋に入り、大浴場の順番が回ってくるまでしばらく時間があった。
みんな一日中歩き回り疲労している。どこか別の部屋には行く気はせず、とりあえず適当に隅に荷物をまとめ、ちゃぶ台に集まり、お茶を入れて誰からともなく話し始めた。
そしてさすが女子だ。しばらくするとその会話の主題が恋愛になる。
「なぁ、やっぱりマネージャーってモテるん?」
「え?」
私とサッカー部の子の声が重なる。ややあってサッカー部の子が笑い出す。
「それは物語の中の話や。実際は汗だくになって泥まみれになるマネージャーなんて、女の子として見てへんで」
「そうなん?」
「部活入るとき先輩にも言われたんやけど、サッカー部に好きな奴がおってマネージャーになりたいんならやめた方がええでって」
「えー王道なのにー」
「夢壊してごめんな」
「さんは?テニス部もそうなん?」
「…そんなん考えたこともあらへんかった。けどまぁ、ないやろな」
「えー…」
彼女たちの期待には沿えなかったため、自然とそのあと話は違う話題に移った。
大浴場の順番が回ってきたので、お風呂を済ませ、冷たい飲み物を買いにロビーに降りた。
私は異様にお風呂が早かったので、他の同じ班の女子は一緒にいない。
一人で歩いていると、たまたま自動販売機の前で白石に会う。彼ももう入浴を済ませたのであろう、制服ではなくラフなTシャツ姿で、髪の毛がいつもよりペタンコだった。
目が合い、少し驚いたような白石が、瞬きをして私を見る。しばらくすると無言で目を逸らされた。
「どれ?」
目を逸らしたまま、先にお金を入れた白石が私問う。
「ピーチネクター」
てっきりただどれを買うつもりなのかという世間話かと思ったら、白石は私が言ったジュースのボタンを押し、出てきたそれを私に渡した。
そしてまたお金を入れて、自分用に緑茶を買った。
「お金、−」
「ええよ。今日一日、金ちゃんの面倒見たご褒美や」
ここで頑なに拒んでも余計白石が気にするだけだと思い、私は素直に受け取った。
「…自分、大丈夫か?」
もらったジュースの缶を開ける。
「?金ちゃんの面倒なら−」
「金ちゃんちゃうよ。、こっち来てからずっと塞ぎ込んでへん?」
白石が今日何度も見たあの気遣わしげな目で私を見つめる。
あの視線は金ちゃんにではなく、自分を見ていたのかと知って驚いた。
同時に自分も白石にとって心配要素になっていたのかと思うと申し訳なかった。
「ちょっと、向こうで話さへん?」
そういってロビーの端に席を移す。
周りには同級生がちらほらいるが、会話が聞こえる範囲内には誰もいないことを確認して椅子に腰を下ろす。
「あんまり、気分よくない話かもしれへんけど聞いてくれる?」
向かいの席に座った白石がこくりと頷くのを見て、私は静かに話し出す。
保健室で白石が助けてくれた、あの日からずっと話さなくてはと思っていた。丁度いい機会だ。
中学一年生の五月の大型連休中に私は事故に遭った。
目が覚めると、家族で車に乗っていたはずなのに、そこは病院だった。身体中が痛くて、わけがわからなかった。
しばらくすると誰かが部屋に入ってきたのを感じた。医者らしき人に何かいろいろ聞かれたが、あまり覚えていない。
まだ朦朧とする意識の中、私が他の家族は大丈夫かと問うとしばしの沈黙が訪れた。
ややあって、私が眠っている間に父と母とそれからまだ三歳だった妹がこの世から旅立ったことを聞かされた。
何の実感も湧かないうちにお通夜や納骨が慌ただしく終わり、私は東京の父方の親戚に引き取られた。
慣れ親しんだ大阪を離れ、何も知らない場所で、親しくない人間と共に暮らす事になった。
瞬く間に事が進んでいく。そこに私の意志は全く関与していない。
引き取ってくれたその親戚とはあまり折り合いが合わなかった。自分なりに迷惑をかけないように過ごしていたつもりだけれど、お世事にもうまくいってるとは言えない状況だった。
だから、たまたま伯母たちが私のことを引き取って後悔してると話していることを聞いてしまっても驚きはしなかった。
ただ「貧乏くじをひいた」と言った伯母の言葉が頭から消えなかった。
突然もうこの世に私を必要としてくれる人が誰もいないことに気がついてしまった。
そう思うともう何もかもが嫌になった。
事故に遭ってから必死に考えないようにしていたのに、「私も一緒に死にたかった」という願望が私を襲った。
学校にも行かなくなった。毎日膝を抱え、何もせず独りで過ごした。
そうしていると自分が生きているのか死んでいるのかどんどんわからなくなった。
オサムちゃんが来てくれたのは事故に遭って半年が経とうとしていた頃だ。
オサムちゃんは母方の親戚だった。子供の頃から会えばよく遊んでくれていたので、大好きな叔父さんだった。
オサムちゃんは私の部屋のドアを開け、手を伸ばして、一緒に帰ろうと言ってくれた。
私は無意識的にその手を取り、大阪に帰ってきた。
オサムちゃんは私に特に何も言わなかった。言わなかったけど、私にして欲しいことや小さなお願い事をよくした。
朝は目玉焼きがいい、夜は電気はつけて待ってて欲しい、洗濯は三日おきにして欲しい。
本当にどうでもいい事ばかりだったけど、私がそれをすると大きな手で頭を撫でてくれる。居場所を与えてもらっているようで嬉しかった。
だからこそオサムちゃんには頼ってはならない。今度こそ誰にも頼らず生きていかなければ、さもないと私はまた「貧乏くじ」になってしまう。
嫌な考えが私を支配して眠れない日すらあった。足を止めて考えたら、どうにかなってしまいそうで、より一層がむしゃらに頑張った。
部活も勉強も何もかも一つでも取りこぼしてはいけない。誰にも迷惑をかけてはいけない。全て一人でやりとげなければならない。
倒れたのは眠れない夜が三日続いた次の日の部活でだ。
目を覚ますと学校の保健室だった。真っ白で清潔な空間があのときの病院を思い出させて、身体が震えた。
頑張りたいのに、頑張らないといけないのに。頑張ってるのに…。
急にカーテンが開く音がして、そちらを見ると白石が驚いた顔で私を見ていた。
オサムちゃんを呼ぼうとする白石の腕を掴む。
白石の腕は細いけど、意外と筋肉質で硬かった。当たり前だ、テニス部なんだから。そんなどうでもいいことに気付いた。そして同時に私はものすごく久しぶりに他人に触れたことも気づいた。
途端、今まで懸命に押し隠してきた弱さが露見していく。一度緩んでしまった感情がとめどなく溢れ出す。
もう独りでは抱え込んでいられなかった。
誰か助けてという心の中の叫びが音を持ってしまった。
白石の手が私の手に触れる。その手は暖かかった。涙がわいた。
そういえば私は家族が死んで以来、初めて泣いたことを思い出した。泣くことすら忘れるほど、もうずっと苦しかった。
そのとき白石が私の手を握り、私の瞳を見て、言ってくれた言葉は私が今何より欲しいものだった。
「もう独りで頑張らんでええで」
独りでは寂しくて生きていけない。そしてもう独りで生きていかなくてもいいと、言ってくれる人が私にはいてくれる。その事実が私を救う。
私は今度こそ、やっと独りきりの部屋から出てこられた気がした。
話し終えても、白石はずっと黙ったままだった。
もう心配しなくていいとわかってもらおうと思って話したのだが、余計に心配させてしまったのかもしれない。申し訳なくなる。
「…まだそんな風に…思うことあるん?」
白石が苦しそうに私を見る。
そんな表情に私の方が辛くなる。
「思わへんよ」
もう一緒に連れて行って欲しかったとは思っていない。そう思わなくてすむきっかけをくれたのは白石だ。
「話、聞いてくれてありがとう。なんや話したらすっきりすたわ」
立ち上がり、ぐーっと腕を上げ、背を伸ばす。
「せっかくの修学旅行や。楽しんだもん勝ちやで」
少しでも私は大丈夫だと伝えたくて、できる限りの笑顔を白石に向ける。
それを見て白石も優しく微笑んでくれた。
その笑顔を見て私の方が安心していることに気づいておかしくなった。